Oct 27, 2007
村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』の感想など
昨日は京都ポエトリカンジャムの日だった。マイミクのはに丸さんや、tabのお仲間の鈴川さんも出場するということで見に行こうと思っていた。でも、朝から頭痛が激しく体調が悪かったので行けなかった。さらに大阪は強い雨が降りしきり止めを刺された。残念です。 今日も頭痛は治まったもののお腹の具合がよくない。でも、昨日よりはマシかな。最近はエリック・クラプトンの『レプタイル』を聴いている。これは愛する伯父にささげられているようだ。村上春樹がその著書『走ることについて語るときに僕の語ること』の中でジョギングしながら聴いているとしっくりくるし、聴けば聴くほどいいと書いていたのだ。影響を受けやすい僕はツタヤでレンタルしてMDに入れた。ただし僕はジョギングはしない。というか走るのがまるっきり苦手なのである。春樹さんは長編とか骨太の小説を書くには肉体的な持続力が大事だから走っていると書いていた。それ以前に春樹さんは「一人でコツコツ」やる内省的な作業が好きなようなのだ。春樹さんにとって「走ること」と「長い小説を書くこと」は近い作業のようなのだ。体の状態やモチベーションを徐々にその作業に馴らしていくことや、最初苦しいのもある地点を過ぎると、とても気持ちよくなることや、その結果この作業が止められないような麻薬性をもつことなどである。
この本も、『レプタイル』も、別にランナーでなくてもいいと感じられる。僕は学生時代、通知表に「いつもコツコツやっています」と書かれていたのだが実は非常に飽きっぽい。また春樹さんのように「自分に向き合う」のが実は苦手で誰かと一緒の方が安心する。どうしようもなく淋しがりやの人間なのである。 しかし春樹さんの言うこともよくわかる。たぶん自分の人生に起こる出来事や、自分の生きているこの世界のことに何らかのこだわりみたいなものがあって人は書くことに向かう。驚きとか怒りとか悦びとかとっかかりは何でもいいのだが、それを何とか形にできないか、保存しておくことはできないかと思うから創作に向かうのである。 けれども、世界はたえず流転し、私の存在もかよわいウタカタのものである。たちまち流されてしまいかねない。 だから自分のスタイルを作る。春樹さんのこの本はそのスタイルの一例を語っているように思われる。ここで引用。
生まれつき才能に恵まれた小説家は、何をしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉からこんこんと湧き出すように、文章が自然に湧き出し、作品ができあがっていく。努力をする必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。だからひとつの水源が乏しくなってきたと感じたら、思い切ってすぐに次に移ることができる。自然の水源にだけ頼ってきた人は、急にそれをやろうと思っても、そうすんなりとはできないかもしれない。 人生は基本的に不公平である。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所にあっても、そこにある種の「公正さ」を希求することは可能であるように思う。
(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』p65)
まあ村上春樹も成功者だからちょっと嫌味かもしれないがその辺は仕方ない。あるいは詩はまたちがうかもしれないが、この「水源」にたどり着くのに途方もない時間と粘り強さが必要なのはどのような事業でも同じ。けっこう肉体的なものなのかもしれない。少なくとも村上春樹はフィジカルに「書くこと」を捉えている。 走ることはたえざる持続である。毎日あるペースでやらないと体がなまってしまう。書くこともそう。春樹さんは別に「毎日書け」と云っているわけではない。そうではなくて、書くことも毎回新しい動機があるのだから、それをいかに持ちこたえることができるのか。一般的な方法論があるわけではないので、自分なりのスタイルを作った方がいいと言っているみたい。そのスタイルは不変ではない。世界も自分も変わって行くからだ。春樹さんは「老化」を語っているが新しい「呼吸法」を見つけていくことは「走る」のにも「書く」のにも大事な事なんだろう。 新鮮な呼吸が体にとってフィードバックであるように書くことも自分と世界との対話であるだろう。
