Dec 30, 2005

大掃除

今日は大掃除の日でした。
掃除は面倒なものだけど、窓拭きやトイレ掃除、掃除機かけをしました。彼女がいるのでやらなあかんのです。
昨日の診察では、リハビリのためデイケアに通う事や、最近の状態を話しました。見学に行ったデイケアが日当たりが良かったというと、先生は笑っていました。こういうところがすっとぼけております。そのくせ、すごくイイ子になってしまうのが僕の欠点です。でも、「冷静に考えられるようになってきたね」といわれてよかったです。
帰り道は、テレビで阿久悠の特集をかけっぱなしの、古びた駅ビルの地下で、カリカリになったから上げ定職を食べました。おかみさんが、常連客に長々と来年もどうぞとかやってたら、どうもあげるタイミングが遅れたみたいな。。それで750円だった。延々とジュリーの曲がかかっていて、かっこいいんだけど、落ち着いてみれませんでした。
電車の中では、内田樹と名越康文の、「14歳の子を持つ親達へ」を読んでいました。「親達」とありますが、ぼくには、子どもはいません。なかなか放談振りが面白いです。
電車とかで騒がしいオバサンは、思春期にも達してないという記述があり、しかし、前思春期は大事なのだと書いてありました。 そういえば、僕にはそういう打ち解ける友達が残ってないなあ。
でも、今日、昨日メールを送った大学のときの友達が電話をくれたのはうれしかったなあ。声が聞きたかったって。東京に出向になるといってました。まだですが。また正月遊べるといいです。
昨日非定形精神病と書きましたが、そううつ病や、統合失調症にかぶる部分もあり、でも、それらとちがって、予後が早い病気なのだとか、本当かな。あまり資料がないのです。まあ、薬とか保険適用の関係もあり、そう診断書を書いたし、うつ病だと説明できない気分の変動があるからと先生はいってくれました。
今夜は彼女と忘年会です。
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Dec 29, 2005

診察の日、本の話

今日は診察の日です。彼女が実家の墓参りに行って暇なので、書いています。昼はもやし炒めを食べました。
僕は非定形精神病という病気です。一年前くらいに、昔通ってたデイケアをやめて(休まらなかったので)、茨木にあるクリニックに転院しました。
この病気は、躁鬱の波がひどいので、難儀しました。すごく怒りっぽくなったりして、でも、その波はリスパダールという薬を飲んだら、良くなりました。でも、次は不安がきて、それが続いて、詩集を出すとき、しんどかったです。
ひとくちに、精神障害といいますが、きついときは、体の症状、冷え性、食欲低下、聴覚過敏、歩行困難がすごかったです。心の病は、脳という臓器から、全身にも症状が及ぶと思います。ある意味からだの病気です。やはり。
今は、ジムに通えるくらい意欲が湧いていますが、対人関係を、仕事をやめたり、病気になったりして失ったので、また、近くのデイケアに通おうと思います。それくらい心身が楽になってきました。
今日は定塚甫さんの「人格障害」という本を読んでいました。でも、この本は、少しものの見方が狭いかもしれないと思いました。精神医学の世界を批判し、それはあたっているのですが、批判されてる対象がまたホンマにひどいところなのです。ある意味、業界というのは、狭いなと思いました。情報というものがあふれていて、うつは心の風邪、といわれているのですが、結局専門家が一番差別者だとこの本には書かれていて、確かに、業界の閉鎖性と情報の偏った流れがあるなと思いました。いわゆる内部告発を意図した本なのかもしれません。わかったのは、「人格障害」というものが、この世界から祝福されていないという深い感覚から生まれるという説の存在です。それから、人格には、責任が問えるということでした。驚いたのは「人格障害」に利く薬があるということです。全てが真実とは思いませんが、臨床的な説得力が感じられました。文学的な感性をもっているのかもしれません
幸い、ぼくの先生は自分で探したので中庸だと思います。話の聞き方、処方の仕方、症状の見方が、ええ!とならず、常識的なのです。相性もあると思います。わかりやすく耳に痛い事も云ってくれる医者が臆病なぼくには、必要なのです。しかし、いろんな先生がいるなと思います。そういう多元的な感覚で、精神医療関係の本(に限らずいろんな本)を読まないと、つまり、書いた人となりを普通に見ていないとしんどくなるし、なりかけました。
本というのは気をつけないと、変な深みに連れて行かれるなと思います。最近また介護の世界を考えたいと思い始めたので、ニキリンコさんと藤家さんというアスペルガー障害の人の本を読んでいます。
昔自閉症の人たちと深くかかわったのでなかなか勉強になります。様々な仮説をたてて関わっていましたが、それがあんまり的外れじゃなかったんだなということが、言葉の多い自閉の人から伝えられた感じです。雨に当たると痛いという独自の身体感覚から、宮沢賢治もあめに負けたくなくて、「アメニモマケズ」を書いたという理解をしていた、同じ障害の藤家さんという人の読みは面白いなと思いました。切実です。
ぼくは、でも病気で職歴が四年間ないので、いつか現場に戻るときに戻れるだろうかと不安になったりします。また、介護の話はしたいな。。
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Dec 28, 2005

