Jul 04, 2005

高田昭子日記 2004年12月

2004/12/31(fri)
大晦日の雪

 
  


   地の涯に倖せありと来しが雪   細谷源二


29日と大晦日の今日、2度も雪が降った。不思議な年末である。
思えば1日から咽喉の軽い痛みから始まり、6日には声がかすれ、7日には声帯ポリープと診断をされた。ポリープの治癒後も、声は完全に元にもどらないままの越年となったが、とりあえず元気ではある。


28日だけは、病後初で年内1回だけの私的な外出をする。買い物、映画「ハウルの動く城」鑑賞、そしてお酒を呑んだ。異常なし、というよりは悪化はなし、というべきだろうか。雪の降る日よりも1日前の晴天にめぐまれた1日であった。

これで今年にはさよなら。来年よこんにちは。


2004/12/30(thu)
初雪


  


29日朝から初雪が降りました。夜まで降り続きました。あまりよい写真ではありませんが、初雪記念です。



君かへす朝の鋪石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ  白秋



2004/12/27(mon)
定点観測(^^)。


この数日間、同じ空ばかり撮っていました。






2004/12/24(fri)
聖夜


   
   (マッチ売りの少女)

どこにも出掛けられないクリスマスでした。
今年最後の病院の診察でした。確実に快方に向かっています。二週間分の薬が処方されて、これがプレゼント(^^)。
でも、手作りのケーキの写真をメールで送って下さった方(あ〜〜ん、食べられないよー。)、クリスマスカードを送って下さった方、ありがとうございました。



2004/12/23(thu)
冬の虹


  

  (今日の午後に撮った写真です。)

    玻璃ごしにくちづけせしや冬の虹



2004/12/22(wed)
回復期・サンタさんは本当にいるのです♪


  

  (この寒空に健気に咲いているパンジー)


 17日に声帯のポリープ消滅という朗報にやれやれと思っていましたが、19日は午前中から頭痛、夕刻から腹痛、夜には発熱(37,8度)。18日朝には熱は平熱に戻る。頭痛、腹痛はまだ軽い症状として残る。念のために耳鼻咽喉科に相談に行く。耳鼻咽喉科の問題ではない、毎日の吸入ももういいだろうという診断。内科にまわされる。お腹の薬と頭痛解熱の薬のみ処方される。これ以上の薬は御免こうむりたい(^^)。


 幸いにもそれ以後は一日で平常に戻る。20日には思いきって少し外出に挑戦。少し遠いお店まで買い物に出掛ける。冬物の買い物、化粧品など。無事帰宅。何事もなし。


 この病気の期間、詩友Kの過去30年間の作品の流れを読むという幸運に恵まれた。この詩人とは、「ささやかな奇跡」のように、同じものを見つめているという詩行に何度も出会った。そのことを共に歓びあうこともできた。これはさりげないわたしへのお見舞いだと、勝手に思うことにしている。当人は過去の紙版の作品を改めて、パソコンに入力保存する作業の「お裾分け」にすぎないのだろうが(^^;。わたしはもともとノー天気なのである(^^)。


 さらにこの病気の時期に、わたしがこの詩友とともに必死にさがしていた、もう復刻版を捜すのさえ難しいと思っていた本四冊を、お見舞いも兼ねて進呈して下さるというお話が舞い込んだのです。これは夢のようなお話です。わたしが一方的にご迷惑惑も考えずに詩集をお送りしていた、とても好きな詩人からの贈り物だったのです。ちなみに面識もありません。本はすぐに送っていただけましたが、まだ夢のなかにいる気分です。ありがとうございました。


 先日の発熱は、このあまりにも夢のような本の贈り物にびっくりしたので、「知恵熱」だったのかもしれません(^^)。この病気のお陰でわたしはかかえきれないほどの「やさしさ」に触れることができました。ありがとうございます。これからはさらによく読み、きちんと書くことをあらためて、やってゆきます。完全な声の回復まであと一歩です。



2004/12/19(sun)
沈黙生活ー終末期

  
  


 17日、病院の耳鼻咽喉科で内視鏡検査を受ける。声帯ポリープはほとんど消滅。手術に至らずに済んだ。やれやれ。声帯の内視鏡検査は鼻から咽喉へカメラをいれるのだが、その度にドクターは「小さいですねぇ。」とおっしゃるのだ。わたしの鼻の穴のことです。大きな鼻の穴ってどんなものかと考える。なにかいいことがあるの?わたしはこの鼻で??年生きてきて別に不便はなかったわ。


 あら、お話が逸れた。声がれ、咳がまだ回復していないので、しばらくは「沈黙生活」を続けるけれど、「回復」という感覚が掴めてきた。しかし不思議な病気です。熱は出ない。食欲も平常。行動を妨げるものは何もない。ただ「沈黙」「毎日の吸入」「煙草の煙を吸わない」「薬を飲む」「禁酒」を守るだけです。



2004/12/16(thu)
沈黙生活―2


  


    唄を忘れた金糸雀は、後の山に棄てましよか。
    いえ、いえ、それはなりませぬ。


    唄を忘れた金糸雀は、背戸の小薮に埋けましよか。
    いえ、いえ、それもなりませぬ。


    唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭でぶちましよか。
    いえ、いえ、それはかはいさう。
 

    唄を忘れた金糸雀は、象牙の船に銀の櫂
    月夜の海に浮べれば、忘れた唄を思ひだす。


 「沈黙生活」も日を重ねてゆくと、普段の生活のなかではほとんど忘れているようなことを思い出すもの。まずは「へレンケラー」と「サリバン先生」、彼女たちがお互いに理解と伝達に一番苦しんだという「Water」と「Glass」という言葉など。そしてへレンケラーが「Water」を手のひらの感触と言葉で憶えた時から、彼女は世界を理解した。「Glass」は入れ物にすぎなかったことも。彼女の知識欲はそこから急速に花開いた。サリバン先生の咽喉の震動に触れながらへレンケラーは言葉の発声法を理解する。そのためにサリバン先生は幾度も嘔吐に苦しんだそうだ。


 上記の童謡「かなりあ」は詩人西条八十が、詩が書けなくて悩んでいた時期の自分をカナリヤになぞらえた歌だという。声の出なくなった「かなりあ」ではなかったのだ(^^)。童謡というのは唱歌ではない。唱歌は明治時代に教育のために国が主導して作られた歌であり、童謡というのは大正時代に、鈴木三重吉、北原白秋など唱歌に飽きたらぬ文学者や詩人たちによって作られた子供のための文学なのだそうです。


 わたしの病気はいずれ直り、またいつもの日常が帰ってくるだろう。少し用心深い日常になるのかもしれない。今はわたしに関わる人にも心に重い負担をかけているのだろうと思う。そして哀しませてもいるのだろう。「かなりあ」はまた歌う。初めに「Water」と歌ってみようかな。



