Sep 13, 2008

宗教・神話・詩論

具体性の詩学ノート3 地名、詩、差別のことなど


 ある存在が具体的に存在するとは、どういうことなのだろうかと考えた場合、それはその存在が世界と繋がれてある、というのがひとつの答えとなってくるような気がする。人間に引き直してみれば、その人間の帰属先ということであるが、先の戦争のこともあってか、このことを公明に論議するのが避けられてきた嫌いがなくもなかったようだ。
 復古とか国粋とかの翳りなくして、この問題にあたうかぎりの精確さをもってあたってきたある部分が、たとえば柳田國男であり、たとえば折口信夫といった人びとと言える。彼らは、ある個性や集団のアイデンティティがまさに危機に瀕していた近代の始め、その個性や集団を支えていたアイデンティティそのものが奈辺にあり、どこに帰属していたのか、柳田はモーセのような指導性をもって、折口は鋭利な学匠詩人の内面で、深く掘り下げていったのだ。
 人が具体的に在る、と言うとき、もちろん米を食いパンを食して屋根のある場所で寝、畑へ行って芋を掘り、あるいは鎚をふるって鋤鍬を鍛えるのだが、それらのことが具体性なのではない。柳田や折口がさぐったのは、人びとはただ己の欲求したままにそれらを行為するのではなく、ひとつの理法とも言うべきものに則ってこれらを行い、理法もふくめたそのことに初めて具体性がある、という現実にまつわるsomethingなのだった。
 この理法のことを詩だと言ったら、性急に過ぎ、またおおかたの向きの顰蹙を買うだろうが、といって何か積極的な理由がなければ人は、たとえば食べ物に色々な料理法を加えることさえしないと思う。食べ物に限定すれば、食べてはいけないとされる物が、別の場面では薬として摂取され、また、それどころか、ある家(神職など)では禁忌の対象である食べ物が、他のおおかたの家々では大変なご馳走であったりする理由というものにも、少しく地上的ではない性格があるのではなかろうか。これをそのまま詩だとは言えないにしても、そこに連接してゆく性格がある、とまでは言えそうだ。
 最近柳田の『地名の研究』を読み返してみて思ったのだが、それは、われわれは抽象的な空間に符号のように点在しているわけではなく、あるひどく具体的な言語圏、風土、季節や気候の中に血を通わせていて、その取り巻く環境(milieu)の重要な項目に地名というのがあるのではないかということだった。このことは、一旦東京のような都市にいると往々にして忘れがちなことではある。
 われわれは自分の帰属先のヤカラ・ウカラを思い浮かべて、じぶんのことを一般的に日本人と称するが、たとえば英国人は、じぶんはウェールズ人である、じぶんはスコットランド人である、という具合の言をなすそうだ。よその国のことは調べていないのでよく分からぬところがあるが、少し前の日本人なら、熊谷二郎直実が武蔵国熊谷の人、新田義貞が上野国新田の人であること等は常識であって、地名と人の名(家の名)が切り離せないものであること、たとえば平家語りの、能楽の、あるいは浪曲での主人公の名乗りに同じである。
 これは歴史的に言えば、近代国家成立以前の人の帰属先というものを表現していると言える。いささか、ここでも性急な口吻をもってすれば、「帝国」成立以前の、クニが暴力装置としての巨大機械に変貌する以前の、もっと小さな単位で生活が成り立っていた地名たちというものの気配がそこにある。
 柳田によれば、地名の発生は最初は地点名ともいうべきもので、「黒岩とか二本杉とかいう類の狭い場所だけしかさしておらぬ」ものがそれである。同じものでも、それが「山の麓のやや続いた緩傾斜地」を意味する長野となると、「そこにお寺の大きいのが建って繁昌すると、後には市の名となって、谷陰にも大川の岸にも及び、さらには県庁が設置せられると、後には広い信州一国の県名とさえなった」。私の住んでいる横浜でも似たようなことがあって、京浜急行の各駅停車が停まる仲木戸という駅があるが、そこは東海道の木戸が置かれていた場所で、付近にカナガワ(上無川、金川とも)といわれる小川が流れていたのがそのまま宿の名や区の名となっている。もともとこの土地、江戸の開国にあたり、アメリカ領事館等西欧人のさかんに往来する、政治経済上の重要地点となったせいでもあったためか、明治の改元の折に早々と県の名にまで拡張せられて今日に至っている。