ねじれていたい

消えたイメージ

もうそこには
いられない
あたたかい
わたしたちの胸には
消え残る
スケープ
展望の
ささやかな
望みだけがある
のだろうか?

白鳥が舞う
山の端を
そして
悲しい
悲しさは
禁じられようとしている

そして貧しさは
笑われる
電脳の
首相の
次官の
時間の薄笑い

公園の
ブランコの向こうから
牛乳が運ばれてくる
みんな
どうしているの
誰?
誰?
誰?
手をかざしている
天皇の
悲しみの
届かない
爆撃
そして
料金不払いの
冷え冷えとした空間
雲っている
わたしたちは
手を
しどけなく
垂らしたまま
水平飛行に
入る
地上が見える頃には
哲学者がむかえ
うたがいながら
もうすぐ着陸します

そう
語ってはならない
のだろうか?
難しいことを
語っては
ならない
のだろうか?

わたしが生きているのは
醒めた
古ぼけた大地で
金が死に
かわいそうな
お母さんたちがまっている
女の子が絵をかいている
逮捕された外国の人は
偽名を使っていたが
逃げるだけの
何から?
少し涙する
人の
なんでそうなるのだろう
そして
子は
どこへ行ってしまった
安置の
さむい言葉の
もしかすると
弱い者は
さらに
哀れまれ
守られようとして
更に
暴力の
地平に
たたきつけられ
うばわれ
間を裂かれ
もう友達になれないのか?

詩は
詩は
そのなかで
どうしてか
ブラックボックス
とおまきに
あるいは
直線に
行こうとするのか

やめなさい
せめて
ねじれていたい
戦後の山の
重なりの
その
遠く
ねじれていたい
批評なり

明日から今日へ
そして明日へ
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Dec 27, 2005

詩集紹介

050922_0916~001
「野原のデッサン」石川和広著  2005.9発行草原詩社
定価1500円+税。ISBN4-434-06592-0
※手に入るネット書店↓
ヤフーブックス
楽天
アマゾン
bk1