2004/12/14(tue)
沈黙生活


  

(病院の庭のさざんか)


 一応経過を書いてみよう。
11月30日、映画の試写会を観る。その後詩画展を観る。
12月1日、咽喉の痛みを覚える。市販の薬を服用。
12月4日、痛みは治まる。
12月5日、PSPの会出席。その帰り道に声がかすれる。
12月7日、内科へ行く。改善されず。
12月10日、耳鼻咽喉科へ、検査の結果声帯にポリ―プがあるという診断。


 以後、治療法は「沈黙」「煙草の煙を吸わないこと」「毎日病院で吸入」「薬を飲む」「禁酒」だけ、そのまま今日に至る。これは声楽家やアナウンサーなどがよくかかる病気、わたしが何故かかったのかはわからないが、咽喉風邪が引き金だったことはたしかなことだ。平熱、食事も平常、からだのだるさもない。何のバチやらわからない?


 さて、「沈黙」生活は初体験。以前、もしも「聴く」「視る」「話す」のいずれかを神さまに捧げなければならない時が来たとしたらという仮想の話をしたことがある。その時わたしは「話す」を差し上げてもいいと言った記憶がある。その通りの生活が始まっている。「伝達手段」としての「話す」は「筆談」や「手話もどき」にとって変わる。憂鬱になってしまってはその期間を空しくさせるだけだ。電話はダメでもFAXがある。メールもある。BBSもある。まめにメールを頂くという嬉しいことも起こる。I love you ♪


 スーパー・マーケット、銀行は会話なしでも用は足りる。病院などの外出にはメモ用紙とサインペンを持っていく。自宅でも、わたしは大半は一人で過ごしているから、必要最低限の連絡はメモ用紙でやる。これが幾日続くのか、まだわからない。しかし過ぎてしまえば、きっとば笑い話になるような日々だろう。そう思うとその日々の自分を書きとめておこうと思いたった。いやこれは初体験の不思議で、ロマンチックな世界かもしれないのだ。「言葉」は書かれるもの、そして読まれるもの、というあたりまえのことにも気付く。一応「詩人」としては。


 ふと「オンディーヌ」を思い出す。オンディーヌは、地上に住む愛する人のもとへ行くために、怒る海神に「うつくしい声」を差し出した。う〜〜ん、やっぱりロマンチックじゃないの。 



2004/12/9(thu)
子守歌


 風邪をひいている。熱もないし、食事もとれるのだが、声がかすれる。一人でいる時、声を出してみて確かめる。声はとりあえず出る。しかし急に不安になって叔母に電話をかけた。叔母は死んだ母と16歳も歳が離れていたので、母がこの叔母をほとんど育てたそうだ。母が旧満州にいた父に嫁いだ後は毎日泣きながら手紙を書いたのだそうだ。それ故に叔母はわたしにとって母だったり姉だったりという存在。母の死後、嬉しい出来事、辛い出来事などはみんなこの叔母に話してきたのだった。


 かすれ声で近況報告をする。叔母は幼い頃に、母が歌ってくれたという「子守歌」の話をしてくれた。その楽譜と題名と歌詞が全部知りたいと言う。楽譜はみつからなかったが、ネット検索で歌詞と題名はみつかった。メロディーが聴けるので、電話をとおして聴かせてあげました。叔母は大変喜んでくれた。


 老いて痴呆になってしまった母は、わたしとこの叔母の区別がつかなくなったことがあることを思い出した。その度に叔母は「ごめんなさいね。」と言ったが、わたしはそれを寂しいと思ったことはなかった。そしてこの「子守歌」をわたしが知らなかったことにも叔母は「ごめんなさいね。」と言う。しかしそれも寂しいとは思わなかった。わたしが幼い頃は母が「子守唄」を唄えるような時代ではなかったからだ。


    あさね


   作詞者 村上至大  作曲者 弘田龍太郎 


   とろろん とろろん 鳥がなく
   ねんねの森から 眼がさめた
   さめるにゃさめたが まだねむい


   とろろん とろろん 鳥がなく
   鳥のなく声 きくほどに
   わたしのお眼(めめ)が まだねむい


   舌を切られた雀なら
   ちゅうっちゅ ちゅうっちゅと なくけれど
   とろろん小鳥は 何(なん)の鳥


   御飯はたべたし まだねむし
   学校にゃ行きたし まだねむし
   とろろん小鳥が ないている




   
    声枯れやアダムのりんごなき身にて 



2004/12/1(wed)
女王さまのスリッパ





この花の名前です。(写真は桐田真輔さんから頂きました。)


11月28日に、新宿御苑にいきました。御苑の温室にありました。素敵ななまえ♪その日はとてもよいお天気。あたたかくて風もおだやか。沼の近くに少し傾斜面の芝草に坐っていると、時々転げ落ちそうになる。背中があたたかくて翼が生えてくるような気がする。「日々はただ静かに過ぎてゆけばいい。」

Posted at 11:50 in diary_2004 | WriteBacks (0) | Edit

高田昭子日記 2004年11月

2004/11/25(thu)
秋空

 

  


2004/11/18(thu)
美しい秋の一日



17日の秋晴れの一日、国立に行って、銀杏と桜が交互にならんでいる並木道を歩いて、一橋大学のキャンパスを散歩しました。わたしの住んでいるところはすでに銀杏は散り始めているのに、国立の銀杏の黄葉、葉桜の紅葉はまだはじまったばかり。キャンパスには欅の見事は巨木があって、その下をサクサクと欅の落ち葉を踏んで歩くのは、とても気持がいいものでした。ベンチにすわって晴れた空を見上げる。空に差し伸べられている樹々の枝々、わたしも樹々に抱かれて、そこに腰をおろしているようにも思える。陽は次第に西に傾き、西空は金色に変わる。美しい一日、こういう日は一人で過ごさないこと♪



2004/11/3(wed)
鏡の街


先日、銀座で友人と待ち合わせて画廊へ行く約束をしました。前回の約束では、わたしが予定の電車に乗り遅れて10分近く遅刻をしてしまったので、今回は絶対に遅刻はすまいと早めに出た。約束の場所に早く着いてしまったので、しばらくブラブラしてから、また約束の場所に戻ってきたが、20分待っても友人は現われない。携帯電話への着信履歴もない。この駅に着くまでのわたしはずっと地下鉄の中だったから、受信できなかったのだろう。それとも昨夜のメールで失礼なことを書いてしまったのかしら?という不安もよぎる。しかしそれくらいで黙って約束を破るような人ではないという信頼はあったが、実はわたしは「約束」という言葉にはかなり過敏反応するという「トラウマ」をかかえているのです(^^;…。こまったもんだ。


