Oct 07, 2008

試論

生けるラザロ(小泉義之著『病いの哲学』をきっかけに)

  
  未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん。――『論語』先進篇

 『病いの哲学』(ちくま新書)の著者、小泉義之氏の筆法をもってすれば、小文のこんなタイトルのつけ方こそ「死に淫する」考え方の最たるものをあらわしているかと思う。けれど、いちどでもじぶん自身の死という事態に直面したことがある者なら、生か死かの問題は、なかなか「晴朗で単純な選択肢」(228頁)というふうに考えることはできにくい。ただ、経験から類推するに、たとえそれが避けがたいものであれ、または理不尽なものであれ、事故であれ病気であれ、他人が手を下すものか自裁かも問わない、訪れる死という事態は、死ぬ人間にとってそれら各々のあいだに何らの差等を措くべくもない、まったくもって同一の訪れと考えることができる。たとえばエルネスト・チェ・ゲバラが官憲に捕らえられて民家の裏庭に連れて行かれ、頭を撃ち抜かれるまえに見た畑の雑草と、病院から生還していま私が見ている鉢植えと、そう違いがあるとは思われない。ゲバラにはたぶん草を見た以外の思弁はなかっただろうし、私はいま鉢植えを見ているということが永遠のことではないと思うだけだ。こういった事実に気づき、あらためて驚いた人間としても抱いた、やはりこれが生死の問題に対する私の感想であり、割り切れなさである。
 私は、2002年の1月に肺ガンの診断を下され(3期)、化学療法と放射線治療、及び手術の成功ののち、4月初め退院し、6月、左頭部に転移した腫瘍の治療ののち7月に退院、12月、左脚付け根に転移した腫瘍の治療ののち翌年1月に退院、同年8月、私のようなガンの場合、指標となる腫瘍マーカーの200を越えていたある値が、数か月のうちに160、30、5以下という経過をたどったのを受けて、1月以降それまで定期的につづけていた通院化学療法を休止する(同時にモルヒネ系鎮痛薬のオフもともなう)、そして、ガン自体に対する積極的治療の全体を休止して2008年の現在に至る、という病歴を有する者である。担当の医師はガンに関して、もう緩解と言っていいのではないか、との所見である。三度にわたる病発とその治療による後遺症として、現在、比較的軽度の腎不全(徐々にではあるがクレアチニン値の漸増、つまり1・2くらいから1・9に至る数年間をかけた上昇)、右腕に起きるてんかん性の痙攣発作(放射線治療の痕跡の、運動野に属する患部周辺の浮腫が数年単位で漸増傾向にある)、左脚付け根の少しの変形とこわばり(洋式便器しか使えない)等がある。現在たんぱく質と食塩の食事制限中で、血圧降下の意図もふくんだ腎臓薬および降圧剤を服用中(ディオバン、アムロジン等)。このほか、ヒダントール、ガバペン、サロベール、ペルサンチン、グリチロン等を服用する。また若いころ精神神経系の疾患を負った名残から、就寝前にコントミン錠12・5㎎を服用している。

  1 死の瞬間
 
 いささか「陰気な話」(9頁)になるが、まず死とは何か、を考えることにしたい。入口はソクラテスである。

 ソクラテスは死んでいることは生きていることから生ずるとするが、その場合に考えていることは、肉体が生きている状態から死んでいる状態へ変化すること以外にはありえない。では、肉体における生体から死体への変化は、互いに反対の二つの状態の一方から他方への変換であるのだろうか。そんなことはありえない。ソクラテスに限らず、ほとんどの人は、死の瞬間があると想定している。(40~41頁)
 ソクラテスは死の瞬間、生と死を区切る線を、生体から魂が欠落する変化と思い込んでいる。そして、暗黙のうちに、魂が入り込む以前の肉体のことを、魂の欠落した死んだも同然の肉体と見なしている。とすると、ソクラテスは、魂が抜かれたかのように見える肉体が存在するとするなら、それは本来の生から脱落し、死の状態に限りなく近接する、死んだも同然の肉体と見なしていることになる。(43頁)

 ここで逆接的に押さえられているソクラテスの言説は、まず生の状態と死の状態があり、前者から後者に移行する境界や瞬間が存在するということ、それは肉体から魂が離れる境界や瞬間でもあるということであろう。私は、問題は魂の所在だと考えるのだが、ソクラテスの生きた時世(ときよ)とは異なり、現在では魂を、意識とか心、せいぜい精神や、また神経生理や脳の問題に読み替えて考える傾向にあるようだ。
 生から死への移行にあたり、心はどこに所在するのだろうか。死の床を理想的に考えて、長い臨終状態と想定するとき、多く意識の混濁や昏睡がそのひとのフィジカルな状態だろうと考えられる。リアルにはどうであるのか、とても断言はできないが、二度手術台に上せられ、二度全身麻酔を施された経験を言えば、数時間にわたるオペのあいだの時空は意識からまったく欠落している。主観的にも客観的にも。「首がちょん切られた感じ」とでもいえばいいか。最初のほうの手術のあとで瞬間的に立ち上げられた覚醒時、ばら色の花のような形象と「楽毅論」という観念が浮かんだのを覚えているが、そのまえの記憶は、脊椎に麻酔の針が刺し込まれた痛覚とやはり瞬時の意識の暗転(欠落)のほかには存在しない。けれどその間、心がどこにもなかったにも拘わらず、私は死んでいないのである。
 ふたたび考えるに、だがそのとき私が死んでいなかったというのは、術前の私といま生きている私との連続がたまたま途切れなかっただけで、なんらかの事態が出現してそのとき私に死が訪れたとしたら、心がどこにもないまま、私は死に移行したことになる。結果論ではあるけれど、もしそのとき私の連続が断たれていたとしたら、私の心がこの世に別れを告げたのはオペの冒頭、麻酔による意識の欠落の「その時」ということになる。つまりこれこそが、逆説めくが「死の瞬間」ということになるのだ。私の生や死はたまたまの結果に過ぎない。そんなことがあるのだろうか。
 最終章、小泉氏はフーコーの『臨床医学の誕生』から敷衍して、次のように述べる。

 死の瞬間はない。死は境界ではない。生の終わりは瞬間でも境界でもない。同様に、生の始まりは、瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散、これが末期の死の実情、そして、生そのものの実情である。(218頁)

 ソクラテスをこの立場からまたひっくり返して考えると、つまり、魂を意識や自覚的な心、明晰なイデアと捉えるからおかしなことになるのだ。ただ、生から死への移行は瞬間でもなく境界でもないだろうが、生と死のそれぞれが、自覚的な心や意識を有する人間にとって同じものではあり得ないこともまた確かなことだろう。細やかな移行の遅速はあるけれど、生と死ははっきりと別々の状態なのだ。そしてここに自覚的な心とも意識とも、またイデアとも異なる魂の在不在を想定することは、あながちに妄説とも思えない。あたかも小泉氏が奇跡の存在可能性を信じるように、魂の存在可能性というものについて、これといった現世的な明晰判明な反証を見いだすことは困難だと思う。
 これを別面から言えば、確かに自覚的な心や意識に死の瞬間は存在しない。「そのとき」自覚的な心や意識の欠落という事態がしばしば到来しているからだ(あるいは後出するように「死は人生のできごとではない」=ウィトゲンシュタイン=からだ)。けれど不随意的な心(これについても後述)、言い換えれば魂の存在と、それがかき消える「時」や「場所」というものを否定しきれるか、どうか、ということだ。
 否定しきれるとしたら、「私」にとって自覚的な心や意識が物理的に消失した・させられた時をもって死の定義としなければならない。
 「死んだ」こと(それは「私」にとっては意識の消失を意味する)が確認されたあと、息を吹き返したとしたのなら、私は死んでいなかったのである。こういう例は古来よりいくらでも挙げられる。そして、息を吹き返すことがないとすれば、私は死んだのであり、やがて腐敗に接続してゆく屍体と見なされる。これが、当人ではない他者、つまり医療従事者や家族から見た瀕死者の生死の(少なくとも「そのとき」の)区別であるほかはない現状であろう。
 源氏物語などでは、息を吹き返さない葵の上について、親たちは嘆きのあまり「まさなきこと」(おそらく死後硬直とそれにつづく腐敗現象)が出現するまで然るべきことどもを行わないが、これを昔人の蒙昧として嗤うことは私たちにはできまい。どんなに科学が進んでも、生活反応の復活をふくむ同様の例外とそれに対する期待は必ず存在するからだ。
 当然、脳死者の問題もこれにふくまれる議論のひとつになる。脈拍、呼吸、血圧、脳波、心電図があらわすものは身体の物理的な諸兆候であって、けっして魂の消息ではない(意識のレベルでさえない)のだ。その人の心がどうなっているのか、どこにあるのか、当人以外はまったく知る由もないのである。「意識が消失」していてさえ、なお。
 谷川雁にこんな詩行があったのを思い出した。

青山常に運歩す では人間の苦悩も
するどく生かされた山水木石ではないか
      (「恵可」谷川雁詩集より)
「するどく」が余計なような気もするが、人間も山水草木の一部にほかならないとすれば、意識があることに過剰な意味・価値を置いてもしかたがない、とむしろ私は考えてみる。意識(心)もまた山水木石の一風景だといえよう。もう少し考えれば、生物・無生物の違いに絶対的なものを見ることさえどうであろうかとも思う。生物はいくぶんかずつ無生物の要素があるし、無生物もなにがしか生物の要素を持っている。人間の心や意識や生の感覚も、この無生物から来る深淵を取り込んで初めて存在しているのではないだろうか。意識や自覚的な心やイデアという概念ではくくりきれない、魂という古くからある、そしてたんなる迷信の形とばかりは言い切れない考え方も、ここいらあたりに関係してくるような気が私にはする。
 さっきもちょっとほのめかしたけれど、不随意性という概念はこの書が提出している諸問題にとって、かなり重要なタームだと思われる。小泉氏はガブリエル・マルセルの次の言葉を引く。

不随意性という概念を深くきわめてゆかなければならない。これは、被造物の被造性をもっとも根底において構成しているものに対応する概念だと思われる。この観点から精神的な生を全体として定義して、それは、われわれが自分のなかの不随意性の領分を少なくしてゆこうとする活動の総体である、と言えるのではないかと考えている。(172頁)
私が諸事物を自由に処理することができるようにさせているその当のものを、私は現実に自由に処理することができないというところに、おそらく、不随意性ということの形而上学的神秘の本質が宿っている。(174頁)

 自覚的な心や意識をもってしては及ばない領分があるということ、そして、その不随意な領分こそが、自覚的な心や意識的な判断により、私がじぶん自身やじぶん以外の対象に自由に働きかけ、分節し、結合させ、総合するという可動性を、根底で規定し保証するものであることが語られている。自覚的、意識的であることが自体何で可能であるかといえば、それは、おのがままならざるものによって、言い換えれば意識の閾を超えたところからやって来るものによって、意識そのものの基礎づけが為されているからだ(ここでなんとなく、かのアルキメデスが「我に梃子を与えよ。されば地球をも動かしてみせよう」と言ったという伝承を思い出す。だが地球を動かす梃子をまた動かすことを可能にさせているのは、沈黙の宇宙の動かざるなにものかだ、と言える)。
 だがそれは唯物論的な意味での、純粋に物質的なところに由来するのでは必ずしもないように思う。心も物質であるとする太古の唯物論の立場から言えば、純粋に非物質的な領域に由来する論議とも言えないのであるけれど。腕や足を動かすのは当の腕や足によっては動かされないもの(およびそのことにまつわる神秘)であると考えるなら、自覚的な心や意識を超えてそれを基礎づける、容易には意識の水面には顔を出さない不随意性の魂という概念やそれにちなむアレゴリーも成立すると私は思う。私たちの心の世界は、それほどに深く、時として激しく、時として悦ばしく、また恐ろしいものをひめている。フロイトの無意識は果たして作業仮説にすぎなかったのだろうか。心肺停止していない植物状態の人間や脳死者について、われわれにいったい何ほどのことが解っているのか。
 「尊厳死」や「安楽死」について一言だけ触れるなら、生と死は、意識的であることが意味を成さない領域に関わるものであると考える以上、つまり、魂というものを意識や自覚的な心の上位に置くという立場からは、容認できるものではない。自ら撰ぶものであるにせよ、家族が撰ぶものであるにせよ。自殺や殺人は現実態としてある程度の実数は不可避なものであるにしても、「尊厳死」や「安楽死」は言い換えられた自殺や殺人であることを忘れるべきではない。それはあくまでも否定性のコンテクストのうちに語られるべきだし、その法制化は、おのがままならないものに対する、別の言い方をすれば自然に対する、人間の貪りを背景にしている。おそらく現代人の心は古人のそれよりも、ずっと小さくて弱く、痩せたものになっているのだ。

