May 23, 2008
地の声
こないだお灸とマッサージをプロの方にしていただいて、足の冷たさや肩の張りは少しずつマシに。体を冷やさないのが大事らしい。だから自分でも冷たいものは控える。あったかいものや野菜を入れた汁物を食べる。ビールは時々にするなど工夫してます。昨日はビールに焼き鳥でしたけど。あと自律訓練法、冷えが気になるときは腰にカイロ。といっても健康オタクではなくて、単に肩や背中が張ると息が苦しくて、頭が痛くなったりして快適さが減るから、気分良く過ごしたいと思っている感じです。
友達や大切な人のことを時々思います。私だって怒りや情けない気持ちにかられるときはあります。そういうときに、色んな人の顔や様子を考えたい。そこには温かみもあるから。けれど、知らず知らずに強がっている。だいぶそうしなくなったけれど。昔はよくからかわれたり、いじめられたりしていたから、なめられないように人に頼ってはいけないと思ったら、思春期やなんかのせいもあって、結局20代から30代前半までそのかたくなさを溶かすのに要しました。
今でも全然治っていないけどそういうのはあるんだなあと頭の隅にはあるようになりました。世の中はみんななめられないようにがんばっている人も多く、しかしそうするとそこから降りられなくなってつらくなるんだよなと思います。成果やまともさや、ちゃんとしてることが求められ、自分でもそうしたいと思う。
それは各人の生き方です。けれど、そうして地の声が出せなくなる場合自分が蝕まれていくときもある。そうすると僕の場合真っ先に体が変になるのです。体は正直です。
単に甘やかすのではなく凛としたものもあったほうが素敵。だけど、それには何か支えが要るんだなあと思うこのごろ。支えがないと怒りや辛さに人はすぐやられますから。
May 20, 2008
やばそうな領域についての2つの試論他-呼ばれる詩の場所・事切れる=死
1.こないだ某詩賞に応募したよ。あかんかなあ。*
2.「呼ばれる詩の場所」
ハイデガーの「言葉についての対話」を読了。「芸術作品の根源」は真ん中くらい。
ひえ~、言葉がよくわからん。でもそれはまあ仕方ない。
なんとなくハイデガーにもつながるのかもしれないが
何か書くとき、とくに詩らしきものをしたためようとするとき
意識が変成するように思えるのである。
しかし、そのきっかけは酒やら、薬やらの力でそうなるばかりでない。
鳥の声でもいいし。
で、書くものは鳥の声とはあんまり直接つながってなかったりする。
しかし、何ものかの呼び声で励起(立ち上がる?)するようには
いえるような気もするのだが。ごく個人的に言えば。
しかし呼びかけそれ自体は正体がよくわからない。
だから書くのだろうけれど、ハイデガーについても、その呼びかけが
一体なんであるか私はまだ不明であり戸口に立ったばかりなのだ。
しかし、それなしには何かが落ち着かない。いや作動しない。
自分の真実性や虚偽性を識るのに、詩が必ずしも
必要かどうか不明だ。しかし、それを識る身振り・祈りの
形象化・祭祀化(自ずとそうなってしまう)だと考えうる。
仕事でも無為でも生きとし生けるどのような営みでも
己の真実性や虚偽性(虚構性)は識ることができる。
おそらく、その働きに「書くこと」は近似し
また決定的に遠ざかってしまうように思える。
その遠ざかりは苦であるが、遠ざかりを十分に自覚し得れば
私は「書くこと」で何かを強く思うことができ
その思ったものを解放したり、それに縛られたりしてしまうことができる。
ただ、「書く」人は「書く」形で、絶えず確かめや不明に
陥るような行為を択んでしまっているとはいえるかもしれない。
故に何かに呼ばれたりする形、それはある意味幻聴みたいなものかも
しれない。だけど、それがないと私が意識があったり、自分が引き受け
ないといけないことがあるような気にならない。
私は怠け者だから、起こされないと起きないのだ。
私はほとんどの場合比喩的にいうと寝とぼけて生きていて
もう全く考えることがない。大体バラバラな思念やら行為の断片の海を
生きていて、それは物として存在していたり、事として存在していたりして
まだらである。
それが不意の声によってある場所に呼び戻され新たに召還しなおされるような気がするのだ。
召還され新たに言葉としての身体(場所?) として編成される。