クラプトンはブルースを白人の側から再解釈したと言われているが、どうなんだろう。もしかしたら黒人のものを収奪したといえるのかな。黒人のミュージシャンは成功している人も多いけど、貧しい人はその何百倍もいる。安易に人種だけで貧困の問題は語れないんだろうけれども。本物の黒人音楽って何だろうと思った。こないだ森進一が歌う「ラブイズオーバー」を聴いて、これはソウルミュージックかもしれないと思った。こぶしを利かすのではなく一言一言切るように切り裂くように語りかけてくるその様子は素晴らしかった。
Oct 21, 2007
日曜日
今日作品が書けました。自分としてはわりと硬派な感じ。祖父の戦争体験と今のことをつなげてみたかった。それを先週買った複合機にて印刷。エプソンの型がちょっと古くて安い奴。最新型は性能はいいんだけど大きかったり高かったりでうまくない。だけどこいつは、まずまずの速度で、いろんなコピー類の手間が少しマシになるかなと思う。
最近はUKのロックバンド「トラヴィス」のセカンドを聴いている。悪くない。先週の金曜は雨でデイケアでかけてみたんだけど雨が似合う。
話は戻って5時から合評会に出席。マイミクのYさんやKさんらが参加。彼らは文校つながりです。今月の京都は「京都ポエトリー月間」だそうで、KSWS(京都スポークンワーズスラム)の話なんかを聞く。Kさんが京都ポエトリカンジャムに出場するらしい。私の詩はわりかし好評でした。Kさんはポエトリカンジャムに使う朗読詩を出してました。昔のを直したそうだけどやはり自虐とユーモアのセンスがいい。ご飯を食べに行って牡蠣鍋をつつきながら恋話をみんなでしました。
最近竹熊健太郎(さるマンで有名になったマンガ編集者)のブログを見つけました。ここ十年うかばれなかった竹熊健太郎さんですが、95年に出した「私とハルマゲドン」は彼が「オタクとして培ったメンタリティ」からオウムを共感的しながらも(しかし)批判している。つまり一歩間違っていたらオウムだったかもしれんという危機感からオウムにならなかった(なれなかった)分岐点を語っている。内在的批判です。さらに各共同体間をさまよう旅人でしか自分はありえないんじゃないかと語っています。これは名著だと思いますが、なぜか手元から消えているので正確な中味を紹介できません。笑える裏エピソード満載。しかしさらに絶版状態。
竹熊健太郎さんは昨年末脳梗塞で生死の境にいたようでそのことを書いている名文がありました。http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_bba5.html さらに萩原朔太郎の面白いエッセイを紹介します。http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/2519.htmlでも、竹熊さんの文章を読んだ後では、なぜか朔太郎の文章が突っ込みの度合いがイマイチだなと思う石川でした。正岡子規について詳しくはありませんが朔太郎の書いていることになるほどと思いました。前フォーラムでそんな文章を書いたことがあります。でも朔太郎の「猫町」は大好きです。
最近は90年代後半から911くらいの時期の世相の変化ということを考えています。その補助線として梅田の再開発のこともぼんやり思ってます。
Oct 18, 2007
人からもらうエネルギー