                  2 生という経験

 この小さな項ではしばらく『病いの哲学』本文から離れる。冒頭の『論語』の引用ではないが、「未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」というように、生死は一対一体のものとして考えられることが多いようだ。しかし、少し立ち止まって考えてみるに、死についての言説の多さほどに、生それ自体についての言説は多くはないような気がする。死は自体として語られることが多いのに、生はその有という性質からか、いさおしや名誉、酒や女、美しいもの醜いもの、苦悩や喜びや悲しみ、愛憎、といった内容の多様性に覆われて、自体として語られる部分は意外に少ないというのが実情ではないだろうか。
 つまり、生は経験に置き換えられるということだ。さきほども引いたが、ウィトゲンシュタインの有名な言葉に「死は人生のできごとではない。ひとは死を経験しない。」というのがある。けれど、生が人生のさまざまなことがらの経験であるとしたら、その当体である生自体は経験に属すのか。私は生自体も人生のできごと(=経験)ではないという考えに立つ。もしこの言説が成り立つとすれば、それは生の発生そのものが人生の外側に足場を置いているということに対応するだろう。いまここにいるという私の生は、やがていなくなるという私の死と同様、私にはまったく理解が及ばない、いまの私とはかかわりのない部分があるのだ。
 こういうことが言えるのではないか。死が経験に属さないものだとしたら、生もまたしかり、死の瞬間が経験に属さないとすれば、生が発生するその瞬間もわれわれの経験に属さない。では、真の生そのものや死そのものは、それらは、「いまの」わたしには与えられず、知られないだけの「隠された経験」だとでも言うのか。
 うまく言うのがむずかしいが、生を例に取れば、たったいま、この瞬間「生きている」こと、その生の感じ、実感は、経験として私に与えられている、生そのものの一つの側面にすぎない。この「感じ」はまぎれもないが、その生そのものを私は「経験裡」にはいわば確定することができない。生死をひっくるめてそういう事態を確定している経験の外側、生死の外側のなにものかがある。時空の外にあるアプリオリな形式とでも言うほかないような。
 生死はおそらく両面ではなく一である。生きてあることと死んであることとは、たぶん同じことなのだ。先にも引いた「生への死の分散、死への生の分散」というのは、内在的にはこのことの別の言い方だと思う。仏法に次のような言葉がある。道元『正法眼蔵』第一「現成公案」(岩波文庫版)から引く。

かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生(しやう)とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。(第一分冊56頁)

 およそ世界の存在者は不生不滅、生ずるものでもなく、ゆえに滅するものでもないことを、高らかに宣している。おそらく死はアプリオリなものだろう。同様に生は(死と異なり)アポステリオリなものをその内で語りうる、同様にこれもアプリオリなものだと私は考える。生を現実の側から見るのではなく、経験的なものとして固定的に捉えるとき、われわれはいくぶんか、ものごとに対して思弁的、観念的に接しているのではないだろうか。だが、このアポステリオリな思弁や観念に、私が何かしら切ない懐かしみのようなものを感じてしまうというのは、どうしたことか。いまはもう吸わなくなった、むかしのタバコの匂いみたいに。

  3 病ととりもどし

 クロード・レヴィ=ストロースは、1977年のCBC(カナダ)ラジオにおける講話のなかで(『神話と意味』みすずライブラリー)、幾何学的な観念の起源の問題について、古来からある議論、つまり例えば円などの観念は白紙状態の心に経験によってもたらされるのだ、という説と、もともと円や直線の観念はイデアとして人間の心に本来備わっているものだ、という両説を挙げたあと、次のように述べる。

 さて、現代の神経生理学者たちが視覚について教えるところによりますと、網膜の神経細胞および網膜の後方にある他の器官は役割分担が決まっているのだそうです。ある細胞は垂直方向にまっすぐなもののみを感じとり、他のあるものは水平方向、他は斜めの方向、そのあるものは背景と中心映像の関係のみを感じとるという具合です。そういうわけで(中略)経験と心の対立というこの問題の全体の解決は神経系の構造のなかに見出されうるように思われます。心の構造とか経験のなかにではなくて、心と経験のあいだのどこかで神経系が築きあげられるやりかた、そしてその体系が心と経験とのあいだの仲介をするやりかたのなかに見出されると思うのです。(9頁)

 形而上学と生理学とに二極化されがちな議論を、文化の具体性として鋭く根拠づける言明といえるが、私がここで触発されたのはそういうことではない。
 先の「病歴」の自己紹介でも触れたけれど、私の左の脳の運動野には治療後に残った9ミリほどの傷がある。今でも、昏倒や意識の混濁こそないが、てんかんに属する痙攣発作は2~3週間に1回ほどの頻度で出現する。たいていは軽く3~4分ほど、さいしょ見えない針に刺される感じ、それから鋭い電流の走る感じが右手右腕に来る。ひどいときは随意にならない筋肉の激しい動きをともない、バタバタという感じで上膊部ごとあばれることもある。自覚的にも、また傍目にも、なんらかの事態が起こっているのは右手右腕のパーツにほかならない。知覚も経験も心もそう見なしている。だが、現実にてんかん性の放電のようなことが生起している部位は、そのパーツは、脳の左側なのである。あまり専門的なことに踏み込むわけにはゆかないけれど、これは、たとえば右手を切ったら血が流れて痛みがある、という事態とは少し異なるのではないだろうか。痙攣発作が起きているとき、頭部の左側には何ら際立った感覚もないのである。
 この病以前には、たまたまシャツのボタンを付け替えたときに違和感があり、そのせいだとずっと思っていたのがじつは帯状疱疹の痛みに繋がるものだったことや、何の自覚もないのに検診の結果、間質性肺炎の診断を下され、CTの写真にポコポコと壊死した真っ黒な空洞が写っているのを示されたすえ、何度目かのCT撮影で突然病巣が「消えて」いるのを見たり、この病(肺ガン)に関してはそもそも痛みや呼吸困難という、想定されがちな兆候がまったく無く、声の変調(嗄声)から検査をしてみて初めて判った、ということなどから、少なくとも身体の見えないところで起こっていることは「自覚的」「合理的」には何一つ判ったものではないことを痛感している。
 [手術によって声帯をめぐる神経が切断され、声のほとんどが失われたにも拘わらず(声はもう出ないと医師に言われたと記憶する)、現在の私は普通の声で普通に喋ったり歌ったりしている。筋肉の他の部分が代替しているのだと説明すると人はなるほどという顔で納得するけれど、2回の転移をふくむ3つの部位にわたるガン(担当医師は「最悪の経過だった」と最近になって私に打ち明けた)がいま緩解を迎えていることと併せ、私の身に起こったことは一つの奇跡に匹敵する怖ろしい事態なのだと、個人的には思っている。ラザロという言葉(ロゴス)が思い浮かんだゆえんである。]
 さて、「心と経験のあいだのどこかで神経系が築きあげられるやりかた、そしてその体系が心と経験とのあいだの仲介をするやりかた」というレヴィ=ストロースの言説がこのとき注目されるのだ。なぜならそれは、診察と検査とによって診断が下され、病名を確定するという西欧医学が、その発展成長の過程で捨象してきたものを示しているような気がするからである。
 つまり、病名が確定されて初めて病が成立する(それは治療法が確定することでもある)という西欧医学的世界観は、病に陥っている当の人間(医者ではなく)自身の「心と経験のあいだの仲介をする」もの、言い換えれば病者自身が自らの病が「何であるか」を知り、理解するという側面をみごとに捨象してきたのではないかということだ。病む者はじぶんに何が起きていて、なぜこういう、多くは苦痛という形で訪れる感覚に繋がるのか、実感的に理解し、納得したいのだ。
 しかし、絶対的受動者としての病者、つまり患者を病院の医師は相手にしているのであって、医師は患者が自らの(それは医師の、でもある)病気について医師と同じように分析的に解釈するのを、ほとんど職業生理的に嫌悪する。医師と患者とはけっして一つの象限に同舟することはない。医師は体系立った専門的知識という、いわば乱数表ともいうべき特権にして武器を、病という具体性に当てはめてその世界を捉える立場だ(具体性としての病はつねにその乱数表で分節される世界を少しずつはみ出した、不整合なところから、言い換えれば、自然を源泉とする領域からやって来ることは、しろうとでも分かることだ)。交換可能な二人の人間がいて、病という事態が二人に関わって存在する場合、「乱数表」を持つのはどちらか一人でいいし、その乱数表は一つでなければならない。
 たとえ病者が同時に医師であったとしても、そして自らのために処方した薬を服用したり自らの肉体にメスを入れたりしても、彼が乱数表を当てはめるのは「じぶん」ではなく、あくまでも対象としての身体、他者のそれと同じく他としての肉体にほかならない。譬えて言えば、このとき彼は、人が経験と、言い換えれば世界と、心、つまり「じぶん」とを結びつけている神経系の構造を介するのとは別の経路で、自らと、病んだ身体を見ている。いわばじぶんの心と、病んだ身体という経験とを排中律的に眺めていると言うべきなのではないか。その加療時、病者である医師のなかで、苦痛を感じている一つのパーソナリティであったときのように病者と医師は一つであるのではなく、ふたたび象限を異に峻別されるのである。
 私の経験では、すぐれた医師はこの専門的知識という乱数表が有機的組織のように柔軟に伸び縮みするけれど、そうでない医師はこの乱数表が堅い物差しのように、曲線的かつ柔らかであるほかない対象に直線的に当てはめられるのだ。円を、回転の要素を欠いた直角定規で描こうとしているのだ。すぐれた医師の場合はその説明の一つ一つが具体的で理解でき、病者はいまじぶんに何が起こっているのか納得できるし、それが「神経系の構造」を介した手触り、実感に至る可能性さえ、しばしばほの見えたりする。そうでない医師の希望的な見立てが、しばしば病者を絶望でしかない現実に陥らしめるのと鋭い対照をなすように。
 特に医師を始めとする医療従事者のすべては、『病いの哲学』の次の箇所で語られるような事態に深く思いを致すべきである。かれらにとって患者の生(とその尊厳)は往々にして禁忌の対象であることにはじまって、驚くべきことにそれが存在することへの無視に至り、患者そのものを奇怪にも非人格の軽侮すべき対象物のごとく扱う場合がある。

もちろん病人は悲惨である。そんなことは誰でも知っている。しかし、「生命、しかも病的な生命」は、「もっと深い、もっと隠された、存在論的レベル」に位置している。深き淵にいるのだ。とすれば、それに相応(ふさわ)しい「根本的な地位」を賦与しなければならないのは明らかではないか。(224頁)