しかし、構成というものがどこまで自覚しうるものなのかな。
また、それが「覚醒」であったり、「本来性」であったりするのか
わからない。非常に厄介である。
「ある場所に呼び戻され新たに召還しなおされる」ことが
人間本来の姿への回帰だと信じすぎると
それは急速に一回性やら、ノリやらを失って
いきなり動脈硬化を起こし始める。
けれど、私はこのような形である場所に置かれているような気がする
っていい続けること事態は、無ではないような。
意味があるかどうかは別にして、何度も、似た場所にたってしまう
っていうのは、気になることである。その気になり方を表出することは可能だろう。
その「気になる」(気づかい?)感じに従うと、きっと痛い目にあうことも多いのだが
乗りかかった船には乗ってみて
痛い目やら快楽の展開を追うと、その感覚の体自体が通路になって
変な場所というか、その人の有り様のようにいびつな場所に出て
しゃあないなーと思うのかもしれない。
しゃあないなーが「覚悟」みたいなものか知らん。
けれど、そう思うと更に、なんでやねんというふうに
放り出されて、絶えず私は詩を書くという聖性を見失う形で
それを識るのである。
*
3.「事切れる=死-Tさんの日記に触発され死者と生者との関係についてとにかく書いて見ましたら、こんな変な文章になりました。」
死は「事切れる」とも言うのである。
事というのは物事のことだったりして、現象
つまり感覚や観念の世界として可視化したり
思考化したり数えたり記号にできる領域だとする。
ならば、そういう圏域から抜け出るのでも
消えるのでもなく「切れる」というのが死であるかもしれない。
自分はいまわの際の人の体や存在雰囲気を感じるなら
そこにその人はオワスわけであるが
そのオワスことはたぶんなくならない。
しかしオワスから何かが切れて
我々の表象言語世界とは別の圏域に
移行する。
この移行の過程はTさんいわく「あいまい」である。
けれど、なぜか私がそこにオワスある人に呼びかけても
返事がないというのはわかる。
いやわかっていないのかもしれないけれど。
それぞれケースバイケースとしか言いようのない感じで
心身機能は、人へこたえることを終えていく。
いや、いつまでも我々に感知できない形で
オワシますある人はオワシますを減少=(世界へと)還元させながら
こちらへ投げかけ
私の存在をその人のもとへ引き寄せようとするのだろう。
残念ながらそれを現実界にて応答なしと宣告するのは
医師であったり制度や葬儀屋であったりする。
けれども、別次元で私はその人の「事切れ」の何かを聴いた感じが
あるのかもしれないとも思う。
生者の都合で押し流して死を確定させてしまうとしても
ある形で永劫、その人の声を聴けなくなることは
確からしいと思われたりもするのだ。
しかし、これも言い切るのはためらわれる。
そのためらいを大切にしたい。
私は死んだ人にどれだけ呼びかけても
生きた事=現象の形では、もう反響がないから
自己のうちに閉じ込められて、その残響の中で
その残響をこうかなとしておく。すると
また人が死に、わからない声の総体のように
私はなっていく。
そのわからなさエントロピーの増大にしたがって
私は世界と一体化し続け、不随異な部分だらけになり
ある日事切れているような…
そうすると世界という集合に巻き込まれることが「死」だとすると
何から事切れてどこへここの外のどこへいっているのか
急にわからなくなってしまった。
ゆえに、何かでいえるような形ではいえない=事切れる
ってことで、その言えないという姿かたちが死の表象に似ていて
だから、やっぱり死は言葉にとって最大の重大事であり
最大の無関係事やもしれん。
May 07, 2008
遅ればせながらジャズストリート報告及び連休
5月4日は高槻ジャズストリートに行った。参加ミュージシャン4000人、47会場という高槻市の中心街の各所がステージと化す大イベント。もう10年も続いている。けれど商売っ気もなく、ジャズストリートTシャツ販売と募金といくつかのスポンサーのみであとは市民参加の地域密着イベント。入場料はなく、喫茶店の場合はお茶を飲んで演奏が気に入ったら投げ銭という感じか。子どもから年寄りまで、ジャズ好きからただ音楽を楽しみたい人までいろんな人が街のあちこちに繰り出している。阪急高架下やら、公民館のスペースや喫茶店などがライブ会場で、てづくり感がよい。また音環境に格別の工夫はないのに、それぞれの音空間が手触りのあるもので、親しみやすく演者との距離も近い。