20分経ってから、方向音痴のわたしはあきらめて行動をおこすことにした。さて友人を頼っていたから画廊への道がわからない。かろうじて持っていた画廊の住所を便りに、ちょうど居合わせた郵便配達人らしき人に道を尋ねて、とにかく途方にくれながら歩きはじめた。ゆっくりと。友人が追いついてくれることを密かに願いながら……。


しかし背後ばかり気にしながら歩いていたら、なんと友人はわたしの前方から走ってくる!「鏡」という言葉がはじめに浮んだ。風景画が反転したような錯覚である。事情を聞けばあっけないことで、自宅からではなく、出先から回ることになってしまったために時間がはかれなかったとのこと。そして地下鉄ではなくJR駅から約束の場所まで走っていたのだった。しかも友人の走ってきた途中に目的の画廊はあったというのに……。携帯電話も使わずに……。


でも「失望」が「失望」のままで終わらなければ、それはドラマのような素敵なシーンになるものです。メロドラマ「鏡の街」♪
Posted at 11:48 in diary_2004 | WriteBacks (0) | Edit

高田昭子日記 2004年10月

2004/10/25(mon)
宮沢賢治&高橋昭八郎

奇妙なとり合わせと言ふなかれ。

23日午後2時から、広尾の東江寺本堂で行われた「宮沢賢治朗読会」を聴いた後に、コーヒーを飲んで休憩をとってから、神宮前のワタリウム美術館で展示されている「高橋昭八郎展」の「はしご」をしたのでした。方向音痴のわたしはひたすら同行者の後をついてゆくだけでした(^^)。

東江寺の本堂では、まず住職とそのご子息(かわいい小坊主♪)による「あめにもまけず」をお経を唱えるリズムで朗読という試み。宮沢賢治はたしか法華経だったと思うが、ここのお寺の宗派は禅宗の一派である「臨済宗」である。ま、いいか。
その後で、吉田文憲氏によるレクチャーです。いろいろと彼なりの賢治の「鹿踊りのはじまり」論をお聞きしましたが、こころに残ったものは「すすきの穂の輝く波」とか「赤い夕日」とか「ハンの木」だった。
「鹿踊りのはじまり」の朗読はオペラ経験のある野口田鶴子さん。彼女は宮沢賢治の高校の後輩にあたる方です。美しい声の岩手弁ってわかるかなぁ〜。子供が小さかった頃に「読み聞かせ」をしてあげた経験は覚えているが、あの感覚とまったく逆なのね。子供になったわたしが「読み聞かせ」をしてもらっているような気分になった。目を輝かせて聞いている子供のようなわたしがたしかにそこにいた。知っているお話なのに「また聞かせてよ。」と繰り返しせがんでいる子供がその時間のなかにたしかにいたの。不思議な時間だったな。

さて次は「高橋昭八郎展 」です。書店の一角にある展示場でした。さまざまなペーパー・クラフトによる小さな本、巻物、折り物。ああ、今度は納得のいく装丁の小さくて可愛い詩集が作りたいなぁ〜と思ってしまう。その後は書店内をうろうろ……欲しいと思えば全部欲しい、どれか選べといわれたら選べないから見てきただけ♪

その後は前記の「地震体験」に続きます。思えば子供の時間から死の時間までの感覚を生きた一日でした。(ちとオーバーかな。)



2004/10/24(sun)
地震の時思うこと。


地震の被害にあわれた方々には大変失礼なお話ですが、どうかお許しください。

昨夜の地震の時には、友人とともにビルの九階にいました。かなり長く強い揺れを感じました。隣席にいらした見知らぬ若い女性が携帯電話で収集して下さった情報によると新潟が震度6強、被害は大きいだろうと想像はできました。こんな時には急に見知らぬ隣人と親しくなったりする。


あわてて、恐がるわたしを見ながら友人は悠然としている。「なるようにしかならない。」という。それはそうかもしれない。でも「今度こそ死ぬかもしれない。」と思うと、その時一緒にいた人とか場所がわたしの最後の人生の舞台になるのだと思ったり、苦しい思いや痛い感覚が少ないことを願ったりする。きれいな(?)顔でいたいと思ったりする。友人は笑うけれど……。

そしてまた、わたしは無事怪我もなく生きていて、深夜の駅ですこやかに友人と「また!」と言って別れて、どうやら順調に動き出した電車に乗って帰った。電車のなかでは友人がかしてくださった、とっても楽しい詩集を笑いながら読んでいたわたしだった。人生にいつか来るかもしれない死は思うもの、惨事に対しては強靭な想像力がいるもの。



2004/10/16(sat)
父母の手記


このHPにある『声「非戦」を読む』のページのはじめに、わたしは父母の敗戦時から祖国引揚げまでの手記を掲載しました。二人の手記を入力しながら、わたしは父母の記憶に「ずれ」がないことにとても驚きました。同時に嬉しかった。父母はともに亡くなりましたが、わたしのこのいのちは父母が守り、祖国へ無事に連れかえってくれたものだと再確認した次第です。


この二人の手記を読んで下さった方から、メールにて感想をいただきました。まず、わたしより年長の女性詩人Sさんはこのように書いて下さいました。(抜粋)

『高田さま。HPの『声「非戦」を読む』を拝読いたしました。大変な記録ですね。戦後の混乱期にご苦労なさった方は多くあるでしょうが、そんな中、ご家族全部が無事にご帰国なされた事は、お父様の賢さ、運のよさ、などでしょうけれど、貴女、という書き手をお遺しになられたこと、大きな意味の一つでしょうね。』

嬉しかった!ささやかながらものを書き続けていてよかったと思いました。そして父母はインターネットの世界など知らないままこの世を去りましたが、今頃天上からここを覗いているやもしれません。ねぇ〜Sさん。

次に、わたしより少し若い(多分…?)K氏からもメールを頂きました。(これも抜粋)

『危機的状況になったとき、助けてくれるひともいれば、保身に走るひともいるし、群衆心理で暴徒になる人たちもいる。そういうこともよくわかりますね。
それから、手記にかかれているようなことは、今でも世界中のあちこちで起きていることですね、とくにイラクの状態をうつす鏡みたいなところもあると思います。そういう想像力も大切にしたいと思いました。』