 ところで『病いの哲学』ではいままで述べてきたこの乱数表というメタファーを、コミュニケーション・ギャップというタームであらわす。

排除と包摂の構造があろうがなかろうが、「利得」があろうがなかろうが、病人は徹底的に受動的で無知で無力な状態に置かれる。自分の肉体の来し方・行く末についてさえも無知で無力な状態に投げ込まれる。(中略)病人は回復を望むが、無知で無力である。これに対して、医師は、回復のための知識と力を持っている。これが、コミュニケーション・ギャップである。(196頁)

 むろん、医師が実際に「回復のための知識と力」を持っているか、いないか、実際に「回復」させるか、させないか、という現実に関わりなく、コミュニケーション・ギャップは存在している。また、すぐれた医師であろうが問題のある医師であろうが関係なく、このコミュニケーション・ギャップは厳然と存在する。この配置にはどこか秘儀的なところがあるのだ。おそらく、シャーマンが病を治していた時代、クスシが病人の脈をとっていた時代とそう変わるものでなく、でもだから旧習を改めましょうという論議にはならないような微妙な問題だと私は思う。シャーマンが村の人間の病を治す図と、先端の医療設備が整った病院で医師が患者に対する図とのあいだには、なにか相似て共通した普遍性のようなものがあるのではないか。私自身はこの「配置」を、否定的にのみ考える立場をとらない。ここから拡がってゆく「文化」の問題には、意外に大きく深いものがあるのではないかと思うのだ。
 このコミュニケーション・ギャップの問題に接して、小泉氏はパーソンズの言説から治療可能性と治療不可能性という概念をみちびく。

 「医師の治療の根本的な限界」「不確実性の非常に重要な領域」が、厳然として存在しているのである。パーソンズが見据えているのは、このクリティカルな地点である。治癒する場合においてさえも、いわゆる自然治癒力の寄与分と医師の処置の寄与分を切り分けることはできない。(199頁)

 この「不確実性」の領域は現実のすべてに膜のようにかかっている。ある現実からある術語を導き出すことはできても、その術語で現実そのものを顕示することはできない。厳密な意味で現実を「再現」することはできないのだ。その術語であらわされるのは、現実というよりその分断である。なぜなら術語は術語であって現実ではなく、術語と現実とは絶対に可逆的ではあり得ないからだ。医学が(科学が、と言い換えてもよい)現実や自然に対し、ますます網の目を細かくするような昨今を目にするにつけ、不確実性は縮小するのではなく、細かくされて網の目が増えた分だけ、それに対応して、却ってその領域を拡大させているように見える。じぶんの患者の症状が予想に反して悪化したり、逆に消滅したりするのをまえに首をひねるということは、むしろベテランの医師に多い経験なのではなかろうか。医師はほぼ術語によって病という現実と関わり、その治療は術語の範囲以外の領域にも関係して病という自然の一項に加えられると考えることができる。「いわゆる自然治癒力の寄与分と医師の処置の寄与分を切り分けることはできない」ゆえんであろう。私はいま、この「自然治癒力の寄与分」ということに深く沈思を傾けたい思いがしている。ただやみくもに「治りたい」のではない。病ということを通して生を理解したいし、その全うされた形、言い換えればその突然の訪れさえをも容れうる了解性として、死をわが内海としたい。希望は、そんなところにあるという気がしている。
 このとき、まえに言った「神経系の構造」というものに重点を置いて病にアプローチするやり方、つまり自らの身体性に実感的に迫ろうとする動きが気になってくる。整体やヨガ、中医学、マクロビオティックなど(しかしこれらはいささか過去の話柄に属するものかも知れない)、これらの動きは現在医療的なものに繋がる色んな分野で澎湃と立ち上がっているようだ。とはいえ、自らの身体について実感的であるというのは、いかにも逆説のように聞こえるがほとんど百八十度の世界像の転回を要するほどの難事だと、自身の経験に照らしてつくづく思う。また過渡期にありがちな(私は今を乱世だと思うが)、胡乱な話や商売ネタに類する言説もたくさん振りまかれ、それを科学至上主義という俗信がここぞとばかりに攻め立ててあざわらうという構図も、随分見てきたような気がする。アガリクスやメシマコブその他に祈るように縋っていた何人もの療友を亡くした。オウムのこともあった。けれど、私が痛感するのは「神経系の構造」を介してのみ、また、その自然からの糧道ともいうべき回路を手放さないことでのみ、人は世界と、自らと、繋がっていられるということだ。そして付け加えたいのは、神経系の構造は知覚を統べるが、それは人にとっては不随意性そのものであるということだ。この不随意性そのものはたぶん、人生の出来事に属さない。これがあるから人はその生の切所要所において、厳粛で、適切でありうるのだと思う。マルセルだったらこれを神秘という言葉であらわすだろうが。
               07/02/23                        
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Sep 23, 2008