しばらくぶりの更新です。ちょっと前の話になりますが、ぽえざるでは、様々な方にお会いできて感謝しています。一年ぶりの方も多数いて、こういう機会でしかなかなか会えない人もいますからよかったです。交流っていうのは、しょっちゅう会うということだけではなくて、時間を隔てると温まるものもあります。ただ普段それほど私は人に会う生活を送っていないので疲れるという面もあります。個人的には「会う」っていことは「意味」や「言葉」だけを交わしているわけではないと思います。形にならないエネルギーみたいなもののやり取りが大切。自分が与えるだけでなく人からも色んなエネルギーをもらっています。しばらくぶりに会うと「この人はいい感じ」とか「元気ないな」っていうのがすごく伝わってきて圧倒されることもあります。そういうのがいろんな風に自分の中で反映してなかなか整理できないっていうのも事実でした。まあ祭りの後ってそういうものかもしれません。
こないだCD「河島英五LAST LIVE」を聴きました。さっき言った人の持つ「気」とか「エネルギー」のひとつのあり方を見ました。このCDは二枚組みで①が90年代後半から亡くなる一年前(2001年)くらいまでのものです。②が大和銀行の本店の地下ホールで開かれた亡くなる2日前(2002.4)のトークライブです。①は枚方市民会館とか小さい箱でやっていて、旅から旅へローカルなものを愛した事が伝わってきます。
②では一時間くらいのライブですが話す声はよれよれです。しかし歌うと力強いものを感じます。単なる力強さではなく温かいのです。この人は色んなアジアの国を旅していたので、その話も面白い。きっと必死に話していたかもしれない。でもうれしいからなんだろうと思います。ファンのおばあちゃんが書いた詩に曲をつけたりもしているんですね。この2日後には亡くなっていて本人も死を思っていたかもしれません。そういうときには何か謎の力が伝えられるのかもしれないと思いました。これも人から送られるエネルギーです。
この前イエスの復活を論じた本を読みました。墓参りに来たマグダラのマリアに向かって復活したイエスは「私に触れるな」といったそうです。田村隆一の「立棺」も同じテーマだと思いました。私はキリスト教徒ではないのですがこの話は一見河島英五さんのエピソードと逆の「拒絶」するような感じがあるかもしれない。しかし、そうじゃないかもしれない。うまく解釈を思いつかないのですが、様々な人にとって「今だ生きている」イエス。それをイエス自身が「私の現身は無くなった」と伝えに来たのかもしれないなと思いました。復活の中でその逆の「消滅」も起こっているのかなあなんて考えたりしました。夢枕に立って亡くなったことを伝えにくるみたいな。
Oct 07, 2007
参加予定です。
10月6日は堀北真希の誕生日だったらしい。ファンなのに全然覚えてない。誕生日覚えるの苦手です。今日でやっと三つ目のレポートが書きあがり、安いしめ鯖の切り身を買って日本酒をいただく。ついでにレポート記念として、ひさしぶりにFoo Fightersの新譜を買う。聴きまくる。転調が不器用な感じで、終わりに近づくにしたがってだんだん静かになる。アメリカンロックだが時々ギターを静かに爪弾く感じも意味はあまり感じられないが気持ち良さそうでぼーっと秋の夜長に聴くのによい。愉楽である。☆☆☆☆7日はぽえざるである。JR京都駅前のキャンパスプラザで1時くらいから始まる…だったかな。詩誌「かたつむりずむ」チームに参加予定。Oct 02, 2007
芸術とくらしに関してダラダラ(長文ごめんなさい!!!)ーしんどい方は最後の最近読んだ詩と音楽だけみてもいいかも。
どんな文学作品であっても、読むときにそもそもその世界に入りたいと思うかどうかがとても大事なんだと思う。一行目、あるいは装丁を見て読者は「ああこれはどんなのかなあ」と思ってくれるかどうかがけっこう大事である。例えばそれは店に似ている。ちょっと誰かと食事をしようなんてときに、予算とか今食べたいものも大事であるが、何より店の前で感じる雰囲気が大事である。「何かこの店良さそう」という直感をバカにしてはいけない。もちろん直感はよく間違うわけでもあるが、その直感というのは何より大事である。如何に読者を引き入れるかにマーケティング的に腐心している方もおられる。しかし、いくら計算しても入りたいかどうかという、読者の直感は偶然的でもあって計算とは違う要素がたくさんあるんである。もちろんいかに詩を広めるかという議論も大事であるし、その効用は認めないわけではない。ただ詩が難しいから入りたくないとか、詩の世界が開かれていないというのだけが詩に読者が少ないように見える理由ではない。大体宮沢賢治もカフカもニーチェもまあ色んな人が生前には文学では食えなかったので、活字離れといわれながらでも、こんだけ本が売れているというのが今の消費社会特有のものといえなくもない。はたして人類は進化したとだけいえるのかな。昔、サルトルがいっていたが、何か読めるというだけで、すごく豊かなのだ。しかし、それだと豊かさ批判みたいになるな。。