そうですね。Kさんありがとう。「想像力」はとっても重い言葉なのですね。



2004/10/2(sat)
新米


米農家の長男として産まれ、その農業を継ぎ、生涯のほとんどを米農業に生きた詩人Y氏から、今年も新米が送られてきました。宅急便の品名欄にはいつもの通りに「野産物」と記してありました。米の代表的な産地は新潟、秋田、宮城などと言われていますが、Y氏は埼玉在住である。そのお米は素朴さと甘味のある実に美味しいお米なのです。つまりお米の美味しさとは土地や風土や水で決まるのではなく、作り手の適切な判断と丹精によって決まるということです。ただし決してかなわないのは「棚田」のお米だそうで、それは山を降りてきたばかりのミネラルの豊富な水を田水として使えるからです。
埼玉のような平野では、それは望めないことですが、まず大切なことは肥料の配合で「チッソ、リン、カリウムの配合のバランス」。それから一反あたりの収穫量が多ければ、それが優れているお米であるということではない。また米粒が大きいことも優れたお米であるということではない。(これはクズ米の出る割合も多いのだそうです。)米粒が多少小さくとも、全体の米粒の大きさが揃っていることの方がお米のおいしさに繋がるそうです。


それから今年の猛暑の記録的な長さは、米の収穫を早めました。米には「積算温度」というものがあって、それが満たされてしまえばお米は実ってしまうのです。こういう気象条件のもとでは、この暑さからお米自身の「保身作用」も働いて、籾殻は厚くなり、米粒はその分小さくなり、お米の白い部分が増え、半透明な部分がわずかに減るそうです。これはお米の味にも影響します。Y氏曰く「今年の新米はわずかに味が落ちるかもしれない。」とのこと。


俳句の季語に「田水落す」「落し水」などがありますが、これは秋に稲が成熟して刈り入れをする前に田を乾かすためです。また「堰外す」という季語は春に稲の花の咲く頃、つまり穂が実りはじめる前に、稲が土の栄養と酸素を必要とするために、一旦田水を抜き、酸素と肥料を補給してやるため。


「米は果実とも違う。野菜とも違うのですよ。水稲という作物なのです。」なるほど。それから稲は三度枯れるそうです。それが「栄養を下さい。」という稲のメッセージだと。その時にきちんと答えることだそうです。そして三度目に枯れ色を見せた時が「刈り入れ」の時となるわけです。

以上はY氏へお礼の電話を入れて、メモを片手にお聞きしたお話です。

以前にY氏からお聞ききした、忘れられないお話もあります。まだ農業が機械化されず、牛馬に頼っていた頃のこと。代掻きのために牛馬に馬鍬を引いてもらわなくてはなりません。一日中田のなかを行ったり来たりを繰り返し、夕方近くまで働けば人間も牛馬も疲れてくる。その頃になると牛馬は自分の家のある方角へ向かって馬鍬を引く時の足取りは速く、その反対の方角へ引く時は鈍くなるのだそうです。少年期のY氏のやさしい視線を思いました。それから「活着」という言葉を初めて知ったのもY氏のお話からでした。

   新米の其一粒の光かな    高浜虚子

Y氏の言葉をまた思い出す。「米の形は炎に似ていますね。これはアジアの希望なのですよ。」

05-6-22aota
Posted at 11:45 in diary_2004 | WriteBacks (0) | Edit

高田昭子日記 2004年9月

2004/9/26(sun)
女といふものはみな戦争が嫌ひなのです。



与謝野晶子(1878〜1942)は日露戦争の始まった1904年に、あの有名な「君死にたまふことなかれ」を雑誌「明星」に発表した。この詩への反論は勿論あった。上記のタイトルはその折の晶子の言葉の一つである。


オルレアンの少女「ジャンヌ・ダルク(1412〜1431)」は、イギリスとフランスの間に長く続いた「百年戦争(1337〜1453)」の終結期に「神の啓示を受けた者」として突然にシャルル王太子の前に現われる。しかし両国の利害争いに巧みに利用され、最後は「魔女」として火刑に処せられ、たった19年の生涯を閉じた。魔女であるか、神の啓示を受けた聖女であるか、という問いかけのために「処女性」について屈辱的な行為を受けることもあった。シャルルの載冠式は無事に終わり、少女ジャンヌ・ダルクはイギリスの捕虜となり幽閉されて、フランスから見放された。それからのジャンヌ・ダルクは、自らの神からの啓示の誤読に悩み、さまざまな宗教裁判における審問に混乱したまま、神への懺悔の機会もないままに火刑台に上った。それから永い時間を経て、ジャンヌ・ダルクには「聖女」という敬称が与えられる。彼女は「魔女」でも「聖女」でもないと思うけれどね。

どうやら「戦争」と「歴史」というものは、男たちのためにあるんだね。



2004/9/24(fri)
文楽



日記とは、その日にあったことを書くものだと思うけれど、わたしの日記はいつでも「先日は……」になってしまう。ま、いいか。
先日、大阪育ちで現在東京在住の友人から「国立劇場に文楽を観にいきませんか?」というお誘いを戴いた。「文楽」はテレビでしか観たことのないわたしであるが、よい機会を戴いたのだからお断りする理由はない。友人は大阪の高校時代から「映画」を観る感覚で「文楽」や「歌舞伎」に馴染んでいたとのこと。う〜〜んそうか、わたしが、ナタリー・ウッドの『草原の輝き』なんぞにうっとりしていた代わりに、そういうものを観ていたのねぇ〜。


観たものは「通し狂言・双蝶々曲輪日記」、これはお相撲さん「濡髪長五郎」が主人公のお話。そして人形が踊る「関寺小町」「鷺娘」、休憩をはさみながら約五時間の公演であった。物語の見せ場の少ない平坦な場面ではさすがに少しだけ眠くなった(笑)。さらに舞台右脇にいる「大夫」の声と「太棹」の音に気をとられて(観たことないけど、活弁映画に似ているな。)、人形とどっちを観ればいいのか悩んじゃうのだ。「人形を観るものです。あっちはBGMです。」「はいはい。」物語も時々わかりにくくなる。そんなわたしに、友人はきれいな大阪弁で時折解説を入れてくださる。この大阪弁が文楽に妙にマッチするのだ。「つまりこれは舞台と観客との予定調和の世界なんです。水戸黄門の印籠みたいなものです。これを楽しむことです。」うんうん。「大学時代に、友人にカフカの芝居を観せられて翌日寝込んだという体質ですから。」あ〜〜あはは。なるほど。


感動したのは「関寺小町」「鷺娘」!舞台装置、照明、人形の衣装と顔立ち、すべてがとても幻想的な美しさだった。老いた小町の寂しい姿、鷺娘の白い衣装から桜模様の衣装に早代わりする初々しさは、対照的であった。


一体の人形を三人の人間が操るわけだが、その中の一人の太夫だけが顔を見せていて袴姿、後のサポート役の二人は黒子姿で顔も見えない。(イラクの捕虜を思い出してしまって複雑な気持にもなったが…。)当然ながら人形より人間の方が大きくて、人数も多いわけだが、不思議なことに目障りな感じにならないものだ。表情の変わらない人形をいきいきと動かせる「文楽」とは不思議な芸術である。一体いつから「人形」に演じさせるということは始まったのだろう。