市民会館では日野皓正がよく来てる。また高槻城跡公園や、市民グラウンドでは、フリマも開かれ、ビールを飲みながらジャズも聴けます。久しぶりに行ってとてもよかった。
5日はのんびりして、6日は友達の犬と遊ぶ。さびしかったようで、いっぱい甘えてきて、顔中なめられました!動画①場所;阪急高架下みずき自動遊園(演者;森田葉月&森川七月カルテット)②場所;JKカフェ(演者;Tacto Tango)③場所;城内公民館1Fロビー(演者;サボン)※いずれも携帯での撮影のため15秒間 0001.3GP 0002.3GP 0003.3GP
May 03, 2008
マテリアル
山のあなたの空遠くはっきりはっきり目が覚める
布団を押し上げて
燃えつきる私の意欲
あなたが幸いではなく
きがかりだ
何の関係もなくきがかりだ
そう
そういうこと
きがかりだ
みることは
みえないのだから
みようとするのだが
みえないのだから
きいているのよー
きこえていないから
きいたことにしてしまうけれど
あなたの秘密を
きいたことにしてしまうけれど
それでははじまらない
にせものなんだから
余の思いはにせもんなんだから
にせもんをあなたになすりつけて
素敵な風景をきどっている
じょうろ
あなたが花だと思ってみて
水をやる
葉と葉のあいだに
つぼみをつけた茎が伸びている
まだ咲いていない
山のあなたの
咲いていない
贈り物です ピンポーン
空の配達です
知らない人々のおもいでのつらなり
金の模様である
雲がいずる場所
その地点にはおどろくほど
おどろくほど
おちていこうとする水の
つぶつぶがフリーズしている
山のあなたの
固まっている
それは器
器でない
攻撃できない
何もないようだ
水があるというのに
それは一瞬で
凝固したアトムさんの集合
よりあつまって激しく静かに
聖している
精している
そうだおちかかっていこう
おちかかる
棚から牡丹餅
2階から目薬
仕方ないのだから
こうでもしないと
山のあなたの
あえないのだから
強い風は山にぶちあたり
激しく渦を巻き
山のあなたの幸いの町を
こなごなにしてあなたを取り出すまで
余はふりつづけよう
ふりつづけよう
May 02, 2008
tab8号初出散文「人身犠牲について」
こないだ藤井貞和氏の立命館大学での講演会に行ってきた。「詩と戦争」というテーマは非常に語るのが困難な課題だ。残念ながら湾岸戦争における詩人たちの論争を私は詳しくしらない。そこから様々な論者がどのような課題をこれまで展開してきたか、そしてそれに対して自分がどのような立場をとれるかは今はわからない。ただ、藤井氏が「人身犠牲」について論じていたことに特別の興味を覚えたので、自分の想念を書いておきたい。私にとっても「人身犠牲」は大きなテーマだった。自分が学生時代受けた暴力(いじめ)には犠牲の構造があるのではないかと思ってきた。しかしそれをあまり大きく学問的に考えるよりも、私は自分とみんな(全体)との関係の一例として考えたいと思った。最初は自分だけがこのような目にあうのはなぜかという理不尽な感覚から考えた。しかし実は中野富士見中での「葬式ごっこ」を始め自分より大きな社会にたくさん存在していることを知った。「葬式ごっこ」とは何か。長い間同級生から殴られたり精神的に苦しめられたある中学生がいた。死んでもいないその子が教室に来る前に同級生のあるグループが机の上に花瓶を供え、クラス大勢の寄せ書きをおいたのである。当時は軽薄な時代で、その子も同級生も悪い冗談として受け答えしていたが、深いショックを受けたその子は自殺してしまったのである。それからというもの、知らない間に死んだものとして扱われる、つまり殺される、それが儀式の形をとるということが頭から離れなくなった。なんといってもその子が私と二才しか変わらないのが大きかった。
単に自殺した子に同情するだけでない、その構造を変える考えはないかと思った。それから大まかにいじめにおける犠牲の構造を考えた。少し整理するとこうである。人が集まっている場所がある。それが自由を奪う(例えば先の話だと学校)いびつなものだとしたら、様々ないびつさが問題や不満を生み出す。ここで、その場所の前提をみなで変えることができれば問題ない。しかし、それをしない・できないから、なかったことにするために象徴的に誰かを血祭りにするという解消法を思いつくのだと考えた。