所収詩紹介◎おもいだしたこと 

ひろびろとした
大学の教室の
誰もいない
こと
たしかめて
侵入した

空調は消されていた七月の
ブラインダーの降りた
その場所で
母の作った弁当を

箸の音
なるべく立てず
白く長いのっぺりと
いつまでも 不気味に続くつくえの

下にもぐりこんで
丸い形で
清い躾の、残さず食べた

ひとに
会う
ことの

沈黙に耐え切れずに

もう病に倒れたかったけど

お母さんの弁当は妙にうまく、簡単には倒れなかったカラダ

あれから
かなりたった

けど
まだ倒れてない

不思議に
あたりまえに
まとめずに

あの大学にいくバスは
あのころから
三十分に一本のままだ

苦しいのは
過ぎこした

余念の
ぬけがら


足を引きずって

食卓へ
Posted at 14:41 in book | WriteBacks (0) | Edit

◎吉増剛造覚書―ハルキ文庫版「吉増剛造詩集」感想

          *私の読んだ「ハルキ文庫」は三部構成になっている。
① 頭脳の塔
② 航海日誌
③ 草書で書かれた、川
* これらは直接詩集タイトルではない。
◎ 印象
「現代詩」という先入観を破ってくれた印象だった。
思ったより読みやすかった。そういう風に編集されている。さすが角川春樹事務所。稲川方人を選者に持ってきて、初心者でも入りやすいように作られている。それでも近年、カッコや脚注の多い吉増の文章を見て何人の人がアタックするだろうか。僕も読書会という機会がなければ読まなかったかもしれぬ。
さわやかですらあった。非常に明晰である。晦渋とは異なる明晰。これは、どこからくるのだろうか。普通、体験を文字化すると距離ができて体験の鮮度は死ぬ。
しかし、書かれながら、書くという体験を生き、その歩みを一点一点、刻印していく場合は、違うのではないだろうか?その刻印の軌跡が書かれている。まるで、歩きながら書いているような印象は、それと無縁ではないだろう。私の参加したクローズドの読書会では、無駄が多すぎるという人もいたし、宮沢賢治のように歩きながら書いているのではないかという人もいた。
もちろん、ハルキ文庫だけですべては語れないだろう。しかし、文字化した=テキスト化したドキュメントという形は、昔から吉増に現れているように指摘できるのではないだろうか?

紫の
魔の一千行
天山山脈に書きつけようと
旅にでた
恒星は朝になったら文字になる!創造の掟を破壊する刺客として、狩人とし   て、旅人として、頑迷なる天動説保持者として、マルコ・ポーロ復讐にゆ   け!

                     (「魔の一千行」―天山断章より引用)

  そのドキュメントを導き、生かしているものは何か?
テキスト論―デリダのようなーは、「生の声」というのはないと指摘する。全ては痕跡なのだと。全て「書かれたもの」から言葉が組織化されていると。そうだろう。
この文庫は石川九楊という書家が書いているが、これは偶然ではない。書とは書かれたものをまた新しくなぞりながら、そのなぞりかたにリアリティーを求めるのである。古代中国の書家たちをお手本として。そういう意味ではデリダの言うように、「書かれたもの」が先行している。
吉増の独特の歩行は、その何者かを忠実になぞる、出来事のなぞりという点で際立っているのではないだろうか?抒情をもなぞり、感覚の火花をなぞる、聞き取られたものを脳内で文字化し、それをなぞる仕方の忠実さが群を抜いているのではないか?
そういう意味で、型というものを大事にする古典芸能に通じる自己劇化のドキュメントといえるのではないか

 いつでも
時代錯誤の
時代おくれなんだ、おまえは
純金の夢夢あるいは狂歌一千年狂草体に文学を崩して爆音たててるつもりがい つしか後方から騎乗位の美人が追ってきて壮大につづく宇宙の白壁も消え途 方にくれてる杜子春てわけだ
ああ
心凄き
地獄だぞーなに、そうじゃあるまい

                        (「渚にて」から引用)

「時代遅れ」=つまり、今ここから遅れた歴史をなぞる位置からの逆爆走。今ある文学を崩して、杜子春に変わる「変化(へんげ)」。古いものに密通しようとするドラマに生きる 「おまえ」=吉増