 つまり、京都とかそれに関係する人工的な名づけである東京、外国で言えば王城の名そのものであるソウルや北京、サンクトペテルブルグなどは別として、ローマとアルスター、柏と横浜と岩手に差異はあっても大小優劣のヒエラルキーは何ら存在していない。長野は本来あくまでも「山の麓のやや続いた緩傾斜地」であるのだ。ここでよくよく考えなくてはならないのは、それらのすでに出来てしまっている差等を無にするのではない、けれど、いつだって、今ここでさえ、存在しているたとえば柏と横浜と岩手が、みな契機としては平等に抱懐する可能態のようなものについてだ。
 たとえば、江戸のころにも当然都市と農村の格差はあったけれど、重要なことはそれが地方と中央の格差のような形ではなかったことだ。これが、破滅的な現在とは違う点だ。医者でも儒者でも絵師でも、江戸期には肥前長崎には誰それ、備前岡山には誰それ、摂津高槻には誰それといった具合に、名だたるオーソリティは各国に分散して住しており、現在のようにほぼ東京一極に集中するということはなかった。学びたい者はそれぞれ旅をして、彼らに会いに行ったのである。可能態とは、このパラレルな分散がモデルとなる、江戸と岡山と長崎と高槻の、大小優劣のない、潜在的な絶対的平等状態のことをさす。
 これを来訪される側の地方からすれば、自らの土地や集団、職掌、社稷に誇りを持てたと言えるのである。私の見るところ、地名に付随し、かつ人が外部集団に向かってする、古代から続く「名乗り」、それは一種の神の顕現であるという性格により、却って普段は絶対実名を明かさないが、それが形式として最高度の成熟を見せたといえるのが、封建といわれるこの江戸期にほかならなかった。私の家では現在でも親戚のことを、名で呼ぶことにあまり意義が感じられないので、八王子のとか、宮城のとか、名古屋のとか、呼ぶが、これなど「名乗り」の一種でありながら、地名の陰に実名が隠れてしまった例といえる。
 こういった事例にかこまれて、われわれは世界内に存在する理法を感じることができるのだが、古代の歌謡や長歌、短歌、中・近世の連歌俳諧の中に詠じられた山川の名、海浜の名、それらをふくんだ歌枕などは、大げさでなく、数千年にわたってわれわれの詩になじみの深いものだったのである。志賀の海に、と言い、石見のや、と詠ずる。このときにまず第一に土地=地名であるべき実在に、人は、詩を理法としつつ繋がれたのである。だが、詩の近代はこのことを絶えず無化する方向の中にあった。即ち、近代がもたらした、都市=中央のあまりの偏奇な栄えと地方の破壊的な衰退が、詩から地名を奪っているのだ。
 他方、おもに関西地方に無数に点在する、天皇直属の部民であったり、寺社の神人集団だったり、職掌集団であったりしたところの集落差別の領域にも、このことは踏み入ることになるであろう。志賀の海に、と言い、石見のや、と詠ずる、と書いたが、こういった世界内の実在感と帰属感は、裏返せばそのまま、差別にまつわる実在感と帰属感に連接してゆく気がする。さらに、詩と差別の問題は深く相関している、との予測も立つ。
 ひとつ、言えることは、この問題には神のことと詩のことが切り離せず、さらに信仰のことと社会的役割のことが骨がらみになっていて、この深層が表層に、表層が深層に、裏返っているごとき状態を冷静な認識のピンセットで弁別してみることが第一。第二には、詩によってのみ可能な、地名の地形への還元というか、地名を地形と相等なものとする、大小優劣のない絶対的平等状態への構想力を提起しておく。これにより、区域はかぎりなく小面積で、地名はかぎりなく多くなるか、あるいは、一区域に地名一つ二つという少数になってゆくか、地形の事情によってどちらかに別れてゆくであろう。
 いずれにせよ、マチが野を圧倒するのでなく、野の中にマチが点在して見えるような光景があって初めて、真の、誇りうる、地名にかかわる詩が出現できるのだということを強調しておきたい。


「COAL SACK」61に掲載  
Posted at 19:33 in sugiyama | WriteBacks (0) | Edit
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