我々は「日本人が和を大切にする民族だからそのような暴力はしない」という感覚がないだろうか。しかし、全く逆で、和を大切にするからこそそのために誰かを犠牲にしてことを済ますという構造が存在するのではないかという考えが私の頭をかすめるのである。
犠牲の構造は人類が生み出した一つの知恵である。それは我々が今や想像もできないような苦闘によってできたのだろう。藤井氏は実は戦争も「人身犠牲」というやり方では内部の問題が処理できなくなったとき、それを外化する一つの知恵かもしれないという。それは更なる犠牲を生み出した。しかしそれらの方法がなぜとられたかを考えないと戦争という仕組みを変えることはできないと。私が思いだすのは「聖なるもの」と戦争や犠牲がどこかで関わっているのではないかというバタイユの問いだ。
ただし、犠牲の構造によって消された問題はその時点で解決が難しいから犠牲を引き出してしまったのだ。とすれば依然問題は残っているはずだ。消された場所から問題の痕跡を取り出すことで、問題を知り誰かを抹殺しない方向で問題を考えることは可能ではないかと思う。それが誰かが死んでしまった後にできる、せめてものことかもしれない。恐らくそれが暗いけれど希望の内実かもしれない。
※初出からブログに掲載するために一部文章を変えています。ご了承ください。初出=詩誌tab8号2008.1.15 この文章は私がファンである上山和樹さんのブログに刺激され、当ブログに掲載しました。上山さんは「ひきこもり経験者」として、ひきこもりをめぐる様々な状況に果敢に切り込んでいます。上山さんは恐らく生きていく苦しみの中で感じられたであろう「何かがおかしい」という感覚を手放しておられない。それを手に分析や批判的検証を続けておられるように思います。そしてそれは、単なる人任せの批判ではなくご自身の身をかけてのように感じています。私も「何かがおかしい」という感覚がこの社会で封殺されるのを感じたことを拙ないながら覚書としてこの文章に書きました。私が上山さんのように身を賭けて書けているかはわかりません。ただもし上山さんがどこかで読んでおられたらうれしいなと思っています。上山さんがどのような方なのは、実際存じ上げないので、本とブログの印象ですが。
さっき書いた上山さんのブログ。Freezing Point
May 01, 2008
思い出
あついす。朝から地元で野暮用があり行ってきました。Tシャツにながそでのボタンシャツ羽織ってるだけやのに軽く汗かく。
久しぶりに阪急に乗る。小豆色の車体にうすみどりのシート非常になつかしい。
野暮用自体は簡単な手続きで、すぐ済んだ。
市立某図書館に入る。高槻にいたころは、中央と小寺池と天神山の3図書館にはお世話になったす。
そこで長谷川四郎訳ブレヒト詩集、ハイデガー『芸術作品の根源』、アルチュセール『哲学について』を借りる。十年くらいまえによく来ていたときにいた司書の女性が今もいたので感動した。こういうとストーカーめくが、当時素敵な感じの印象があって、今も綺麗な人だった。みんなそんなに面子が変わってなかった。
当時は時折いやいやバイトする以外、図書館か淀川の河原でひなたぼっこするか、本屋くらいしか行かなかったから、ほとんど人と話した記憶がない。仕事が続かないから、親と会話するのも気詰まりで。やから、図書館の司書の人は覚えていたのかも。僕が好きな感じの人だったという理由が大きいけど。
そんな感じで今風にいうと、フリーターとヒキニートの中間みたいだったなあ。
家族以外、誰ともしゃべってなかったし、昼間はブラブラしていたし、意味わからん文章書いて、焦りまくっていたし、ニーチェにはまってたし、悩内がけったいなもんでつまっていて、大忙し。
内容は本人にも不明だが、根拠のない自信(妄想?)もあり。けっこうやばい感じの人じゃった。
今は単なるしゃべりのおっさんである。
本返しにいくの面倒やけど三週間借りられるから、まあ里帰りした折りに返そうかな。というか読みきれるか?ゴールデンウイークは高槻JAZZストリートもあったな!あれいいよ~
今年はどうすっかな。
高槻ジャズストリートHP