   人形の足音聴こゆ秋舞台   昭子



2004/9/16(thu)
巨きな顔・ちいさな顔 


   
    こどもが病む   八木重吉

   
    こどもが せきをする
   このせきを癒そうとおもうだけになる
   じぶんの顔が
   巨きな顔になったような気がして
   こどもの上に掩(おお)いかぶさろうとする


子供が殺される事件が頻発する。それについて「母親として何か書いてみなさい。」と言われたが、どこから手をつけていいのかわからない。「フェミニズム」だとか「教育」だとか「ジャーナリズム」だとか「漫画」や「テレビ」だとか、その原因をさぐっていってもどれもちがうような気がする。それで思い出したのが八木重吉の詩だった。


この詩だけはわたしの「実感」というか「実体験」があって、忘れられないものです。
かつて子供が一歳にもならない頃高熱をだした。一晩中、夫と一緒に子供の両側に寝て見守っていた。幼い子供を見つめていて、ふと見なれたはずの夫の顔を見ると「鬼瓦」みたいに大きく見えてくるのね。それほどに子供の顔はちいさいのよね。すると夫も突然「君の顔、可愛くないね。」。ムッ!!!


それから子供は大人になって、書物などを読むようになった。ある日愛娘が本を閉じてニコニコしながらこう言った。「お母さん、人間や動物の子供が何故あんなに可愛い姿をして生まれてくるのか?それはあまりにも小さくて一人では生きていけないから、大人に可愛がってもらうためなんですって。」というの。本の名前は忘れたけれど。


ちいさな子供はこの世で「ガリバー旅行記」をしているのよね。その旅行は楽しい冒険だった?こわい記憶だった?

   


   母の瞳


   ゆうぐれ
   瞳をひらけば
   ふるさとの母うえもまた
   とおくみひとみをひらきたまいて
   かわゆきものよといいたもうここちするなり


   
   母をおもう


   けしきが
   あかるくなってきた
   母をつれて
   てくてくあるきたくなった
   母はきっと
   重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだろう



この二編の母の詩は「すでに忘れ去られた母の原風景」をみる思いがする。「男女同権」「フェミニズム」「ジェンダー」さまざまな動きがあるが、これは逆利用されている「弊害」も出てきているような気がしてならない。こういうと反論がありそうだね。しかし幼い子供の命は誰かが守らなければ生きていけない、基本的にはこれだけなんだと思う。



2004/9/2(thu)
床の軋む音 雨の音


先日、娘が谷中にある彫刻家朝倉文夫の住居とアトリエであったという台東区立「朝倉彫塑館」を見てきた。おみやげの根岸芋坂の「羽二重団子」を食べながら「どうだった?」と聞くと「おじいちゃんとおばあちゃんの家を思い出したわ。」と言う。「おいおい、あたしの実家はあんなに立派な家ではなかったぞよ。」と驚くと、娘はおもむろに話しだした。

「つまりね。廊下を歩くと軋む音が聴こえるのよ。この家は高層住宅だから、そういう音はしないでしょ。その代わり上の階の音は聞こえたりするけれど。おじいちゃんたちの家はそういう音のする家だったのよ。」「なるほど。そういうことだったの。ここに住んでいると、雨の音に気付くのも難しいものね。」「うん、なんだか懐かしい音を久しぶりに聴いたのよね。」「うん、うん。」

もうすでに父母は逝き、老朽化した実家は取り壊された。おそらくその不動産の権利を譲り受けた姉は土地も売り払うだろう。なにも残らない、さっぱりとそれでいいと思っていたのだが、我が娘からそんなことを言い出されるとは……。しかしいい思い出を抱いていてくれてよかった。

さて、お話は「羽二重団子」に移る。感傷より団子♪
お団子は餡子のとお醤油のと……どっちもさらりとしておいしい、やわらかい。このお団子はさまざまな文人の著書のなかに登場する。
正岡子規の「道灌山」「仰臥漫録」、夏目漱石の「我輩は猫である」、司馬遼太郎の「坂の上の雲」、泉鏡花の「松の葉」、田山花袋の「東京近郊」など。

   芋坂も団子も月のゆかりかな    正岡子規
Posted at 11:43 in diary_2004 | WriteBacks (1) | Edit

高田昭子日記 2004年8月

2004/8/23(mon)
夏の名残り



桐田さんからの定期便「断簡風信」187号が届く。彼の膨大な読書メモである。その本の紹介文を読んでいると、わたしも読んだような錯覚に陥るほど、彼の解説は適切である。しかし今回の封筒の手触りはいつもの違う。予告通り桐田さんはその便箋の間に「線香花火」をしのばせていたのだった。便箋はかすかに「火薬」の匂い……う〜〜む。「爆発物取締り法違反」にひっかかりそうな(はは!)贈り物である。もしも警察犬がいたら噛みつかれるやもしれぬ。


夜、外に出るととても涼しい。もう秋がきているようだ。夏の名残りの花火遊びをしながら、「うふふ!これは燃えるようなお便りだな。」とひそかに思う。ただし、わたしだけに送ったものではないのだ。念の為。



   手花火を命継ぐごと燃やすなり   石田波郷



2004/8/14(sat)
高校野球


「高校野球」はどこも応援しない(笑)けれど、懐かしい思い出がある。わたしの亡父は県立高校の教師でした。父の在職中まぐれ当たりみたいに2回ほど甲子園出場がありました。もちろん2回とも1回戦負け。それでも選手たちの出場費用捻出のため、父は地元の事業主、商店会などに頭を下げてまわりました。応援旗はこれまた祖父の機屋から布地の寄付を頂いて、母が縫いました。ずいぶん大きな旗を作ったと思ったのに、テレビで見たら、応援団長の洋服店主の振っていたその応援旗は地味で小さなものだった。宿泊先の旅館の試合前日のメニューは「ビフテキ」と「とんかつ」つまり「敵に勝つ」だそうです。
1回戦で帰ってきても商店街では選手たちを車に乗せて市中パレードもしました。選手は泣いていましたよ。
何故か父はいつも引率担当でした。


それでいつも高校野球の季節がくると心配になるの。優勝まで勝ち進む高校では、どうやってそのたくさんの費用を捻出しているのかな?って……。



2004/8/13(fri)
「詩屋さん」ってどうだろう?


一人の詩人が著名であるか否かの判断はできない。とりあえず思潮社の現代詩文庫のシリーズに入った詩人は「著名」であるという「線引き」をしておこうか?この「線引き」だって相当危ないものだけれど、とりあえず。あ、それとも「選者」とか「講演」とか「教授」とかも???