評伝

大木重雄誄


 そのじっさいの謦咳についに接することがなかった。私がいつかそっちのほうへ行く仕儀となっても、芭蕉の書簡によくあるように「猶追而貴面」(手紙の書面ではなく、実際にお会いしてお話しします)というわけにもまいらぬだろう。けれど、私が現実にお会いした誰よりも、大木さんとは密実な手紙や葉書のやりとりがあった。大木さんと袖振り合うほどのご縁の方の誰しもが、びっしりと白紙や桝目を埋めたあの懐かしい細かいペン文字を思い浮かべるのではなかろうか。紛失したものも多く、そのことが今ではこころの生傷のように痛むのだが、遺された手紙葉書がいま私の横のここに積まれてあるのを見ても、つくづくと思う。ここに大木さんは居て、現在でも私に、ここから放出される未来のことまで語り尽くして倦んじない、と。それはビデオやコピーのたぐいではない。一枚一枚が取り替えの利かない、大木重雄という深い一回性の現前にほかならないのだ。
 大木さんは生前、あまり作品集というものを出すことにこだわらなかった。業績としてジョン・P・オニール著『メトロポリタン美術館の猫たち』(誠文堂新光社、昭和五十八年)という翻訳書が一冊あるというのが、ダニエル社から二冊の詩集を出す以前の公式の記録といえる。大木さんのものされた評伝『回想の牧章造』(坂井信夫氏個人誌「索」に十五回連載)によれば、大木さんは戦後すぐから詩や小説を書き、発表してきたが、その総数は私としては知るべくもない。それらが輿論においていかなる評価を受けたかも、個々についての詳細を、大木さんはその細かい文字による消息の一片だに残すことなく持って行ってしまわれた。繰り返すようだが、私の手元に残されたのは、詩集『山谷堀寸描』(平成十九年二月、ダニエル社)、第二詩集『愛にひきあげられて』(平成二十年六月、ダニエル社)、それから私宛の大量の手紙、葉書類のみである。此によってこれにより、大木さんの人となりと生涯を、その一端なりとも想い起してみたい。
 大木重雄さんは、昭和三年、東京・浅草に生まれた。ご尊父は歌舞伎界の道具方の重鎮であったことが、葬儀の日の弔辞により明らかにされたが、たぶんよちよち歩きの時分から歌舞伎座の観客席はもちろん、楽屋や奈落まで出入りされていたのではないだろうか。学齢時代は山谷堀尋常小学校から京華商業、それから年譜的には明治学院に進まれて戦後を迎えた。この間に、昭和二十年三月十日の下町を襲った東京大空襲に遭遇し、九死に一生を得ている。このことは、私思うに大木重雄氏の一生涯をほとんど被うほどの翳となってその身に寄り添っていたのではないだろうか。卒業後、生計のために汐留の日通でアルバイトなどするうちに、詩人の牧章造と出会い、親交を深めるきっかけとなる。のち、やや転身して立正中学・高校に奉職し、立正大学で英文学など講じるに至る(筆者宛書簡より)。戦後、結婚した百合子夫人と一男をなし、平成十八年、夫人を亡くされる。「それは私の死も同然だ」(『愛にひきあげられて』あとがきより)。
 私とは、たぶん平成十五年ころから個人的に親しくさせていただいた。きっかけは拙詩集をお送りし、それへの評が好意的以上のものに感じられ、個々発表した拙作についても丁寧だったり辛辣だったり、ときに過褒とも思われる言葉をいただいて、ついに十冊ほどある、あまり評判も取らずにわが家の押入で眠っていた詩集をふくめ、愚作のすべてをお送りする仕儀にまで立ち至った。大木さんの言葉はつねにわが詩作の励みであり、その見識と直感の鋭さにおいて、豚を木に登らすにじゅうぶんな力を持っていた。
 詩のことに関してはさておき、私がお送りした文庫本サイズの飲み食いの話『解酲子飲食』(かいていしおんじき)は大木さんをことのほか喜ばせたようだ。あのなかで「銀座の魚屋」と書いたのを大木さんは見咎めて、はて銀座のしかも木挽町あたりに魚屋などあったか知らんとおっしゃるので、「歌舞伎座裏の魚石です」と答えたら、《お礼申し上げなければならないのは私のほうです。木挽町界隈はわりあい知っているつもりでしたが、知らないことが多多あると分かり自戒しております》と書いて寄越されたが(平成十五年十二月四日付葉書)、今から考えると誰を相手にものを言っていたのか、私もめくら蛇に怖じずで、随分恐ろしいやりとりをしたものである。冷汗一斗とはこのことだ。
 私の前便で江戸料理の泥鰌や田螺のことを話題にしたところ、上記の返信でこんなことを書いておられたのが、いかにも大木さんらしい。《先日脚の故障をおして久久に歌舞伎座へ言ってまいりました。「お染の七役」の小悪党鬼門の喜兵衛と土手のお六の侘び住まいの場面で、喜兵衛がみずから求めてきたアテで、お六に酌をさせるところがあります。そのアテを喜兵衛がはっきり「たにしの煮つけ」と言っております。(中略)「たにしの煮つけ」というのは当時の庶民のもっとも安直なアテだったのでしょう。これは南北の闇の世界…。》(同前)。
 いったいに大木さんの飲食というのは、あるいは、飲食から見た世界観と言ってもいいが、ご自身がまさにそうであるように、骨の髄からの江戸人のそれにほかならない。清酒好き、魚好き、肉は得意でなく、歌舞伎の見巧者、見知らぬ町へ行ってその町の銭湯に入るのが好き、推理小説やクラシック音楽をいたく好み、フランス語に堪能、英語はご専門、だが、そういうことをひけらかすのは野暮天がすることとばかり、その種の話柄に出会うと「顔をしかめた」そうだ(佐野菊雄氏の弔辞による)。その東京の下町に寄せる思いは並々のものでない。いつか小さな詩の集まりの仲間で、忘年会をやったことがある。場所は深川は高橋(たかばし)の「山利喜」。そのときのことをおもしろ可笑しく書いた私の駄文がまた大木さんのお眼鏡に適ったようで、その尺牘をここに紹介しても差し支えあるまい。
 《「林」の忘年会「山利喜」とはやはりという感じ。発案者は当然倉田さんでしょうね。倉田さんの食物記を拝見すると、尻が落着かなくなります。と言って蟄居の身、お便りを食するしかありません。「目に毒」と言いますが、目のほうは年賀執筆中に襲われました。いつもなら数日でおさまるのですが、今回はなかなか旧に復しません。世はショーチュウ党一色で、すし屋でも「イイチコ」などが取置きで満杯のとき、皆様日本酒党のようで、わが意を得たりです。でも「山利喜」にナチュラルチーズやアンディーヴが登場するなんて、私の時代遅れもはなはだしいと言わねばなりません。何回も拝読しているうちに、発狂(?)にも似た妬ましさを覚え、すごすごとお便りを封におさめました。有難うの上に「お」をつけて鶴見までふわふわ飛んでいきたい、と言うことではありません。むしろ大変元気づけられました。奥様もかなりの酒豪のご様子、もし良いアテでもあればどうなるのでしょう。(息子も楽しそうだなと嘆じておりました)》(平成十七年十二月三十一日付葉書全文)
 「山利喜」をちゃんとご存じであった、というのは話の順序が逆で、むしろ私のほうが下町の人間なら誰でもが知っていたはずのこの店に、よくも巡り合ったものだという僥倖めいたことを思うべきなのかも知れない。これも、めくら蛇に怖じず、のたぐいであろう。そういえば上述の食物記で、「日本堤のけとばし屋に行った」と書いたら、おいおい君、という感じで、困りますね、私の縄張りにまで入ってきちゃあ、といったニュアンスのお便りをいただいて、このときもいたく恐縮した。「日本堤のけとばし屋」とは、桜鍋の「中江」である。こういった下町の店々を友人たちと飲み回って深更にいたり、気がつけば今までそばにいたはずの彼らみんなが幻のように消えていた、という氏の幻想小説の一端を拝読させてもらったことがあるが、これは死者となった若き日の友人たちへの愛惜であると同時に、「戦(いくさ)が緋のマントにくるんで持ち去った」「前世」の記憶(『山谷堀寸描』より)、その中にしか存在しない大木さんの東京下町というものへの秘められたる鍾愛といえるのだ。
 大木さんの下町好きはまたその歌舞伎好きにも通じる。詳しくはないのであまり大きなことは言えないのだが、さっき紹介した葉書の文面にも鶴屋南北が登場している。河竹黙阿弥もお好きのようであったが、これは私の好みと重なる。役者では断然菊五郎。ただし六世で、これをオン・タイム、生で見るのを得たことが大木さんの大きな財産のようであった。葉書の中で大木さんはこんなことを書いている。《「間」は「魔」で歌舞伎でも同じです。私が今も六代目菊五郎を尊敬してやまないのは「魚宗」のセリフの「間」に鳥肌が立ったのを忘れないからです。》(平成十七年八月二十日付葉書)。また、中村歌右衛門と坂東玉三郎のやりとりをこんな風に言う。《(妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)について)歌舞伎ではとても通しはのぞめませんね。精々「山の段」―「道行」―「館の段」ぐらいですが「山の段」が見ごたえがあります。それで思い出したのですが、六代歌右衛門が定高(さだか)を演じるとき、他の人とは違うところがあると聞いた玉三郎が、自分が演ずるとどこが違うか知らせてほしいと頼んだそうです。結局はちょっと小腰をかがめて顔をそむけるうれいの姿(後段の伏線)だったそうですが、玉三郎がどうやったかは覚えていません。いま歌舞伎座建て替えの話があるそうですが、あの辺をよくご存じの倉田さんはどうお感じでしょう。戦後やっと歌舞伎座の上演が許され、焼失した歌舞伎座でなく筋向かいの東劇で上演、私も行きましたが、出し物は「助六」、いくら名優の六代菊五郎でも揚巻はどうにも「アクタイのハツネ」も通りませんでした。》(平成十八年六月十七日付葉書)。「あの辺をよくご存じ」とは、私がかつてあのあたりにあった出版社で、フリーランスとして七年ばかり仕事をしていたことがあるのを指す。「木挽町の魚石」はそのときの話である。また、六世菊五郎の「アクタイのハツネ」とは何かが、今の私には判じようもないのが、隔靴掻痒のごときものであるのだけれども。
 大木さんの文学に関することと言えば、創作を別とすれば、大いにご自身に影響があったというか、その文学的体力に資するところがあったのは、やはり英語であり、それから独学でやって来られたというフランス語の文学であろう。あまり詳しくはおっしゃらなかったが、英語圏ではジョン・ダンを読んでいた一時期があるという。またフランス語ではボードレールの『悪の華』全巻を通読されたのが大きいと思う。大木さんは野暮な大声を出されない人なので、このほかにも泰西の大小詩人たちに関する知的な蓄積量に、目を瞠るものがあることはその片言隻語からじゅうぶんスパークしていた。そのスパークが分からない向きにはまた「顔をしかめ」たことだろう。
 音楽ではモーツァルトのどれそれ、シューベルトのどれそれといった、作曲家や作品そのものを評するというかランクづけするということはあまりなく、誰のどんな演奏がよかったかとか、演奏者の逸話や表情といったことに重きを置かれていたようだ。つまり作品がどうであるかというよりは、その現前たる演奏や演奏家がどうであるか、といったことに興味の中心がおありだったのではなかったか、と書けば、我田引水になろうか。この曲はこの演奏家に限る、という言い方もあまりされなかったように思う。
 詩以外では、小説は無類にお好きであったと感じる。海外文学だが、ドストエフスキーは全部お読みになったのではないだろうか。「近代文学」の作家としてだろうけれど、埴谷雄高の『闇の中の黒い馬』など、私に恵与くださった。埴谷は私は若いころ、一種の思想家として考えていたものだが。それから島尾敏雄の『贋学生』に話が及び(手紙でである)、あれを若いころ読んだことがあると書いて送ったら、あれまではなかなか島尾を読んだと言っても読んではいないのだ、とお褒めに与った。あの作品を石川淳が評して「駄作というより、世紀の悪作である」と言ったと教えてくださった。ついでに、島尾敏雄を大作家という人がいるが、じぶんは島尾が「大」のつく作家という気がしない、とも話されていた。
 その詩的履歴については、なんといっても『回想の牧章造』が第一資料として挙げられよう。これをなんとかして、パンフレテールな形ででもよいからまとめておき、流通させたいものと思う。金子光晴始め、じっさいに大木さんがその謦咳に接した詩人たちが走馬燈のように出現しては消えてゆく、そのまぢかの息遣いさえ聞こえてくる貴重でレアな記録である。また現在では失われてしまっている、幾時代かの雰囲気のようなものがそくそくと伝わってくる。ちなみに原爆詩で著名な大木淳夫は、大木さんの御縁者のようである。大木さんは決して原爆詩や空襲詩や思想詩などは書かれなかったが。
 最晩年、という言い方も私には口惜しいが、その晩節に夫人を亡くされたことが大きな痛手であろうことはみずからも仰られ、また容易に他からも推し量ることができようが、それを境としてそれまでにも傾向としては萌芽をのぞかせていた、一種の神秘思想に傾いてゆかれた形跡が窺われる。先にも言ったが、ジョン・ダンを読んでいた一時期があったということを告白されてもいる。夫人を亡くす一年前であるが、こんな葉書を寄越されている。《また今生を相対視しはするが、迷信には行きつかない(拙詩集『夕空』のあとがきによる)、の迷信とは「ある種の神秘主義」でしょうか。シュタイナーをかじった私には耳が痛いのですがおっしゃる通りでしょう。》(平成十七年八月二十日付葉書より)。そして、最後となった第二詩集『愛にひきあげられて』に顕著なキリスト教のしかも旧教の面影が濃厚な詩群、それは亡夫人との深い対話を為すものであるが、それに通じる葉書の一節をここに引いてみる。《私はもっと単純に考えます。人間(というより私自身)は一個の生物体に過ぎませんので他の生物と同じ道筋に従う。この自覚はかなり若い時期に訪れました。家族は子供の誕生を祝うが、子供自身は誕生しなかったことを祝われるべきではないかと。しかし、現在はすこし変わってフィルムを逆回転させ、幻の母の胎内におさまればよい終結だと。凡庸な「胎内願望」に過ぎませんがほんのすこしの「神秘」が加味されています。》(平成十九年三月十日付葉書より)。
 この女性性にかかわる「神秘」が、大木さんの晩節に訪れたと見てよいのではなかろうか。いっぽうで、大木さんにはこんな側面があるのだ。《……ここだけの話ですが(ビトウイン・ユー・アンド・ミー)、私が「女色に潔癖」などよくお判りになりましたね。正確に言えば「女性への恐怖心」とも言えるでしょうか。女性は現世に足がついていますが、私は二、三センチ宙に浮いて生きてきたようです。昔、ある文学の会合である女の子が、私を見つめて、私の詩を全行すらすらと暗唱したことがありました。その結果はご想像にまかせます。》(平成十七年五月二十六日付葉書より)。
 ここで言う「恐怖心」がどこからやってくるのか、にわかには判じがたいけれど、思うに、むしろ女性たちを強く引き寄せてしまう要素が、大木さんにはありていに言って可成りにおありだったのではなかったか。みずから仰るごとく、大木さんにはあまり、ではない、全くと言ってよいほど女色への嗜好、いいかえれば俗臭が感じられないのは事実だ。それが神秘的な氏の女性性とどうかかわっていたのか、精しくは大木さんご当人にあちらに行ってからゆっくり伺うにしても、その俗臭の無さの理由のひとつに、ご自身が過剰なまでに固く身を律することをされていたことが挙げられる。その潔癖さの根源をはるかに思えば、却って「色を好むが如くする」(『論語』)という言葉が思い浮かんでくるのは、一体どうしたわけか。むしろ女性性をめぐることがらは大木さんにこそ相応しい。若い吉本隆明がかつて太宰治と面談したさい、君その無精髭を剃りたまえと言われた、所謂「マザー・シップ」の伝説など思い合わされる。ご母堂や夫人に支えられて生きてこられた大木さんが、「女に愛されない男」であるわけがない。むしろ大木さんという少年的な存在が、女性性の篤い庇護を受けているという、聖画の構図のようなものさえ浮かんでくるようだ。
 ご夫人が逝かれたのが平成十八年、大木さんが逝かれたのが平成二十年。なんと短くて長い、遅い、遁走曲のひまであったろうか。大木さんの訃報を聞いた夜、大木さんは女性性という大いなる神秘へ還ってゆかれたのだと、つまらない句でもって一瞬のミサとした。

