Nov 07, 2021
酒場でのモディ談義
この「女の肖像」は1917年に描かれた作品。
時代は第一次世界大戦のさなかね。
モディリアーニは兵役につかなかったんですか。
1914年の8月、大戦が勃発した直後、
外人部隊の徴兵に応募したけれど、
「極度の不健康状態」(虚弱体質)という理由で
却下されたの。
それはさぞ落胆したでしょうね。
1914年はモディリアーニにとって、
ひとつの節目の年で、この年彫刻を断念して
絵画に専念しはじめているんだけど、
7月にベアトリス・ヘイスティングスに出会い、
二年間の同棲生活がはじまる。
志願はきっと出会った直後のことね。
1914年から亡くなった1920年にかけて
画業に専念して「戦争世代の画家」
っていわれるわけですね。
戦時下のパリって
どんな雰囲気だったのかな。
この酒場も戦時下みたいなものでしょ。
兵隊だらけだし(注1)。
ただ彼が他の画家たちと違うのは、
第一次世界大戦を主題にした絵を
1枚も描かなかったっていうこと(注2)。
それは不思議ですね。
戦争に関心がなかったわけじゃない。
っていうか、日常生活そのものが、
戦争の影響下にあったはず。
でも肖像画だけを描き続け、最初のうちは
様々な技法を試して試行錯誤しながら、
やがて独自の様式を作り上げていった。
1917年には
ロシアでは10月革命が起きた(注3)。
4月にはアメリカも参戦したよ。
とエルザがいった。
話それてない?
歴史の話でしょ。
それなら、その頃
わがドイツ帝国では、、。
解説)
今回はなぜかまだ続いている
モディリアーニシリーズの
リリスの酒場編になりました。
注1)「当時のパリで生活することは容易な
ことではなかった。
戦線が近いために街の至る所に
兵士の姿が見受けられ、
カフェのテラスは軍服姿で
埋め尽くされていた。
いい若者が私服姿で歩いていると
白い目で見られたものである。」
(「モディリアーニ展カタログ」第三章p90)
「第一次世界大戦の勃発は、
外国人排斥の風潮を高めざるを
得なかった。すべての外国人に
嫌疑がかけられ、警察に住民登録することが
義務づけられた。そして再び反ユダヤ主義が
はびこりだした。このような風潮に
歯向かうように、モディリアーニは
デッサンのぎっしり詰まった空色の
紙ばさみを抱えてカフェへ行き、
見知らぬ人に近づいては、
「ユダヤ人のモディリアーニです。
1枚5フランです。」と手短に
自己紹介しながら、店内をまわった。この頃、
ドイツ語の響きをもつ名前の商店経営者は、
店の飾り窓に大きな貼り紙を掲示して、
自分がフランス人であることを示さなければ
ならなかった。そうしないと暴徒に
襲われることがあったからである。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p167)
注2)戦争が続くなかで、モディリアーニの
絵と他の画家たちの作品との間の
相違が目立つようになった。ドイツ表現主義の
画家たちにとって戦争はこだわりのテーマであったし、
パリの前衛たちにとっても戦争は中心的な
関心事であった。これについては、
ピカソの静物画「フランス万歳」や、同じくピカソの
手になる軍服姿の友人たちの素描連作、
あるいは戦争をテーマにしたセヴュリーニの
強烈な作品(1915)、さらにはデュフィ、マクルーシ、
グレーズ、ラ・フレネー、メッツアンジェらによる
諸作品を考えてみればよい。ところが、
モディリアーニは第一次世界大戦を主題にした
絵を一点たりとも描かなかった。
(「モディリアーニ展カタログ」第三章p90)
注3)「エレンブルグの回想によると、、、
「ロシア革命についての最初の
ニュースが入ったとき、モディは
私のところへ飛んできて、
私を抱擁した。そして熱狂のあまり
叫び声をあげた。私には彼の
話していることが、とぎれとぎれにしか
理解できなかった。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p172)
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