過日、ある初対面の方から「あなたはプロの詩人ですか?」と質問されました。返事に困ったわたしは、そばにいらした詩人Y氏(この方はかなり著名です。)に「プロの詩人っていますか?」とお話をふってしまいました。Y氏曰く「詩人にプロはいません。」そうです。「詩でメシが食えないのですから、プロではありません。」そうです。そうです。


大方の詩人は詩集を自費出版している。運良く受賞して賞金などを頂いたとしても元が取れないのが現実である。言いかえれば、出版資金さえあればどんな贅沢な詩集も思いのままに出版できるし、優れた才能を持ちながら詩集を出せない貧乏な詩人もいるということです。知人の編集者から、この詩集の自費出版という現状にこんな批判を頂いた。


T氏曰く「誰でも出せるという自費出版が横行するから、詩の世界は底辺ばかりが増大するのだ。自費出版には節操がない。それを食い物にしている自費出版専門の出版社など《ゴミ》だ。くだらん詩集ばかりを氾濫させるな。」貧乏詩人のために安価で詩集を作って下さる有難い出版社だってあるぞー。


A氏曰く「たった300冊乃至500冊程度の詩集の自費出版に、なんの疑問も抱かない詩人たちは一体何を考えているんだ。しかもその詩集のほとんどは詩人の狭い世界を「謹呈」という形で巡っているのが現状だ。一度、ベストセラーの詩集などありえないという固定観念を捨てて、挑戦してみる気はないのか?詩をメシの種にしてみろ。」月に一編の詩を書いたら、メシ食える生活!ああ、夢みたいだ。その夢を実現させてよー。


編集者もさまざまである。言いたいこと言ってろ。


しかし、わずかながら詩集は売れているのだが「印税」というものを頂いたことがないのだ。その点については、T氏もA氏も「まぁ、仕方がないよ。」と寛大になるのだ。矛盾していないか?


   その明るくて暗闇みたいな詩屋さん
   日暮れどき
   ご隠居さんになりたいと思いながら
   店番している


(詩集「砂嵐」の作品「詩屋さん」より抜粋。)



2004/8/11(wed)
念の為。


8月4日のやんまさんの俳句の掲載は、事前にご本人の許可を頂いております。



2004/8/8(sun)
お祝いの会


8月6日夜、国立の旭通りにある音楽茶屋「奏」にて、水島英己さんの詩集「今帰仁で泣く・思潮社刊」の「山之口獏賞」の受賞のお祝い会があり、出席させていただきました。出席者のほとんどがお名前は存じ上げているけれど、お目にかかったことのない方々なので、少し緊張。第一本人の水島さんもBBS上でお話をしただけで、お目にかかったことがないのです。けれども彼の詩に対する姿勢の熱さ、真摯さが奇妙に気になる方だったこと、お世話役になっておられる方のなかに知り合いの関富士子さんがいらしたことが出席を決心させてくれました。


それでも何故?それは多分、詩人団体にはほとんど所属せず、「個人詩誌」しか発行せず、それすら休刊して、HPだけで発信している「ひきこもり」のわたし自身を、新しい人間世界に出してやろうという気持だったのだと思う。「一人でいいか?」と自問するために人に会いに行ったのかな?


途中の乗り換え駅でバッタリ関さんに会って、ホッとした。二人で少しだけ迷いつつ「奏」に無事つきました。帰りも一緒、わたしは「金魚の糞」でした。
水島さんのお祝いには、20数人の方がいらした。水島さんは真面目であたたかな方だった。そしてお名前とお顔がやっと一致した方々ともお話をして、とても居心地のよい会でした。水島さんのお人柄のためでしょう。水島さんの言葉は、山之口獏の故郷である琉球の熱い太陽と独自の歴史と風土性が産んだように思う。以前からわたしは一人の詩人の言葉の感性を方向づけるものは「産土」ではないかと思っていたが、それを確信したような気持だった。人間はみずからの「生い立ち」からは逃れられない。諦念としてではなく、ね。


  生い立ちは誰も健やか龍の玉    村越化石


改めて、水島英己さんおめでとうございます。
新しく出会えた方々、幾度か出会っている方々、小さなわたしを覚えていてね。



2004/8/4(wed)
こひぶみ


7月31日、俳句文学館において、清水哲男さんが続けていらっしゃる「増殖する俳句歳時記」の八周年を記念して、初めての懇親句会が催されました。その折に俳人の「やんま」さんに初めてお目にかかりました。やんまさんは、哲男さんが午前零時を境に毎日一句挙げられる俳句のなかから言葉を選んで、早朝にはその言葉を織り込んだ一句を作られるという離れ業を続けてこられた方です。そのやんまさんにわたしの詩集「砂嵐」を読んでいただきました。


31日に詩集をお渡しして、翌日8月1日には、その詩集の全作品32篇に俳句を付けて下さって、2日には投函、4日にはわたしの手元に届きました。メールではなくてお手紙ですよー。嬉しい嬉しい韋駄天走りの「こひぶみ」でした。ではその32句をご紹介いたします。俳句は詩集の目次順になっています。念の為。


  「砂嵐」拝読芽藻  やんま


   水色の水へ落ちゆく月うさぎ
   言の葉の楽し悲しと夏の凪
   水の音楽しと思ふ秋ひとり
   詩屋さんへ夏の性器をくださいな
   赤頭巾ふかふかのパン木の芽合へ
   誰ですか春の一日鳴きくらす
   収穫のぶどうの種を呑み込みぬ
   幾度の春の暦のほろ苦し
   夜の更けて羊を打てばめへと泣く
   羽ばたきを片陰に聞く淋しさよ
   知らぬ間に春の海辺に泣いている
   もふ遠ふに忘れた駅や夢おぼろ
   眼差しや愛の仕方へ晩夏光
   爪切って猫背をあげて葡萄吸う
   花茎にある不整脈とつとつと
   雨季の花色定まらぬ爪の色
   ふたりして見てる黄色砂嵐
   百年を叩く驟雨の破れ船
   空席に果実が一つ終列車
   死にたまふ母も私も春の修羅
   砂のくに記憶の海の大夕焼け
   骨のこと耳に残りて春の潮
   母もまた春の鼓動を恐れしか
   冬の父許し許され息ふかし
   古井戸に少女の西瓜浮かびけり
   冬の火事消えてしずしず消防車
   みんなゐてお茶の時間ににわか雨
   赤ちゃんの列の記憶や花の下
   川はまた橋と交叉し夏の渦
   水とめてひとり夜食に向かひけり
   ぶらんこをゆすればこの世軋みけり
   空の耳聞こえませんか合歓の風

