Jul 03, 2005

高田昭子日記 2004年7月

2004/7/29(thu)



わたしは杏が大好物。先日、哈爾浜の旅について書いたが、父母の暮らした家のまわりには杏の樹がたくさんあったそうだ。わたしたちが訪れた時は、近くには大きなアパートが建っていて、果樹園の形跡はまったく見られなかったのだが……。室生犀星の小説「杏っ子」は有名だが、彼の「哈爾浜詩集」のなかには「杏姫」という詩がある。


   杏の実れる枝を提げ
   髫髪(うない)少女の来たりて
   たびびとよ杏を召せ
   杏を食べたまへとは言へり。
   われはその一枝をたづさへ
   洋館の窓べには挿したり。
   朝のめざめも麗はしや
   夕べ睡らんとする時も臈たしや
   杏の実のこがねかがやき
   七人の少女ならべるごとし
   われは旅びとなれど
   七人の少女にそれぞれの名前を称へ
   七日のあひだよき友とはなしけり。
   あはれ奉天の杏の
   ことしも臈たき色をつけたるにや。


父の従姉妹たちのあいだで後々までの「語り種」となった父の言葉がある。「僕の妻になるひとは、床の間に飾って置きたいほど可愛い。」うん、たしかに。セピア色の母の写真を見るにつけ、それを思い出す。まさに「杏姫」であった。し〜か〜し〜〜〜。その後のことは「ソクラテスの妻」には少し(?)負けていたが……。(笑)



2004/7/25(sun)
中国への旅


   天を航く緑濃き地に母を置き     野沢節子


父母はすでにこの世にいないし、共に旅をした姉もいない。
8年前の初秋に姉と二人で、父母が新婚時代を過ごし、敗戦の時まで暮らしたという中国東北部の哈尓浜へ北京経由で旅をしたことがある。飛行機が中国大陸の上空まできたとき、下界の広大な緑の田園風景は圧倒的に広かった。新藤凉子の詩「曠野」に、幼いころの大連から蒙古までの列車の旅の詩がある。そこに「もう三日もこの景色は変らない」という詩行があるが、あれは本当のことなのだ。


飛行機のまわりには、羊雲が点在している。そのずーっと下に緑の田園風景が広がっている。その雲はまるで地上の様子を見守っている神の足場のようだった。そしてふと、人間は傲慢にもこの飛行機というものの発明によって「神の位置」を手に入れてしまったのではないかと思った。時には飛行機は厚い雲を突き抜けて、雲の上へ行くこともある。ふと、飛行機を嫌う「高所恐怖症」の人間とは、この「神の高さ」を犯すことの恐れではないだろうかとも思う。だからこそ、しょっちゅう遭遇できるものではないこの「高さ」の感覚を覚えておきたくて、「高所大好き」なわたしは窓の外ばかり見ていた。


北京への滞在は「紫禁城」と「天安門広場」と少々の買い物のみとして、哈尓浜を中心に動いた。父母が新しい所帯を持ち、そしてわたしたちが生まれたという家を捜すことからはじまった。その家はまだあった。姉の記憶にはあっても、わたしの記憶にはない家だったが、わたしが想像していたものとあまりにも似ていたので驚いた。スンガリー河畔、母が買い物によく訪れたというキタイスカヤ通りも歩いた。父の勤務したという学校も見た。哈尓浜は急速な近代化と、それに取り残されている過去の文化との雑居状態にあった。だだっ広い公道は、市電が走り、バスやタクシーが走り、自転車が走る。そして馬車も走る。従って馬糞も落ちている。8年前の哈尓浜はこんな状態だった。ホテルは日本のどこにでもあるような米国式のホテルであったが、夜間につけっぱなしにしておいたトイレの電球は朝には切れてしまった。申し訳なし。


父母はわたしたちの旅の帰りを首を長くして待っていた。父は一度だけ中国を訪れているが、母は引揚げ後とうとう一度も中国へ行かなかったのだ。「一緒に行こう。」と言っても母は同行しなかった。帰国後できるだけ早くわたしたちは父母のもとへ、たくさんの写真を持って訪れた。母は真っ先にその写真をむさぼるように見て、涙ぐんでいた。


おそらくわたしは父母の思い出のなかをさまよう旅をしたのだと思う。哈尓浜を旅したのはわたしではなく多分「わたしのなかの父母」なのだろう。


2004/7/21(wed)
悪法も法なり。


「脱走米兵」とされるジェンキンスさんの「「訴追問題」について思う時、二人の人間がわたしの弱い頭の中をよぎるのだ。わたしの手に負える問題ではないので書かずにいようと思ったのだが、この結びついてしまったイメージを消し去ることはできそうにもないので、やっぱり書いておくことにする。