 水無月のやへがきとはに妻籠みに  解酲子
   
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Sep 13, 2008

宗教・神話・詩論

具体性の詩学ノート3 地名、詩、差別のことなど


 ある存在が具体的に存在するとは、どういうことなのだろうかと考えた場合、それはその存在が世界と繋がれてある、というのがひとつの答えとなってくるような気がする。人間に引き直してみれば、その人間の帰属先ということであるが、先の戦争のこともあってか、このことを公明に論議するのが避けられてきた嫌いがなくもなかったようだ。
 復古とか国粋とかの翳りなくして、この問題にあたうかぎりの精確さをもってあたってきたある部分が、たとえば柳田國男であり、たとえば折口信夫といった人びとと言える。彼らは、ある個性や集団のアイデンティティがまさに危機に瀕していた近代の始め、その個性や集団を支えていたアイデンティティそのものが奈辺にあり、どこに帰属していたのか、柳田はモーセのような指導性をもって、折口は鋭利な学匠詩人の内面で、深く掘り下げていったのだ。
 人が具体的に在る、と言うとき、もちろん米を食いパンを食して屋根のある場所で寝、畑へ行って芋を掘り、あるいは鎚をふるって鋤鍬を鍛えるのだが、それらのことが具体性なのではない。柳田や折口がさぐったのは、人びとはただ己の欲求したままにそれらを行為するのではなく、ひとつの理法とも言うべきものに則ってこれらを行い、理法もふくめたそのことに初めて具体性がある、という現実にまつわるsomethingなのだった。
 この理法のことを詩だと言ったら、性急に過ぎ、またおおかたの向きの顰蹙を買うだろうが、といって何か積極的な理由がなければ人は、たとえば食べ物に色々な料理法を加えることさえしないと思う。食べ物に限定すれば、食べてはいけないとされる物が、別の場面では薬として摂取され、また、それどころか、ある家(神職など)では禁忌の対象である食べ物が、他のおおかたの家々では大変なご馳走であったりする理由というものにも、少しく地上的ではない性格があるのではなかろうか。これをそのまま詩だとは言えないにしても、そこに連接してゆく性格がある、とまでは言えそうだ。
 最近柳田の『地名の研究』を読み返してみて思ったのだが、それは、われわれは抽象的な空間に符号のように点在しているわけではなく、あるひどく具体的な言語圏、風土、季節や気候の中に血を通わせていて、その取り巻く環境(milieu)の重要な項目に地名というのがあるのではないかということだった。このことは、一旦東京のような都市にいると往々にして忘れがちなことではある。
 われわれは自分の帰属先のヤカラ・ウカラを思い浮かべて、じぶんのことを一般的に日本人と称するが、たとえば英国人は、じぶんはウェールズ人である、じぶんはスコットランド人である、という具合の言をなすそうだ。よその国のことは調べていないのでよく分からぬところがあるが、少し前の日本人なら、熊谷二郎直実が武蔵国熊谷の人、新田義貞が上野国新田の人であること等は常識であって、地名と人の名(家の名)が切り離せないものであること、たとえば平家語りの、能楽の、あるいは浪曲での主人公の名乗りに同じである。
 これは歴史的に言えば、近代国家成立以前の人の帰属先というものを表現していると言える。いささか、ここでも性急な口吻をもってすれば、「帝国」成立以前の、クニが暴力装置としての巨大機械に変貌する以前の、もっと小さな単位で生活が成り立っていた地名たちというものの気配がそこにある。
 柳田によれば、地名の発生は最初は地点名ともいうべきもので、「黒岩とか二本杉とかいう類の狭い場所だけしかさしておらぬ」ものがそれである。同じものでも、それが「山の麓のやや続いた緩傾斜地」を意味する長野となると、「そこにお寺の大きいのが建って繁昌すると、後には市の名となって、谷陰にも大川の岸にも及び、さらには県庁が設置せられると、後には広い信州一国の県名とさえなった」。私の住んでいる横浜でも似たようなことがあって、京浜急行の各駅停車が停まる仲木戸という駅があるが、そこは東海道の木戸が置かれていた場所で、付近にカナガワ(上無川、金川とも)といわれる小川が流れていたのがそのまま宿の名や区の名となっている。もともとこの土地、江戸の開国にあたり、アメリカ領事館等西欧人のさかんに往来する、政治経済上の重要地点となったせいでもあったためか、明治の改元の折に早々と県の名にまで拡張せられて今日に至っている。
 つまり、京都とかそれに関係する人工的な名づけである東京、外国で言えば王城の名そのものであるソウルや北京、サンクトペテルブルグなどは別として、ローマとアルスター、柏と横浜と岩手に差異はあっても大小優劣のヒエラルキーは何ら存在していない。長野は本来あくまでも「山の麓のやや続いた緩傾斜地」であるのだ。ここでよくよく考えなくてはならないのは、それらのすでに出来てしまっている差等を無にするのではない、けれど、いつだって、今ここでさえ、存在しているたとえば柏と横浜と岩手が、みな契機としては平等に抱懐する可能態のようなものについてだ。
 たとえば、江戸のころにも当然都市と農村の格差はあったけれど、重要なことはそれが地方と中央の格差のような形ではなかったことだ。これが、破滅的な現在とは違う点だ。医者でも儒者でも絵師でも、江戸期には肥前長崎には誰それ、備前岡山には誰それ、摂津高槻には誰それといった具合に、名だたるオーソリティは各国に分散して住しており、現在のようにほぼ東京一極に集中するということはなかった。学びたい者はそれぞれ旅をして、彼らに会いに行ったのである。可能態とは、このパラレルな分散がモデルとなる、江戸と岡山と長崎と高槻の、大小優劣のない、潜在的な絶対的平等状態のことをさす。
 これを来訪される側の地方からすれば、自らの土地や集団、職掌、社稷に誇りを持てたと言えるのである。私の見るところ、地名に付随し、かつ人が外部集団に向かってする、古代から続く「名乗り」、それは一種の神の顕現であるという性格により、却って普段は絶対実名を明かさないが、それが形式として最高度の成熟を見せたといえるのが、封建といわれるこの江戸期にほかならなかった。私の家では現在でも親戚のことを、名で呼ぶことにあまり意義が感じられないので、八王子のとか、宮城のとか、名古屋のとか、呼ぶが、これなど「名乗り」の一種でありながら、地名の陰に実名が隠れてしまった例といえる。
 こういった事例にかこまれて、われわれは世界内に存在する理法を感じることができるのだが、古代の歌謡や長歌、短歌、中・近世の連歌俳諧の中に詠じられた山川の名、海浜の名、それらをふくんだ歌枕などは、大げさでなく、数千年にわたってわれわれの詩になじみの深いものだったのである。志賀の海に、と言い、石見のや、と詠ずる。このときにまず第一に土地=地名であるべき実在に、人は、詩を理法としつつ繋がれたのである。だが、詩の近代はこのことを絶えず無化する方向の中にあった。即ち、近代がもたらした、都市=中央のあまりの偏奇な栄えと地方の破壊的な衰退が、詩から地名を奪っているのだ。
 他方、おもに関西地方に無数に点在する、天皇直属の部民であったり、寺社の神人集団だったり、職掌集団であったりしたところの集落差別の領域にも、このことは踏み入ることになるであろう。志賀の海に、と言い、石見のや、と詠ずる、と書いたが、こういった世界内の実在感と帰属感は、裏返せばそのまま、差別にまつわる実在感と帰属感に連接してゆく気がする。さらに、詩と差別の問題は深く相関している、との予測も立つ。
 ひとつ、言えることは、この問題には神のことと詩のことが切り離せず、さらに信仰のことと社会的役割のことが骨がらみになっていて、この深層が表層に、表層が深層に、裏返っているごとき状態を冷静な認識のピンセットで弁別してみることが第一。第二には、詩によってのみ可能な、地名の地形への還元というか、地名を地形と相等なものとする、大小優劣のない絶対的平等状態への構想力を提起しておく。これにより、区域はかぎりなく小面積で、地名はかぎりなく多くなるか、あるいは、一区域に地名一つ二つという少数になってゆくか、地形の事情によってどちらかに別れてゆくであろう。
 いずれにせよ、マチが野を圧倒するのでなく、野の中にマチが点在して見えるような光景があって初めて、真の、誇りうる、地名にかかわる詩が出現できるのだということを強調しておきたい。


「COAL SACK」61に掲載  
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Sep 03, 2008

詩を読む

近藤弘文「膝を抱えた」について


 詩論というのでは大げさになるが、「SPACE」no.81に載った近藤弘文の詩の、感想のようなものを書きたい。さいきんの近藤の作品の常ながら、作品のボリュームは小さい。「SPACE」に載った「膝を抱えた」は見開きにも満たない、16行という分量なのだが、以下に示してみる。


膝を抱えた

そのとき
わたしからはなれる声の虚が
としての雨上がりの空に
ひび割れた光が散っていて
かえせよ
みあげた子宮の活字は
に無の網膜を諳んずるだれかの
膝を抱えた
あ、蜻蛉
破水の墨でひいた暗がりを
はあかごの籠に
を刻印するでしょう
のそこに座る
、ということが
やまないんだね
光の膝


 まず気づくことは、句意、文意といったものが、走査線のように入った意図的な断裂によって飛散しているという印象だ。ふつう、一文の文意は、最初に名詞か、あるいは名詞化された分節(文節)から語り出され、読点のつくような箇所で指向性を帯びた空白を抱きつつ句切れをし、句点のつくような場所に(空白の)問題解決的に着地する。本来、分節の末尾に接続すべきこの指向性を帯びた空白が、文の頭につくようになっているのがこの作品をひどく特徴づけているところである。文の頭に名詞や副詞や形容詞・動詞がつくといったふつうの構文ではいわば「頭でっかち」の文となるところが、この作品では逆に頭が削がれていて、文の実在感が非常に希薄になっているのだ。
 他方、「としての」「に」「は」「を」「の」「、」といった行の頭に来る不安定的な指向性の品詞群を除いて読んでも、ほぼ、詩としての体裁を失わず、出来の如何を問わなければ、まったく安定的に読み進めることが可能だ。批評家の阿部嘉昭みたいだが、私も真似してちょっとした操作をここに加えてみよう。


`膝を抱えた

そのとき
わたしからはなれる声の虚が
雨上がりの空に
ひび割れた光が散っていて
かえせよ
みあげた子宮の活字は
無の網膜を諳んずるだれかの
膝を抱えた
あ、蜻蛉
破水の墨でひいた暗がりを
あかごの籠に
刻印するでしょう
そこに座る
ということが
やまないんだね
光の膝


 気の抜けたラムネのような味わいになってしまったのは如何ともしがたいけれど、ここで明らかになることは、読点・助詞・格助詞・連語などが行頭に来ることによって生じる半ば無理やりな不安定感こそが、作品「膝を抱えた」の要諦にして琴線であるということだ。
 こういう挙になぜ出たか、私にはよく分かるような気がする。近藤は、担保することを求める言葉、回収することを求める言葉、食べることのできない言葉強迫する言葉生きていない言葉から逃れようとして、非・意味の無数の走査線を担保的な言葉や現実の表面にはしらせ粉々にし、却って言葉でないところから言葉の真の意味を追う、といった、いわば絶対矛盾的自己同一のような冒険に出ている、と私は見る。自由な世界へは、叩き壊さなければその先に行けない、といった遍歴が必要となる。このとき、叩き壊すこと自体に自由の匂いがたちこめることがある。これは私の言葉だが、ここで「前衛」に堕すか、それとも「前衛」を超えたところに行くか、危険な岐れ路だといえよう。
 じっさい私にも覚えがある。措辞を敢えて破壊するというつもりはないけれど、構文を末端から揺るがし罅割れさせていって根幹に迫りながら、新しい意味が出現してくるのを俟つ、という詩の作り方をしたことが私にもあるのだ。近藤はサミュエル・ベケットに深い関心があるようだが、私も若いころ、翻訳でその小説『モロイ』や、当然『ゴドーを待ちながら』を読み、そのきわめて冷血で空白的で散乱した言語のうちに、散文的文法ではなく明らかに「詩法」の自由の空が拡がるのを感じた。ただ、近藤と私が異なる点と思われるのは、私の場合積極的にその空へ突き進むべき肯定命題が感じられたのに対し、近藤の場合は担保でも回収されるのを促すのでもない、時空の逃亡師としての言語をベケットに見ているのではないか、ということだ。素質の違い、と言っても、時代の違い、と言っても、どちらも違うような気がする。
 ところで、詩「膝を抱えた」の構文を逆に見ると、「頭削ぎ」の行頭それぞれ1語くらいにすぎない品詞を取り除けば、詩の言葉自体は実になだらかな日本語ではないかという印象を私は持つ。詩風はむしろセンシティブでやわらかい抒情詩だ。同じく「前衛」的な、次の詩の断片とくらべてみるとそのことはいっそうはっきりする。


三角形の多い土地で、美術館は瞋っている。絵画は音符を並べている。来館者は休止符である。建築のもっとも美しい角度ともっとも醜い現実が、休止符の中に堆積してゆく。音符は他の音符を切り刻み、音符の破片は菌糸として美術館を伝導する。せりあがった彫刻たちは音符の表面に囲まれ、音符の先端は彫刻を貫通し彫刻の影に紛れ込む。僕は音符と休止符を演奏する。なぜならば僕は三角形だからだ。
              (広田修「探索」現代詩手帖2008年8月投稿欄より)