   
以上です。やんまさま、ありがとうございました。

 
   花茎にある不整脈とつとつと
   母もまた春の鼓動を恐れしか


この2句にやんまさんのお母様ゆずりのご病気が心配されます。暑い日々ですので、どうぞご自愛くださいませ。

Posted at 11:40 in diary_2004 | WriteBacks (0) | Edit

Jul 03, 2005

高田昭子日記 2004年7月

2004/7/29(thu)



わたしは杏が大好物。先日、哈爾浜の旅について書いたが、父母の暮らした家のまわりには杏の樹がたくさんあったそうだ。わたしたちが訪れた時は、近くには大きなアパートが建っていて、果樹園の形跡はまったく見られなかったのだが……。室生犀星の小説「杏っ子」は有名だが、彼の「哈爾浜詩集」のなかには「杏姫」という詩がある。


   杏の実れる枝を提げ
   髫髪(うない)少女の来たりて
   たびびとよ杏を召せ
   杏を食べたまへとは言へり。
   われはその一枝をたづさへ
   洋館の窓べには挿したり。
   朝のめざめも麗はしや
   夕べ睡らんとする時も臈たしや
   杏の実のこがねかがやき
   七人の少女ならべるごとし
   われは旅びとなれど
   七人の少女にそれぞれの名前を称へ
   七日のあひだよき友とはなしけり。
   あはれ奉天の杏の
   ことしも臈たき色をつけたるにや。


父の従姉妹たちのあいだで後々までの「語り種」となった父の言葉がある。「僕の妻になるひとは、床の間に飾って置きたいほど可愛い。」うん、たしかに。セピア色の母の写真を見るにつけ、それを思い出す。まさに「杏姫」であった。し〜か〜し〜〜〜。その後のことは「ソクラテスの妻」には少し(?)負けていたが……。(笑)



2004/7/25(sun)
中国への旅


   天を航く緑濃き地に母を置き     野沢節子


父母はすでにこの世にいないし、共に旅をした姉もいない。
8年前の初秋に姉と二人で、父母が新婚時代を過ごし、敗戦の時まで暮らしたという中国東北部の哈尓浜へ北京経由で旅をしたことがある。飛行機が中国大陸の上空まできたとき、下界の広大な緑の田園風景は圧倒的に広かった。新藤凉子の詩「曠野」に、幼いころの大連から蒙古までの列車の旅の詩がある。そこに「もう三日もこの景色は変らない」という詩行があるが、あれは本当のことなのだ。


飛行機のまわりには、羊雲が点在している。そのずーっと下に緑の田園風景が広がっている。その雲はまるで地上の様子を見守っている神の足場のようだった。そしてふと、人間は傲慢にもこの飛行機というものの発明によって「神の位置」を手に入れてしまったのではないかと思った。時には飛行機は厚い雲を突き抜けて、雲の上へ行くこともある。ふと、飛行機を嫌う「高所恐怖症」の人間とは、この「神の高さ」を犯すことの恐れではないだろうかとも思う。だからこそ、しょっちゅう遭遇できるものではないこの「高さ」の感覚を覚えておきたくて、「高所大好き」なわたしは窓の外ばかり見ていた。


北京への滞在は「紫禁城」と「天安門広場」と少々の買い物のみとして、哈尓浜を中心に動いた。父母が新しい所帯を持ち、そしてわたしたちが生まれたという家を捜すことからはじまった。その家はまだあった。姉の記憶にはあっても、わたしの記憶にはない家だったが、わたしが想像していたものとあまりにも似ていたので驚いた。スンガリー河畔、母が買い物によく訪れたというキタイスカヤ通りも歩いた。父の勤務したという学校も見た。哈尓浜は急速な近代化と、それに取り残されている過去の文化との雑居状態にあった。だだっ広い公道は、市電が走り、バスやタクシーが走り、自転車が走る。そして馬車も走る。従って馬糞も落ちている。8年前の哈尓浜はこんな状態だった。ホテルは日本のどこにでもあるような米国式のホテルであったが、夜間につけっぱなしにしておいたトイレの電球は朝には切れてしまった。申し訳なし。


父母はわたしたちの旅の帰りを首を長くして待っていた。父は一度だけ中国を訪れているが、母は引揚げ後とうとう一度も中国へ行かなかったのだ。「一緒に行こう。」と言っても母は同行しなかった。帰国後できるだけ早くわたしたちは父母のもとへ、たくさんの写真を持って訪れた。母は真っ先にその写真をむさぼるように見て、涙ぐんでいた。


おそらくわたしは父母の思い出のなかをさまよう旅をしたのだと思う。哈尓浜を旅したのはわたしではなく多分「わたしのなかの父母」なのだろう。


2004/7/21(wed)
悪法も法なり。


「脱走米兵」とされるジェンキンスさんの「「訴追問題」について思う時、二人の人間がわたしの弱い頭の中をよぎるのだ。わたしの手に負える問題ではないので書かずにいようと思ったのだが、この結びついてしまったイメージを消し去ることはできそうにもないので、やっぱり書いておくことにする。


まずはじめに思い出したのは、1968年頃から行動を起こしたAIM(アメリカ・インディアン運動)の活動家デニス・バンクス(1936年・ミネソタ州北部の森林地帯リーチ・レイク・インディアン居留地生まれ)である。彼は誇り高き「アニシナベ=最初の人間」の子として生まれる。「アニシナベ」とは合衆国軍騎兵隊の軍事侵略から土地を守りぬいた民族である。
このAIMの活動によって、デニス・バンクスは「騒乱罪」「暴行罪」の罪を負い、追われる身となったが、FBIも保安官も手が出せない強い自治区「オノンダガ」によって守られることになった。しかしそこでの10年間、彼は愛する家族と共に暮らすこともままならず、行動範囲の制約が当然あったわけです。そしてデニス・バンクスは再びの「自由」を手にするために、サウス・ダコタ州への投降を決意する。その時彼はこう公言した。


『何が起ころうとも、私たち家族が望む所に住み、望むように子供たちを育てられる自由を求めるのみだ。』


そして幼い娘のトカラにはこう伝えた。


『ダディはね、白人とインディアンが仲良く暮らせるようにしようとしたんだけれど、そうするのが嫌な人たちが、ダディを刑務所に入れるんだ。でもこわがることはないよ。ダディは必ずトカラの所に帰ってくるから。そしてその時はもう二度とこんなふうにバイバイしなくてもいいようになってるさ。だから強い子でいるんだぞ。マミと一緒にダディに会いに来てくれるね。』