○ 第一部

帰ろうよ  歓びは日に日に遠ざかる
 おまえが一生のあいだに見た歓びをかぞえあげてみるがよい
 歓びはとうてい誤解と見あやまりのかげに咲く花であった
 どす黒くなった畳のうえで
 一個のドンブリの縁をそっとさすりながら
 見も知らぬ神の横顔を予想したりして
数年が過ぎさり
 無数の言葉の集積に過ぎない私の形影は出来あがったようだ
 人々は野菊のように私を見てくれることはない
 もはや 言葉にたのむのはやめよう
 真に荒野と呼べる単純なひろがりを見わたすことなど出来ようはずもない
 人間という文明物に火を貸してくれといっても
 とうてい無駄なことだ
 もしも帰ることが出来るならば
 もうとうにくたびれはてた魂の中から丸太棒をさがしだして
 荒海を横断し 夜空に吊られた星星をかきわけて進む一本の櫂にけずりあげて
 帰ろうよ
 獅子やメダカが生身をよせあってささやきあう
 遠い天空へ
 帰ろうよ

                       (「帰ろうよ」全文引用)

  非常にメロウな歌だが、単純な抒情でないことは、「無数の言葉の集積に過ぎない私」という言葉から、わかるだろう。逆に言えば「書かれたもの」の中から、さらに死のほうへ、さらに死んだものは生きているという生々流転の瞬間を捕まえているといえるだろう。 「天空」というのは単なる「空」=無への回帰ではなく、古い中国の「天」を想像させる。 他の詩とリズムが違うのだが、吉増の基層低音である生命が捕まえられた瞬間だ。書きながら生きる、そして歩いていくということを打ち付ける一曲だろう。

ただし読み始めは勢いのいい言葉だ。界隈をうろつく、足をたたきつけるリズムと妄想世界めぐりが並べられ叩きつけられ、自動筆記的書き方にしては構成もしっかりして、一語一語に魂が宿っている。しかし重くない。どこか脳の神経細胞が発火する瞬間とスピードに乗っている。世界は脳の中にある。だから「頭脳の塔」と題されたのか。生まれる前に帰りたい芽のような印象。すごく若い。やわらかい印象がある。タイトルがいい。「草原へ行こう」とか「帰ろうよ」とか。
僕は「野良犬」の「やせこけひん曲がったおれたちの音符」とか「玄関」の連呼とか、孤独のうちに連帯を求める詩がいいと思った。「帰ろうよ」は「獅子やメダカが生身をよせあってささやきあう/遠い天空は/帰ろうよ」が素朴な世界への素直な郷愁、本当に帰りたい気がして、いい感じにかわいい。愛しい。

  ○ 第二部―フルブライト留学と、ヨーロッパ旅行の記録。

「黒人は竹馬に乗らないのかしらん」とか詩にも出てくる覚書が笑える。とても真剣なのだが、その真剣さがおかしい。「恋愛詩を書く!」「老年までの恋愛!」とか唐突に出てくるのもいい。スチュワーデスとか合唱団の女の子が「酒井和歌子」に似ていて目が離せないとか、こういうところは目茶、お茶目で健康的なスケベさがいい。この旅行は、マリリアさんとの出会いから結婚まで一気に書かれていて、性にも生活にも世界を見る眼にも時折絶望しながらも発見と転機―稲川方人は「青春」といっているがーあった時期なのだろう。どういう恋愛をし何を見たのかわからないけど、とびとびにドラマチックにそのテンションが伝わってくる。とにかくその出会いからの展開が速い。彼はここで世界を脳内から本当に展開するものとして見たのかもしれない。そのポイントポイントがうがたれている。幸せだ。こういうの僕も書けたらなあ。地獄という言葉が第一部から出てくるけど、吉増の地獄はすごくハイだ。書けない時もハイだ。

○ 第三部

冬に来た時、一渡り、五十円だった、千曲川
の、渡し、この夏も、私達は飯山線に乗って
、行った。 私達は軽く、ステップを踏む、
何故なら、私達の歩行は歩行のための歩(が
踏む)不思議な行列を追っていてー。
千曲川のスケッチ(藤村の)、時折、プラッ
トホームに立って、体操をしていました。