 近藤は「なにぬねの?」というSNSで、彼の愛するたくさんの戦後詩を紹介する欄を持っている。彼の年齢にしては実におびただしい作品を「所蔵」しているのだが、あるとき彼も交えて何人かで酒を飲んだおり、近藤が、これら多数の作品や詩人のことを通時的に考えたことは全くなかったと言ったのにちょっとした驚きを覚えた。詩史論というものを自分は持たないのだと。では、もし詩史論が「物語」に過ぎないとすれば、われわれの寄る辺はどこにあるのか、という戸惑いを、この発言に感じる一方で、これは詩史論という呪縛から逃れて、自由への入口に立つものかも知れないと考えた。このとき、比較のために引いた、修辞としては非常に美しい広田修の作品にくらべて、近藤の抒情性が別の何かしら新しいもののように際立って見えるのである。詩の構文の散乱的なビューは、「ひび割れた光が散っていて」や「光の膝」という行がキーワードであるごとくに、この16行を、般若心経や陀羅尼といった「経文」のような見かけのもとに光被しているのだ。
「子宮」「破水」「あかごの籠」と、嬰児や幼児のイメージが顕著だが、これは、たとえば、外界に対しては暴力的なまでの修辞によって守られるべきもの、という寓意があるような気がする。守られるべきものとは詩であり、あるいはそれを書く詩人自身でさえあるのではないか。少なくとも、「膝を抱え」るのは余人ではないと思う。そこにあるのは詩についての詩、己を風景と見るまでの、自分に対する分裂的なまでのまばゆい愛だ。近藤弘文の現在の「詩」はここにある。さしあたって似た資質、個性の現代詩人を考えると、高貝弘也あたりが思い及ぶに近いところか。
 そうなると、「あ、蜻蛉」は、「あ、トンボ」ではなく、「あ、アキツ」と読みたい心が動いてならないのだが。

                                   2008/09/02
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Aug 11, 2008

日本の絵師たち1

若冲綵絵

 ある長い時間の尺度をとって、ひとつの文化文明の頂点とみなされる時期はたしかにあり、ほぼ日本語を母語とするわれわれの居る地域の時代区分で言えば、江戸期がそれに当たるのではないかと私はひそかに思っている。その江戸期の中でもさらに絶頂と考えられるのが、伊藤若冲がさかんに絵筆を動かしていた、西暦でいえば十八世紀中葉にあたる、宝暦、明和、安永に渉る時期の京・大坂であったと、これはかなりの確信をもって言い切ることができる。
 思いつくままに名を挙げていっても、同時代人には、若冲の周囲を見ただけでも、相国寺僧・大典顕常、売茶翁、木村蒹葭堂、また同じ京には、与謝蕪村、池大雅、円山応挙、大坂には近松半二、名古屋には、加藤暁台、横井也有、江戸には平賀源内や司馬江漢などがいて、私などはため息が出てしまう。この宝暦から安永末年に及ぶ三十年間、それ自体永遠に接続したきらびやかな仏国みたいな時間が現出したと想像できるのだが、やがて東日本では天明の大飢饉、京では天明の大火(一七八八年)によって、この奇跡のような日々におおきな翳りがやって来る。事実若冲も京を襲った天明の大火によりみずからの居を焼かれ、伊藤家と若冲が深い由縁を持つ大刹・相国寺も焼亡する。晩年の最後まで衰えることなく絵筆を動かしていたようだが、若冲八十五翁、みずから刻した多くの羅漢の石像に囲まれて示寂したのが寛政の御代が終わる前の年(一八〇〇年)で、翌年からはじまるキリスト紀元十九世紀には、すでに幕末の干戈のひびきは忍び寄っていたのである。
 こうした、若冲の生きた時代とは一口に言うが、現在と異なるどんな時代でも、とりわけて古い時代の作物について、何かしら言及する場合に考えなくてはならないのは、その時代にそれをものした意識というのが、現在と異なっているということ、そしてそれはディテールに渉りかなり論理的に徹底しているということである。別の時代のことを具体的に考えるとは、こうした眼のいわば「異なる光学」みたいなものが必要だと思う。
 それかあらぬか、洋の東西を問わず絵には画題というものがある。画題とは、日本の詩に譬えていえば、長歌に付属して反歌というものがあり、そこから反歌が分離して和歌となる如き、背後にエピソードを引きずった、和歌当体やまたその兼題のようなものである。この長歌のようなものから独立したのが近代絵画であり、独立しきれていないのが近代以前の絵画や芸術だ、という言い方もできる。
 古い絵はほぼすべて、この画題に依らないものはないと言い切ってよいと思う。画題におけるあるテーマの反復は、背後に隠されている寓意の存在に連なるものだ。歌で言えば、まだ和歌が命脈を保っていた中世前期あたりまで、歌の詞(ことば)の端々に古代の神話的生活の名残を匂わせていたわけで、和歌が和歌として存立していられたのは、長歌をさらに遡源したそのような神話的世界が、未だ歌の背後に生きていたからだと思う。いわば和歌は、長い叙事的時間を背後におりたたんでいるのだ。譬えが長尺になったけれど、ちょうどそのように、画題はおうおうにしてその中に入れ子のように、深いエピソードともいうべき精神的世界、言ってみれば大きな神話的世界や宗教観を、寓意の形で抱懐している。
 この寓意の端的な例として、若冲のたぶん壮年期の作と思われる水墨画で「仔犬に箒図」一幅がある。縦長の紙本の天に近い上部に賛があり、画面の三分の二くらいの右上から、斜めに左下へ、一本の箒が立てかけられ、画面の地からやや浮いた感じの地面と思しきところに、箒の黒い棕櫚の部分をかかえるように白い仔犬が蹲っている。蹲った仔犬の目が鋭く、また画面の三分の二を斜めに抉るように分割した、箒の黒と余白の白のモンドリアンのような対比が「現代的」でしゃれていると思うことのほかは、おそらく、古い物に嗜好を持たぬおおかたの現代人にはそれほどの感想がないのではないか。
 だが、じつは若冲は(おそらく菩提寺の)相国寺の臨済の世界や、後年世話になることになる黄檗の教えに深く親炙していた人だ。この墨画は「趙州狗子」(あるいは「趙州無字」)、つまり仔犬に仏性が有るか無いか、という禅の公案に基づいた古くからの画題によるものなのだ。俵屋宗達も応挙も富岡鉄斎も、また当然のようではあるが仙厓義梵和尚そのほか無数の画人が描いたこの画題の背後にある公案のエピソードとは、詳細にわたるのは避けるが、かいつまんで言うと、あるとき一僧が趙州という高悟の僧に訊ねた。(このかわいらしい)仔犬にも仏性があるのでしょうかと。趙州は即座に「無し」と答える。さてその意は? というもので、絵に描かれた仔犬も箒もすべて何らかの寓意を持たされていることは確かなところで、若冲の場合、白い仔犬の目が鋭く描かれているのも意味ありげである。
 現代の目から見て、しゃれてるわねの一言で感想を終わらせないとすれば、画面上部に四行にわたってしたためられた賛、たぶんそれは詩偈として書かれた黄檗の丹崖和尚(無染浄善)による七言絶句の、おそらくは若冲自身による写しと思われるものだが、その賛を無視するわけにはゆかない。私はまったくこの方面には暗いのだが、こんな文字が見えるような気がする。「趙州門外不看児/其佛棕櫚毛帚載/佛性不須曰有無/満(?)蓙三昧汪(?)是起」。最後の行ははなはだお寒い読字でまったく自信がないのだけれど、要するに、「わたくし趙州が属する僧門=世界内のほかで犬の仔を見ることはない、あんたの言う仏とはその箒の棕櫚の毛に載っているようなものだ、仏性はほんらい有無を言われるものではない、ただ座禅する蓙に三昧は満ちて溢れる云々」といったような意であろうかとは想像できる。仔犬とは限らないが、存在者の中に仏性の有無を問うた瞬間に仏性は消えて無くなる、そういった、仏性というものの(実体本質論的な本性ではなく)ありかたとしての常在を説いたものであろう。
 ちなみに宗達の「双犬図」にも、その没後に丹崖は賛を寄せているが(後賛というそうだ)、丹崖と親しかった若冲は当然丹崖を介し宗達の「双犬図」について、直接見るか、話を聞くかしたと思われる。宗達の犬は黒白で二匹である。そういえば、趙州狗子の画題の仔犬は鉄斎にしても仙厓にしても応挙にしても、ほぼ「双犬」ないし「群犬」だ。若冲の犬は一匹だが、図柄的にはたとえば宗達画における白犬の、もう片方の黒犬が黒い箒に変じていると考えると、少し寓意の隙間が空く。禅家において箒は重要な存在で、行脚の僧が寺に泊めてもらったお礼にその庭を掃いて出たり、庭掃除が大切な修行の法であったり、また庭を掃き去ったときに小石が当たって火を発した瞬間、大悟した僧の話など、なかなか侮れる道具ではない。また、同じ時代の蕪村の禅味のある水墨画に(蕪村は浄土宗徒だが)、若冲のそれによく似た棕櫚の箒を描いたのがあって、その横に「一潑一墨掃破俗塵」と一行、賛があるのを見る。
 それやこれやで鑑みるに、どうも若冲においても箒は俗塵を払う重要な法器として映っていたようで、「其佛棕櫚毛箒載」は、かなり痛烈な言語とみることができる。管見の及ぶかぎりでは「狗子仏性」の他の仔犬はすべてが愛くるしく描かれており、それが「無仏性」という法語のさわりともなっているはずだが、反して若冲の仔犬は身を屈め眼光鋭く、仏性の有無を「掃破」する棕櫚箒とともに、悩み多き暗愚凡小のわれわれに襲いかからんとするかのようなのだ。あるいは仔犬は眼光鋭く、却って仏性そのものかも知れないこの棕櫚毛の「其佛」を載せた箒を、狛犬のように守護しているもののようでもある。
 こういった解釈の反転と一種の鋭さは、彩色された絵になるとじつに華麗な文様として時空を読み替え、森羅を覆ってゆくことになる。イロニーとか反語的とか言わないが、何かそういった普通でないところ、浮世娑婆めいていないところに、昨今の若冲人気の秘密があるような気もする。ここで少しばかり若冲畢生の大作ともいうべき、「動植綵絵(どうしよくさいえ)」について考えてみる。
 宮内庁三の丸尚蔵館発行の図録『動植綵絵―若冲、描写の妙技』によれば、若冲ははじめ、狩野派系の絵師に絵の手ほどきを受けたようである。若冲が生前に自らつくり、大典が碑文を撰した墓銘碑「寿蔵碣銘(じゆぞうけつめい)」にいう、すなわち、そうしたまねびだけでは狩野派の囲繞を越えることはできない、そして狩野派の画法を捨て、当の狩野派も学んだ大元の「宋元画」を臨模すること千本に及んだ、しかるに宋元の中国画人たちは現実の動植を直に見て描くのに対し、自分はそれを臨模するだけであって、その動植物を物に即して直接に描いているわけではない、そこで村里に飼われているものとして馴染み深い鶏ならば、羽毛美しく、彩色に工夫を凝らすべきで(描画の対象として格好である)、鶏数十羽を自宅の庭に放して観察し写生すること数年、(さらに)その描くところ、草木、羽毛虫魚に及び、絵の神髄に達することができた云々――とある。
 動植綵絵は文字どおり、花、鳥、草木、皓月、日輪、流水、降雪、紅葉、虫や魚介に至るまで、動植物のみならず花鳥風月のあらゆる現象に触手を伸ばし絡めた、いわば万象を色彩と意匠で埋(うず)み尽くしたかのような「怪作」とでも言うしかない作品群である。ただし、森羅万象を感じさせるこの作品を、ただ斬新な色やデザインの装飾で覆われた、友禅や京焼の絵付けなどにいまでも見る単なる工芸品のみごとさに類するもの、と捉えるだけでは片手落ちであろう。ほぼ宝暦六~八年から明和三年頃にわたる、約八年から十年という(思いのほかに短い)制作期間を経て完成した、三十幅の絵の中心に据えられるべきは、じつは釈迦三尊像だったのである。つまり、ほんらいは動植綵絵は、若冲の帰依深い相国寺に寄進された(末弟の宗寂の追善の意もあるという)、同じく若冲筆の釈迦三尊像の荘厳画として制作されたものなのだ。図録に言う、「『動植綵絵』が単なる花鳥画でないことには、重要な意味がある」(4頁)。つまり、ここにも近代絵画とはいささか性格を異にした、画題というものにかかわる問題を残響のように聴くことができる。
 伊藤若冲筆、動植綵絵三十幅。いうまでもないことだが、絵の分類としては花鳥画に属する。若冲が臨模し学んだ宋元画とは(さらに明清画もそこに加わると思う)、主に院体の花鳥画を指すことは疑いない。かつて根津美術館で南宋絵画展が開催されたとき、院体画の典型のようなのを見たことがあるが、また大倉集古館で明清の宮廷花鳥画を見たときの印象もそうだが、その冷徹で凄まじいばかりの精妙巧緻な対象描写と、一見矛盾するようだがその典礼的な装飾性の共在は、「十百本」を臨模しただけに動植綵絵にもそのまま窺われて、私などは唸らされた。ただ、著しく異なる点はその寸法で、動植綵絵が大略一四二×七九センチの大きさで揃えられているのに対し、院体の花鳥画や明清の宮廷画は、縦横ないし幅三〇センチをいくらも越えない意外な小ささである。動植綵絵が「怪作」であるゆえんは、じつにその大きさの中に、院体画や明清画の密度を実現してしまったところにあると私は思う。
 ところで、対象描写の精密さと装飾性の共在ということについてだが、図録一番の「芍薬群蝶図」を例にとると、飛んでいる蝶の形態はまことに正確無比と感じられ、芍薬もかさなりあう花弁ひとひらひとひらの色彩の濃淡が質感にまで高められて、まず目で見た実景に限りなく近いように受け取られる。はずである。が、どこか眼の知覚とは違うぞともささやく声がする。羽を半ば閉じながら芍薬花の蜜を吸う姿はともかくとして、群蝶はこんな展翅ピンで広げられた標本みたいな姿で飛んでいるはずはないし、芍薬にしたって何か解剖とはいわないが、前後左右上下から徹底して観察された後に、いわば傷口をふさいで綜合された絵柄のように感じられる。けっして近代的な写実画や写真のようではない。現実の種類にもよるけれど、現実にはけっしてこんなふうに見えるものではないのだ。群蝶と芍薬、また芍薬でも花と茎と葉、葉どうし、つぼみと開いている花、それらのひとつひとつは精緻だが、ある決められた骨法ともいうべきものに則って組み合わされているために、写実性よりも装飾性、また「写実」が微妙にゆがんだところで滲出してくる幻想的な味わいが感じられると言える。ほんらい花鳥画とは、これも画題である四君子(蘭、竹、梅、菊)に神仙の面影を見る如く、聖なるものの写しという側面があるわけで、近代的あるいは西欧的な写実画とは一線を画するのだ。この絵を含む動植綵絵の典礼的な性格はこんなところにも起因していると考える。
 同じことは鶏を主題にした八幅の絵にもいえる。たとえば図録の十番「芙蓉双鶏図」を見ると、雄鶏が舞踏するような勢いで、下から上向きに首をひねって見上げる雌鶏に対して、両脚のあいだから股覗きみたいに雌に向かい、挨拶だか求愛のポーズだかをとっている。こんな不自然な格好を若冲は現実に見たのだろうか、という問いには、一瞬でもやはり見たのだろうと私は答えざるをえない。ただその紙本への定着の仕方に誇張がある、というよりは、ここでも画題にともなって堆い時間の層を持つ、「骨法」に則っているのだろうと、考えたほうが実情に近そうだ。これが西欧的な、でもやはり「骨法」というしかない観点から見て、後進的だ、などとはいささかも思わない。たとえば散歩の途中、咲いている酔芙蓉の花や葉などをしげしげと眺めると、まさに若冲の芙蓉そのものであるが、このことなど、われわれの視覚を決定しているフレームのようなものが、いかに取り替え可能なものであるかを物語っていると思う。図録七番「大鶏雌雄図」、図録十四番「南天雄鶏図」、そして図録二十番「群鶏図」に至るまで、雄鶏の鶏冠や脚はいかに怪異な色と形と質感に満ちていようと、怖ろしいほど正確に描出されているはずであり、その羽毛の一本一本は明瞭な輪郭線でかたどる勾勒(こうろく)画法と見紛うばかりだが(ひとくちに没骨(もつこつ)画法と言ってしまうとなんだか身も蓋もない)、じつは色彩やその明度輝度の差異性のみで出現している、輪郭線とは明瞭に異なる線により、一種の刻薄を思わせる精緻さと輝きに満ちて描き分けられているのである。精密に過ぎてなんだか非現実的な感じさえするほどだ。さっき典礼的とか巧緻な写実とか言ったが、これら鶏たちの躍るような姿態を一言であらわせば、硬質透明で徹底的なイデーのもとにある、とも言うべきか。
 動植綵絵は、ほんらい釈迦三尊像を荘厳するためのものであるが、イデア的であるところがただちにそこ(仏)に?がるのではない。イデアルに描かれた動植物や森羅万象の嬉遊が、むしろ万物を空とみる仏のたなごころで、空そのものとして歓ばれ尊ばれている、と、私ならばその「荘厳」の意味を理解する。三十幅はすべて花鳥画だからか、人やけものは登場しない。図録八番「梅花皓月図」には鳥や虫さえ存在しない。ただ皓々とした月と、いちめんの夜の白梅花のむらがりだけがある。また図録二十五番「老松白鳳図」は現実には存在しない、まったくの想像上の鳥だが、図録九番の「老松孔雀図」、同十一番の「老松白鶏図」、同十二番の「老松鸚鵡図」と、同じ老松を背景にした、同系列の白い聖鳥の図を見てきた目には、深裂は存在しないと言っていい。図録二十三番の「池辺群虫図」における蝶以外の虫や、同二十四番「貝甲図」、同二十七・二十八番の「群魚図」などは模本があったとも思われない。「群魚図」や「貝甲図」など、その魚介の形や種類を考え、またそもそも若冲の「物に即して」描くという態度からいって、京の錦市場あたりで目睫に見たものと想像する余地はじゅうぶんにある。家督は弟に譲ったとはいえ、「本業」は錦小路にある青物の大店の主人たる、若冲らしいとは言えまいか。それにしても、描く対象に鯛や虎河豚、甘鯛にヤガラなどの高級食材を選ぶあたり、若冲はかなりの美食家でもあったのではないかという気がする。そういえば彼の晩年を世話し、看取ったであろう黄檗の門は、日本に普茶料理をもたらしたことでも有名で、売茶翁の煎茶といい、さらにはその出自といい、若冲はなぜかどこまでも口腹に関することと無縁ではない。
 宝暦十年(一七六〇)の冬至の日、大典と親しかった売茶翁に、若冲は「丹青活手妙神通」(丹青活手の妙、神に通ず)の一行書を贈られる。丹青とは赤い色と青い色、転じて絵や絵を描くこと。活手はその達人。黄檗の門の売茶翁に一行書を贈られるというのがどういうことであるのか、たんなるグリーティングカードに類するものなのかどうか、本当のところは現在ではもうよくわからなくなっている。冬至の日にそれを贈られる、というのも何か意味がありそうだ。総じてこの江戸期のハイヌーンのような日々を生きた人間と現代の人間と、宇宙乾坤とまでは言わないが、その時空の感覚認識が同質であると考えたとしたら、深く過つような気がする。
 火事で焼け出された晩年、高価な絵の具も思うようには購うことができなかった若冲だが、その代わり水墨画をよくしたようだ。なかで、寛政九年(一七九七)の作に「鶏図押絵貼?風」六曲一双がある。そう、最後まで鶏なのだ。しかし、もはや動植綵絵の濃密で犀利な色彩や光輝はそこには存在しない。そこにあるのは一種の無窮動に似た鶏の動きそのものである。動植綵絵ではあまり前面に出ることのなかった、ものの運動、筆による濃淡、滲みも掠れもある墨痕が、おそらく色彩という一種の牢獄から解放されることによって、より自由に、闊達に、画面いっぱいを風のように縦横に擦過している。図録の解説子は、これを「抽象的な文字」と形容しているが、それならばこの「文字」は、コトバに付随する意味や概念を欠いている。鶏を描いているが、それは鶏である必要はかならずしもなく、何か意味を与えられたりすることもある形象、である必要すらない。なにか形象外のところで満ちたり引いたりするsomethingを、仮にこの世界の言語で語ってみたら、このような描線を曳きながら露頭し光って消えてゆく、という感じで、それが十二枚の古ぼけた紙本の奥に夢のように浮かんでいるのだ。ヒトの自由とは、こんなに凄みのあるものだったのか。この十二の尾羽の、跳ね上がり沈み込むような動きに見とれているうちに、邯鄲の黄粱(おおあわ)は煮えあがり、人生は盛衰し、斧の柄は朽ちるのだろう。
 これをしも、人間が枯れるというのか。時代の太陽はまだ中天のあたりにあって、晩年の若冲に色は必要なかった、というより、色はあってもなくてもよかったのだろうと思う。たんに購うお足がたりないというだけで、それならばと木石に羅漢でもせっせと彫っていたのに相違ない。禅門に深く帰依しているが食べることにも趣味のあった老人は、もしかしたら本気で、即身是仏をしゃれ込んでいたのかも知れない。    