18日夕刻日本政府のチャーター機で、曽我ひとみさん、チャールズ・ロバート・ジェンキンスさん、美花さん、ブリンダさんの一家はとりあえず日本に帰っていらした。ジェンキンスさんは日本の高度な医療によっておそらく最善の検査治療を受けることができるだろう。ともかくは安心であるが、問題はまだ山積している。この一家は国や法に翻弄されているのだ。一日も早く一家が安らかに暮らせることを祈るのみだ。


トカラよ。一緒に祈ってください。


※「デニス・バンクス」については、森田ゆり著「聖なる魂・1989年・朝日新聞社刊」を参考にしました。



2004/7/19(mon)
影絵遊びをする猫のお話


新宿西口側に「ヴォルガ」という古い居酒屋がある。かつてはは双子のおじいさんの流しがいて歌を聴かせてくれたという。「ヴォルガ」ってロシア民謡からとった名前だろうか?そういえば若者達の間でロシア民謡が歌われて時代もあったね。「歌声喫茶」なんていう場所もあって、「ライブ」じゃなくてみんなが「合唱」していたね。


17日の夜、その居酒屋に詩友に連れていってもらった。初めて訪問したその店の一階は、曇りガラスの大きな窓があって、外の様子がぼんやりとわかる。窓の外には塀があって、その塀の上を猫が行ったり来たりしている。それに気付いたのは猫好きのSさんだった。猫が現われるたびに「あ、また来た。」とつぶやくので、しばしわたしたちは猫の影絵に見入っていた。どうやら白黒の猫らしい。


そのうち、猫は塀の上に座り込み、店内の様子をうかがっている。窓際にいた若い女性が、窓ガラスを指でなぞると、猫は首を廻してその指の動きを正確に追ってくる。いつまでもやめない。女性がやめると、猫はまだ遊びたくて座って待っている様子だけれど、女性は連れの男性との会話に戻ってしまって、猫は寂しそうだった。そしてトボトボと消えた。


「影絵遊び」の好きな猫に出会ったことが、妙に嬉しい夜だった。もしかしたら、この猫は夜毎現われては「影絵遊び」をしているのかしらん?うふふふ♪



2004/7/9(fri)
キス


素敵なキスだった。
今日、北朝鮮拉致被害者の曽我ひとみさんが、インドネシアのジャカルタ郊外にあるスカルノ・ハッタ空港で、一年九ヵ月ぶりに家族と再会できた。飛行機のタラップを降りてくる夫の元米兵のチャールズ・ロバート・ジェンキンスさん、長女美花さん、次女ブリンダさん。そしてタラップの下で待ちうける曽我ひとみさん、そして走り出したひとみさんとそれを抱きとめたジェンキンスさんは熱いキスをして、しっかりと抱きあった。それから、ひとみさんは二人のお嬢さんを抱きしめた。これからどのような運命に翻弄されようとも、この瞬間を忘れることはないだろう。テレビは何度もこの瞬間を報道した。その度に目頭が熱くなった。


一生の暗きおもひとするなかれわが面の下にひらくくちびる                 (篠 弘)


ひとみさんとジェンキンスさんの初めてのキスを思ってみる。拉致被害者の日本人女性と元米兵の男性が、北朝鮮という国でめぐりあい、共に生きてゆこうと決心した瞬間、それは「希望」だったのだろうか?「断念」という翳りはなかったのか?これはなんとしてもわたしの想像が届かない。すべてはこれからまたはじまるのだ。どうか幸福になってください。



2004/7/7(wed)
七夕

  akiko

笹の葉さらさら軒端に揺れる
お星様きらきら金銀砂子


五色の短冊私が書いた
お星様きらきら空から見てる


七歳の夏休み、つまり学校というものに通い始めての初めての夏休みに、わたしはそのお休み中ずっと病気だった。宿題もまったくできなかった。毎日床に臥せっていて、定期的にお医者さんがいらして、足にものすごく痛くて大きな注射を打って、その日は歩くこともできなかった。夏だというのにわたしは厚いふとんにくるまって寝ていた。暑かったという記憶はない。後で聞いた話によると、わたしは本当は「隔離」されなくてはならない伝染病だったらしい。まだ七歳のわたしを「隔離病棟」に入れることを不憫に思った祖父母と父母と医者の話し合いの結果、母の必死の看病と衛生管理のもとにわたしは「自宅治療」を受けることになったのだった。


そんなわたしのために二人の姉と、近くに住んでいる二人の従兄弟が七夕かざりを作ってくれた。従兄弟が郊外の農家から竹をもらってきて、それに四人が飾り付けをしてくれたのだった。


夏休みが明けて、登校する時期が来てもわたしはまだやっと歩けるくらいの体力にしか回復していなかった。久しぶりに外へ出ると、残暑の光と暑さにクラクラした。ホッとした母は過労で倒れた。これがわたしの七夕の思い出である。
Posted at 11:21 in diary_2004 | WriteBacks (0) | Edit

Jul 02, 2005

高田昭子日記 2004年6月

2004/6/22(tue)
貧乏神


梅雨の初日、二人の貧乏詩人が場末の居酒屋で飲む約束をした。しかし午後六時半、店はまだ開店していなかった。店の前で「どうしようか?」と思案していたら雨が降り出した。傘もなく、別の店に入る気にもなれない二人は近くにある神社に非難することにした。雨宿りの軒先を借りるには、神社の賽銭箱の奥しか場所がない。そこに腰を下ろして二人はまだ明るさを残す新宿の空を眺めながら、半時間ばかり物語つくりを楽しんだが、話の結末はいつでも「心中」とか、「失恋」とか、暗いのだ。


その時、一人の美しい女性がお参りにきた。「これはまずいのでは。」と気づいて二人はこっそりと神社を出て、目的の居酒屋に向かった。店はすでに開いていた。店の主人に、神社の雨宿りの一件を話すと、「あそこは商売繁盛の神様だよ。そのお参りの女性は恐らく開店前のお参りなんだろう。」という答えがかえってきた。「それは悪いことをしてしまった。その女性は我々のような貧乏神に願い事をしてしまったのだ。」災いのないことを祈る。


2004/6/6(sun)
俳句


   蛍囲う武骨なおのこの掌のたわみ

   睡蓮や夜毎にのべる死のしとね

   紫陽花やまぐわいひそと吃水線

   朝顔やつる伸び出づる夢の垣
   
   泉汲む水輪に落ちるイヤリング

   首飾り吾の復路を冷やしおり

   夏祭素足にきつい鼻緒かな

   わたしくに浮力ありたふ蓮の花

   半夏生さざなみ聞こゆ君の胸

   青嵐いとしきひとへののぼり坂

Posted at 10:05 in diary_2004 | WriteBacks (0) | Edit
December 2024
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
       
Search

Categories
Archives
Syndicate this site (XML)

Powered by
blosxom 2.0
and
modified by
blosxom starter kit
新規投稿