いろんな人に読まれるのがよいというのもわかる。けれど細々とでも常連さんがついてくれるというのもよいのである。友達が100人、マイミクが100人出来るのも相応に大事であるが、たった一人でも友達がいる、それを大事にするという営みは人にとってなくてはならないかもしれない。人でなくても、猫でも空でももちろん素敵な事である。また美しいものや友達に囲まれていないという生活で満足している人もいないわけではない。僕はいいもの、美しいものがある生活が好きだからそうしているわけであるが、暮らしの大半は何気ないもの、意味があるかは即座にわからないものもあるのだと思う。そういう人やものの中で美しいと思うものを探したい、楽しくありたいという中で文学、芸術を選択する人がいる。これは多様化でもなんでもなくて、人類の暮らしってそういうものでないかなと思う。
僕も子どもの頃絵を書くのが好きで、絵を描くっていうのが無性に楽しかった。ラスコーの洞窟に狩りの絵を書いた人がいるけれど、生活の必要だけで描いたのではなかろう。しかし、それは生活にとってかけがえのない暇の過ごし方であったはずだ。また、かつて農作業や漁の時に歌いながら働いていたりした。仕事の中に遊びを入れていた。しかし仕事が辛いということの慰めや、みんなと共にあるという感覚のために歌があったばかりでない。歌がなければ仕事がやってられないというのもあったと思う。もしかしたら、生活の中に遊びがあったというだけでなくて、歌がなければ暮らしも成り立たなかったといえるかもしれない。だから遠山の金さんも、寄席や歌舞伎が倹約令で廃止されそうになったとき、そういう遊びがあるから、みんな仕事もがんばれるのだと反論したのかも。
うまくいえないのであるが、小林秀雄が「実生活なくして思想はない。しかし、そうして思想は実生活から離陸して行くのだ」というようなことをいったが、これはトルストイが奥さんから逃げたときに正宗白鳥に対して云った言葉だ。正宗は奥さんが恐かったからトルストイは逃げたんだというわけであるが、正宗は暮らしと芸術を即物的にわけるわけである。それもわかる。しかし暮らしは「昏し」ともいえるのであって、よくわからない暗がりや欲望やセオリーとも別のものが暮らしの中で生まれるわけであって、その「昏し」のグラデーションや味や音を(暮らしで用いるやり方とは一見違うような方法や空間や時間で、)形にしようとする衝動がある。それが芸術とよばれ、なぜか生活とちがうような次元に見えるわけであり、どこが暮らしと分かれていて、どこがくっついているのかわからないけれど、安易に暮らしと分けたり、くっつけたりすると芸術のうまみは消えてしまうと危惧している。しかし、孤高の芸術家というのもカッコいいかもしれないですけれど。永井荷風も考えてみて面白い存在である。晩年はストリップ小屋に通ってカツどん食って死んだけれど、荷風も大逆事件にショックを受けて厭世の度を深めたとも云われる。芸術と暮らし、芸術と世間、単純ではなさそう。
◎最近よかった詩
細見和之『ホッチキス』
山本泰生『声』
現代詩手帖2007年9月号須藤洋平の詩
最近洋楽ばっかり聴いている。コールドプレイ『静寂の世界』、ナインインチ、レディオヘッド『ベンズ』、ジョニ・ミッチェル『ブルー』、SAM41『チャック』、ウエザーリポート『ナイト・パッセージ』、シカゴ(何かジャズのビッグバンド風のもの)こういうのは大体知り合いに教えてもらって聴いているのでジャンルバラバラ。詩や音楽の感想も時間があったら書きたいけれどレポートを書かなきゃならんのです。