「飢餓陣営」33号掲載 2008年3月
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Aug 10, 2008

書評

詩人であることについて ――吉田群青詩集『海月の骨』に触れて

 こんど出た吉田群青さんの詩集『海月の骨』を読んで思ったことは、詩人という役回り、あるいは詩人であることが避けがたい巡り合わせというものがあるのだな、ということだ。と言って、群青さんの身の上の具体的な何かを、直接存じ上げている、というわけではない。彼女に関する情報は、みんな彼女自身によるところの、詩やブログのうえでのものでしかない。そもそも、当詩集を恵与され、拝読することになったきっかけ、さいしょが、詩のウェブマガジンと言うのが正確どうか分からないが、「未詳」という媒体に乗った彼女の作品で、それが他の作者のものとはひどく異質に思え、検索をかけて(ストーカーみたいに)、「ホテル・バルセロナ」という名の、吉田群青としてのブログや、「弁解なんかしたくなかった」という詩専門のホームページに辿り着いたのだ。ここから本腰を入れて群青さんの作品を読んでいったのだが、そこではじめに言った感想をあらがいがたく持たされた。
 どこが他のあまたある凡庸なネット詩人と違うのか。かかるネット詩人たちをふくむ、現代の多くのわかものがそのことに苦しんでいる、現実感の無さ、展望というものや達成感、具体性の欠如に、彼女もまた同じく悩まされている。そして、同じく絶望している。だが彼女の場合、無感覚の苦しみも、絶望感―そこから来る寂寥感という苦しみも、余人のそれよりさらに遠く深い場所からの感覚といえるのではないか、という気がするのだ。遠く深い場所から群青さんは、驚くほど正確かつ無造作に、その感覚を物象としてつかみ出し、言葉に貼り付ける。おそらく冷静とか厳密ということから最も遠いところで。ただし一種の静かなトランス状態のなか、はたから見たら冷静とか厳密というものとちょっと見間違うばかりに。人が詩を、書き進めるうちにだんだんにせり上がってゆく達成点というものがあるとするなら、彼女はいきなり「その地点から」書くことをはじめてしまう。そしてそんなステージの高さは彼女の(病歴とか性格とかの)悲劇性というdestinyに精確に対応しているのだが、しかし詩は、彼女のそういった個人的でプライヴェートな事情を恐らく超過してしまう。ここが詩人であることの否応のない巡り合わせであり、余人と異なる点なのだ。
 群青さんの詩の具体的なところに、ここで少し触れてみる。彼女の詩を読んでいると、ふつうの抒情詩とは少しかけ違った感じを持たされる。通常の抒情詩が静止画のようなものとすれば、対して彼女の詩には時間的な進行と展開(転換)があるのだ。つまり小説的なのである。ついでに言えば、作品に、落語のいわゆるオチのようなさいごの二、三行ないし一行がしばしばつく。
 この点についてもっと言えば、「雨の日に変質する」のさいご二行は、詩では心当たりがないが、小説では漱石の『吾輩は猫である』の冒頭、「残酷なこども」のさいごの二行は、同じく漱石の『坊っちゃん』のむすびによく似ている。ちなみに引いてみる。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。(『吾輩は猫である』)