また

 私達は、身体障害(ハンディキャップ)が、
 有様に、やや、傾いて、道路の、傾きのまま
 走って、行った。  幾段に、シフトして、
五、七、五、  -語尾のあたりに、バック
ギアを、入れて、行った。傾きつつ、後退、
せよ、サイド・ステップを踏み(母親熊も、
テンポイントも)、八月、私達は、熱病にか
かった様に、額に、汗を滲ませ、沈み行く。

                 (「死馬が惑星を走る日は」から二節引用)

初期に比べ歩行のリズムが障害者のびっこの韻律に変わっている。繰り返すシフトチェンジという言葉がラップのようでいい。ゆっくりラップ。日本語への違和と現象の記述が同時に進行している。そして死んだ走者(円谷)やテンポイントに語りかけるこだまのような声。世界を見た吉増は明らかにローカルなものをかつても歩いていたが、今度は本当に他界(死者たちが走る世界)が見えるように追いかけつつ引き帰しつつ書かれている。しかし憑依の気配はない。明晰さは失われていない。繰り返しが作るリズムに加え、初期とはちがう地名や人名への呼びかけが特徴だ。初期は、自分はここにあるという印だった名詞が、第三部では、それ自体を物語、歌の中で、呼び合い、たくさんの声が重なるように、死者や土地が覚束ない足取りのほうから呼びかけられている。僕は「死者が惑星を走る日は」がタイトル的にもリズム的にも好きだ。「織姫」の「テルさん」という呼び声も印象深い。
どこか彼方への呼びかけという気がする。第一部の垂直性から水平そして段差と、息遣いが深くなった印象である。

 高一くらいの女ノ子、三人は室内のひかりに溶けた。
 トロッコ?
 路床に小石の聲、水に濡れたスカートを幾度も見上げた。
 トロッコ、
 とろっこ?
 テルさん! テルさん!

                    (「織姫」から引用)
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Dec 25, 2005

ブログ出来ました

ブログできちゃいました。鱗造さんありがとう。今日は、九時に起きた。最近テレビを良く見る。
年末なので、たくさん歌番組をやっている。それを彼女と笑いながらしばらく批評していた。 歌謡曲も詩も、どこかメッセージのぶつけ方に共通点があるのではないかと思った。 どこかサビを作り、このあたりでつかませてというのが、見えてくる。しかし、テレビに出ちゃうほとんどの歌手は、何も言わないという作り方に置いて、似ているな、一昔前に比べると歌謡曲でも、ひねりがなく雑なのである。ひっかかるところがない。 その点TOKIOの長瀬智也のメッセージは「夢は終わらないから真剣に生きよう」と絶唱していて、なかなか、天然なのか一筋縄ではいかないなと思った。「夢」と「真剣」が矛盾なく使われて対比になってないところに、こいつそうやって生きているのは本気だなと思って、夢見っぱなしの真剣さというのが若さというより異様に響いてきた。 この違和感はなんであろうか。 ずっと夢見てりゃ生きてられないだろうという反問か? それにしては、他の、何の引っ掛かりのない歌詞より引っかかってきた。意外なポエムの落とし穴である。 あと小田和正が、明治安田生命の協賛のライブで、「不祥事続きだけどがんばれよ」といいながら「たしかなこと」をうたっていた。 中居くんをつかっていた。この人はプライド高い意外は、開かれている感覚の持ち主かも知れないなと思った。小田の歌は何にも考えてないとき聞くといい。滑っちゃってるのも多い。どこか歌詞が立原道造している。道造はもっと大変な人だが空気は道造だ。 建築やってるとどこか風の通し方みたいなものを考えるのかもしれないなと思った。二人とも建築学科出身である。 荒木時彦さんも建築学科出身であるが、少し違う。しかし風の通し方は、文の構築に影響するかもしれないと思った。 昨日今日と彼女は、山に行っている一人の日々である。
Posted at 16:32 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

鱗造によるテスト

テストです。
blosxom blogの書き方は富士見3番地のぼくのページの右のリンクからごらんください。
改行にはbrタグが必要です。
Posted at 15:08 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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