May 20, 2008
やばそうな領域についての2つの試論他-呼ばれる詩の場所・事切れる=死
1.こないだ某詩賞に応募したよ。あかんかなあ。*
2.「呼ばれる詩の場所」
ハイデガーの「言葉についての対話」を読了。「芸術作品の根源」は真ん中くらい。
ひえ~、言葉がよくわからん。でもそれはまあ仕方ない。
なんとなくハイデガーにもつながるのかもしれないが
何か書くとき、とくに詩らしきものをしたためようとするとき
意識が変成するように思えるのである。
しかし、そのきっかけは酒やら、薬やらの力でそうなるばかりでない。
鳥の声でもいいし。
で、書くものは鳥の声とはあんまり直接つながってなかったりする。
しかし、何ものかの呼び声で励起(立ち上がる?)するようには
いえるような気もするのだが。ごく個人的に言えば。
しかし呼びかけそれ自体は正体がよくわからない。
だから書くのだろうけれど、ハイデガーについても、その呼びかけが
一体なんであるか私はまだ不明であり戸口に立ったばかりなのだ。
しかし、それなしには何かが落ち着かない。いや作動しない。
自分の真実性や虚偽性を識るのに、詩が必ずしも
必要かどうか不明だ。しかし、それを識る身振り・祈りの
形象化・祭祀化(自ずとそうなってしまう)だと考えうる。
仕事でも無為でも生きとし生けるどのような営みでも
己の真実性や虚偽性(虚構性)は識ることができる。
おそらく、その働きに「書くこと」は近似し
また決定的に遠ざかってしまうように思える。
その遠ざかりは苦であるが、遠ざかりを十分に自覚し得れば
私は「書くこと」で何かを強く思うことができ
その思ったものを解放したり、それに縛られたりしてしまうことができる。
ただ、「書く」人は「書く」形で、絶えず確かめや不明に
陥るような行為を択んでしまっているとはいえるかもしれない。
故に何かに呼ばれたりする形、それはある意味幻聴みたいなものかも
しれない。だけど、それがないと私が意識があったり、自分が引き受け
ないといけないことがあるような気にならない。
私は怠け者だから、起こされないと起きないのだ。
私はほとんどの場合比喩的にいうと寝とぼけて生きていて
もう全く考えることがない。大体バラバラな思念やら行為の断片の海を
生きていて、それは物として存在していたり、事として存在していたりして
まだらである。
それが不意の声によってある場所に呼び戻され新たに召還しなおされるような気がするのだ。
召還され新たに言葉としての身体(場所?) として編成される。
しかし、構成というものがどこまで自覚しうるものなのかな。
また、それが「覚醒」であったり、「本来性」であったりするのか
わからない。非常に厄介である。
「ある場所に呼び戻され新たに召還しなおされる」ことが
人間本来の姿への回帰だと信じすぎると
それは急速に一回性やら、ノリやらを失って
いきなり動脈硬化を起こし始める。
けれど、私はこのような形である場所に置かれているような気がする
っていい続けること事態は、無ではないような。
意味があるかどうかは別にして、何度も、似た場所にたってしまう
っていうのは、気になることである。その気になり方を表出することは可能だろう。
その「気になる」(気づかい?)感じに従うと、きっと痛い目にあうことも多いのだが
乗りかかった船には乗ってみて
痛い目やら快楽の展開を追うと、その感覚の体自体が通路になって
変な場所というか、その人の有り様のようにいびつな場所に出て
しゃあないなーと思うのかもしれない。
しゃあないなーが「覚悟」みたいなものか知らん。
けれど、そう思うと更に、なんでやねんというふうに
放り出されて、絶えず私は詩を書くという聖性を見失う形で
それを識るのである。
*
3.「事切れる=死-Tさんの日記に触発され死者と生者との関係についてとにかく書いて見ましたら、こんな変な文章になりました。」
死は「事切れる」とも言うのである。
事というのは物事のことだったりして、現象
つまり感覚や観念の世界として可視化したり
思考化したり数えたり記号にできる領域だとする。
ならば、そういう圏域から抜け出るのでも
消えるのでもなく「切れる」というのが死であるかもしれない。
自分はいまわの際の人の体や存在雰囲気を感じるなら
そこにその人はオワスわけであるが
そのオワスことはたぶんなくならない。
しかしオワスから何かが切れて
我々の表象言語世界とは別の圏域に
移行する。
この移行の過程はTさんいわく「あいまい」である。
けれど、なぜか私がそこにオワスある人に呼びかけても
返事がないというのはわかる。
いやわかっていないのかもしれないけれど。
それぞれケースバイケースとしか言いようのない感じで
心身機能は、人へこたえることを終えていく。
いや、いつまでも我々に感知できない形で
オワシますある人はオワシますを減少=(世界へと)還元させながら
こちらへ投げかけ
私の存在をその人のもとへ引き寄せようとするのだろう。
残念ながらそれを現実界にて応答なしと宣告するのは
医師であったり制度や葬儀屋であったりする。
けれども、別次元で私はその人の「事切れ」の何かを聴いた感じが
あるのかもしれないとも思う。
生者の都合で押し流して死を確定させてしまうとしても
ある形で永劫、その人の声を聴けなくなることは
確からしいと思われたりもするのだ。
しかし、これも言い切るのはためらわれる。
そのためらいを大切にしたい。
私は死んだ人にどれだけ呼びかけても
生きた事=現象の形では、もう反響がないから
自己のうちに閉じ込められて、その残響の中で
その残響をこうかなとしておく。すると
また人が死に、わからない声の総体のように
私はなっていく。
そのわからなさエントロピーの増大にしたがって
私は世界と一体化し続け、不随異な部分だらけになり
ある日事切れているような…
そうすると世界という集合に巻き込まれることが「死」だとすると
何から事切れてどこへここの外のどこへいっているのか
急にわからなくなってしまった。
ゆえに、何かでいえるような形ではいえない=事切れる
ってことで、その言えないという姿かたちが死の表象に似ていて
だから、やっぱり死は言葉にとって最大の重大事であり
最大の無関係事やもしれん。
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