自分の名前は
まだ考え付いていない (「雨の日に変質する」)


死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。(『坊っちゃん』)

家にはすでにどこからか
新しい母がちゃんと来ていて
ドーナツを揚げたり
ホットケーキを焼いたりしてて
だから別にいいのかなあと思う

新しい母には顔がなくて
だから僕は母の顔を知らない (「残酷なこども」)

 この二例は気のせいかも知らぬが、それほど群青さんの詩の世界は、近代詩や戦後詩というよりは、私などにはなつかしい日本の近代小説の匂いがする。じじつ、「妻の話」では、太宰治の『斜陽』を「わたし」が読んでいるところが登場しさえする。
 時間的な進行について言えば、そのことを示す助動詞や副詞をふくむ行が「お話」の進行や展開(転換)を促している。たちどころに例示できるであろう(< >で示した部分)。

誰か来たような気がして
<ドアをあけたら>
君の気配が立っていた     (「君の気配」)

<やがて夜になると電柱は>
支える青を急になくして
心もとなくそこに立っている  (「夜空の電柱、冬のはじまり」)

<そのうち熊はわたしを横目で見ながら>
りんごを買って
去っていった         (「雨の日に変質する」)

 詩の世界の雰囲気が近代小説的であるというのも、いわば抒情詩のような静止画でなく、時間的な進行をともなった叙事・物語的な、こういう特有の性格から推し量ることができるのである。所謂抒情詩とは少しく異質な、ひとつひとつがある意味でコンパクトな「お話」の素から成っている。そしてそれが群青さんにより、行分けされて私たちに示されるとき、詩の在り方としては「寓話的なもの」という概念に相等なことが判る。それは、よくできた小咄のようなものから(「小さなシリーズ」など)、名手が書いたみたいな短編小説(「妻の話」「王様」「資本主義と社会主義」など)、背後に「お話」の存在を思わせる一種静止画的な抒情詩(「夜空の電柱、冬のはじまり」「初夏」「お母さんと結婚したい」等、本詩集では数多く書かれたはずのこの系統の作品が比較的に割愛されている)、それから厳粛なアポカリプスのような示現に至る多様な層から成っている。そして、この詩集の基層にある「気分」というものを言うのなら、いま示したさいごのカテゴリーに属する、われわれの胸に厳粛ともいえる印象を残す次の詩を挙げなくてはならない。これは群青さんからこの世界に突きつけられたアポカリプスである。すなわち「飼育係、或いは荒廃」と「昨日、戦争が」だ。
 前者は小学校のときのことらしいが、メダカを水槽から排水溝に流した(逃がした?)作者と思しき飼育係は、そのあと空の水槽に入れられたミドリガメが、男の子たちの「遊び」によりサッカーボールの代わりに蹴られて教室の隅で死に(虐殺され)、ミドリガメの後、また空の水槽に入れられたハムスターが、男の子たちの「冗談」によって踏み殺され(虐殺され)るのをただ傍観するしかない。そして「死んでいった小さい生き物」を悼むため、自罰のようにみずからの息を止めるのだ。群青さんがそのときまさにそのようであった、子供たちの世界がこんなにも救いのないものである事実に、私は息をのむ。
 また後者は架空の寓話に似ているが、目の前に拡がる世界に、悪夢のような、非現実的なまでの残酷さを感覚し、造形している作者が、まだ二十四歳の若い女性であるということに、驚くとともにひどく胸が痛むのだ。

僕が戦争に気付いたのは
それから三日後で
何故気付いたかと云うと
僕のぼろアパートに
女の子が訪ねてきたからだった
女の子は一人では無かった
子供を抱っこしていた
子供は血まみれだった
頭がかち割れて
きれいにかち割れて
そこから宇宙のような
宇宙のような

女の子は錯乱しているようで
この子を助けてください
あたしの妹なんです
と何度も何度も叫んだ
どう見たってもう死んでいるのに
(中略)
だって僕はまだ若いし
とたわけた事を考えた刹那
どこからか飛んできた大砲の弾が
女の子を吹き飛ばした
宇宙のような
宇宙のような
塵・芥が雨のように    (「昨日、戦争が」)

 ユーモアもあり、トボケていたり、真面目であったり、家族に対する切ないまでの愛情を抱いていたりとさまざまだが、総じていま示したこの二篇が作者の世界の最深奥にうずくまって、この詩集の「気分」を醸成している。それは恐怖に満ち、逃げ場がなくて、人間的な感情といったら諦念しかなく、けれど一歩たがえればあこがれと見まがうほどに綺麗な寂寥の色を帯びている。巧拙ではなく、生身でそのただ中にいて、絶対に見えないものと切り結んでいる。実に詩人であるということは、詩の巧拙を超えたなにものかなのだ。それはひとつの栄耀であり、痛苦でもある。この詩集のさいごの、次の詩のさいごのように。

無意識のうちに手をいっぱいに広げている
何を掴みたいんだろう
掴みたいものなどもう何も
無いはずだと思っていたのだけれど   (「ひとりぐらし」)
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Jan 04, 2008

宗教・神話・詩論

具体性の詩学ノート2  ―風流、あるいは詩的であることについて


 森鴎外の『渋江抽斎』のなかに、風流韻事のことにひどく五月蠅いらしい喜多村某が、抽斎の友人である芝居の見巧者、二世劇神仙・真志屋五六作とその一党を漫罵して、「性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めり」等と云ったとある箇所をみる。ここで鴎外は「風流をどんな事と心得てゐたか」と、いささか色をなして糺す。彼は言う。「わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何(いか)なる用事をも擱(さしお)いて玄関へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である。」
 三世劇神仙の称を五六作から譲られた抽斎のことだから、もとより風流韻事のことについて昧(くら)いところがあろうはずもないけれど、このエピソードは彼がいたずらに高踏的なものに価値を置かなかった事実を物語るのみならず、角兵衛獅子の訪れのごときにある種のエピファニー(顕現)を見ていたといった感じがしてならない。これは私の想像だが、おそらく角兵衛獅子にしてそうであるのなら、季節や節気の巡りの度にイエの門先にやって来たであろう、六部の鉦やぼろんじの尺八の音、また祭文語りの詠唱に、抽斎はまぎれもなく「詩」を体感していたのではないか。
 私の子どもの頃くらいまでは、二十四節気に準じた小さな祭礼がそれぞれの家でおこなわれていた記憶がある。生まれてから小学校の三年まで、川崎の今で言う高津区にいた。たしかタナバタの篠竹はツダヤマまで数キロの道のりを歩いていって採って来、ツキミの薄はタマガワの河原まで行って調達したのが毎年のことで、その仕事は姉と私という、子どもたちがおこなうべき小さな賦役とされていた。正月には私たちの親のような大陸引揚者住宅の住人の戸口にも、土地の獅子舞の獅子はやって来て、大きな予祝の噛みつきの口のなかで、私たち子どもはひとりひとり恐れて泣いた。
 当時のちんどん屋は現代に生き返った漂泊芸と言うべく、新開店の宣伝というよりはその店のコトホギの性格が強かったという意味合いで、唱導芸人や説経語りの部類に入れられると思う。構文論になずらえて話すとするなら、そこでの本地の神は、いわば主文から脱落したと見えるだけで、実は形容詞や述語、また一文の現象面ともいうべき活用性能にあたるところの、きらびやかな衣装や常人とは極端に掛け違ったコトヨウの化粧、音曲や律動をともなう身のこなしといった具体性の細部に、まさに示現していたのである。
 地元には、顔にそれなりの皺は刻まれているのだが、ついに肉体的にも精神的にも「大人」になることのなかった「ミゾノクチのヨッチャン」というclowneryがいて、ちんどん屋が来ると一種の恍惚状態になり、彼らのお株を奪うような身のこなしでどこまでもどこまでも跡をついてゆくのであった。たぶんその光景に見入っていた私などは、振り返って顧みるに抽斎の「詩的」なるものとそう遠いところにいたのではなかったと思う。即ち抽斎と同じく、この何ものかがしきりに生起している現場に立ち会っている私は、一個の「高踏的」なる傍観者ではありえなかったはずである。
 いわゆるアンガージュマンとはちょっと違うと思うが、この、共に何かしらのただなかにいる感じ、引き込まれる感じを詩的と称して差し支えない気がする。これを現代の文芸としての詩にひきよせて考えれば、たとえば批評的なものであれ芸術的なものであれ、どちらが正しいどちらに価値があるとかまびすしく論じる前に、この何かしらのただなかに引き込む、引き込まれる、という側面が存在しなければ、メッセージ的であろうが耽美的であろうが実験的であろうが、そもそもの論の立てようがないのだ。
 この詩的ということは、われわれがこの世界に具体的にいる感じと密接に繋がっているように思う。だいたい、具体性というのはどういうことかというと、なんで氷のうえをスケートの刃が滑ることができるのか、あるいは蛍光灯の発光のメカニズムについて、いずれも科学的・論理的に説明することが不可能である等の意外に奇妙な現実と関連している。精密機械の特殊な部品が、いまだに職人の手業に頼らざるを得ないという例など、興味深いものがある。
 ある数値は、その数値が前提する観点からのみ可能な、現実の切り取りに過ぎない。いわば同義反復であり、ある意味で人間はこういった環境を、みずからの周りに自然破壊的に営々と築いてきたとも言える。だが、計測は現実の翻訳に過ぎず、概念や数値を積分していっても微分していっても、そこに捕らえきれない光のように必ず漏れ出てゆくものがある。あるいは積んでも割っても、概念操作と数値という表象によっては、絶対に現実と同形になることはできない。机上のことでなく、現実の用に充てるたぐいのことは「下駄を履いてみるまで判らない」のである。じつに具体性の現実というのは秘密に満ち充ちていて、しかもその秘密は、すぐ手が届いて触れることが出来るほどにもさりげない傍らに露頭しているものなのだ。おそらく詩的ということはこういったことに関する、気づきと驚きの方角からやってくると思う。誤解のないように書き添えておくが、宗教的なものが即ち詩であると言っているのではない。詩的なものと宗教的なものの根源に相通うものがあると言っているのだ。それらはあらゆる諸芸術と諸学の却って根源をもなしている。
 抽斎は大名行列を観ることを好んだそうである。そして各大名家の鹵簿(ろぼ)(行列の内容)を暗記して忘れなかった。武鑑(大名旗本の名鑑)に着色などもしていた。この嗜好は喜多静廬(せいろ)が祭礼を看ることを喜んだことと頗る似ている、と鴎外は言う。抽斎とそう時代を隔てない富岡鉄斎なども太秦の牛祭り再興に尽力するごとき、抽斎に似たところがあるが、総じてこの頃の人々にとって風流という名の詩は、今のわれわれよりもはるかに身近に在ったようだ

    07/06/05
Posted at 18:55 in sugiyama | WriteBacks (1) | Edit
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