まずはじめに思い出したのは、1968年頃から行動を起こしたAIM(アメリカ・インディアン運動)の活動家デニス・バンクス(1936年・ミネソタ州北部の森林地帯リーチ・レイク・インディアン居留地生まれ)である。彼は誇り高き「アニシナベ=最初の人間」の子として生まれる。「アニシナベ」とは合衆国軍騎兵隊の軍事侵略から土地を守りぬいた民族である。
このAIMの活動によって、デニス・バンクスは「騒乱罪」「暴行罪」の罪を負い、追われる身となったが、FBIも保安官も手が出せない強い自治区「オノンダガ」によって守られることになった。しかしそこでの10年間、彼は愛する家族と共に暮らすこともままならず、行動範囲の制約が当然あったわけです。そしてデニス・バンクスは再びの「自由」を手にするために、サウス・ダコタ州への投降を決意する。その時彼はこう公言した。


『何が起ころうとも、私たち家族が望む所に住み、望むように子供たちを育てられる自由を求めるのみだ。』


そして幼い娘のトカラにはこう伝えた。


『ダディはね、白人とインディアンが仲良く暮らせるようにしようとしたんだけれど、そうするのが嫌な人たちが、ダディを刑務所に入れるんだ。でもこわがることはないよ。ダディは必ずトカラの所に帰ってくるから。そしてその時はもう二度とこんなふうにバイバイしなくてもいいようになってるさ。だから強い子でいるんだぞ。マミと一緒にダディに会いに来てくれるね。』


18日夕刻日本政府のチャーター機で、曽我ひとみさん、チャールズ・ロバート・ジェンキンスさん、美花さん、ブリンダさんの一家はとりあえず日本に帰っていらした。ジェンキンスさんは日本の高度な医療によっておそらく最善の検査治療を受けることができるだろう。ともかくは安心であるが、問題はまだ山積している。この一家は国や法に翻弄されているのだ。一日も早く一家が安らかに暮らせることを祈るのみだ。


トカラよ。一緒に祈ってください。


※「デニス・バンクス」については、森田ゆり著「聖なる魂・1989年・朝日新聞社刊」を参考にしました。



2004/7/19(mon)
影絵遊びをする猫のお話


新宿西口側に「ヴォルガ」という古い居酒屋がある。かつてはは双子のおじいさんの流しがいて歌を聴かせてくれたという。「ヴォルガ」ってロシア民謡からとった名前だろうか?そういえば若者達の間でロシア民謡が歌われて時代もあったね。「歌声喫茶」なんていう場所もあって、「ライブ」じゃなくてみんなが「合唱」していたね。


17日の夜、その居酒屋に詩友に連れていってもらった。初めて訪問したその店の一階は、曇りガラスの大きな窓があって、外の様子がぼんやりとわかる。窓の外には塀があって、その塀の上を猫が行ったり来たりしている。それに気付いたのは猫好きのSさんだった。猫が現われるたびに「あ、また来た。」とつぶやくので、しばしわたしたちは猫の影絵に見入っていた。どうやら白黒の猫らしい。


そのうち、猫は塀の上に座り込み、店内の様子をうかがっている。窓際にいた若い女性が、窓ガラスを指でなぞると、猫は首を廻してその指の動きを正確に追ってくる。いつまでもやめない。女性がやめると、猫はまだ遊びたくて座って待っている様子だけれど、女性は連れの男性との会話に戻ってしまって、猫は寂しそうだった。そしてトボトボと消えた。


「影絵遊び」の好きな猫に出会ったことが、妙に嬉しい夜だった。もしかしたら、この猫は夜毎現われては「影絵遊び」をしているのかしらん?うふふふ♪



2004/7/9(fri)
キス


素敵なキスだった。
今日、北朝鮮拉致被害者の曽我ひとみさんが、インドネシアのジャカルタ郊外にあるスカルノ・ハッタ空港で、一年九ヵ月ぶりに家族と再会できた。飛行機のタラップを降りてくる夫の元米兵のチャールズ・ロバート・ジェンキンスさん、長女美花さん、次女ブリンダさん。そしてタラップの下で待ちうける曽我ひとみさん、そして走り出したひとみさんとそれを抱きとめたジェンキンスさんは熱いキスをして、しっかりと抱きあった。それから、ひとみさんは二人のお嬢さんを抱きしめた。これからどのような運命に翻弄されようとも、この瞬間を忘れることはないだろう。テレビは何度もこの瞬間を報道した。その度に目頭が熱くなった。


一生の暗きおもひとするなかれわが面の下にひらくくちびる                 (篠 弘)


ひとみさんとジェンキンスさんの初めてのキスを思ってみる。拉致被害者の日本人女性と元米兵の男性が、北朝鮮という国でめぐりあい、共に生きてゆこうと決心した瞬間、それは「希望」だったのだろうか?「断念」という翳りはなかったのか?これはなんとしてもわたしの想像が届かない。すべてはこれからまたはじまるのだ。どうか幸福になってください。



2004/7/7(wed)
七夕

  akiko

笹の葉さらさら軒端に揺れる
お星様きらきら金銀砂子


五色の短冊私が書いた
お星様きらきら空から見てる


七歳の夏休み、つまり学校というものに通い始めての初めての夏休みに、わたしはそのお休み中ずっと病気だった。宿題もまったくできなかった。毎日床に臥せっていて、定期的にお医者さんがいらして、足にものすごく痛くて大きな注射を打って、その日は歩くこともできなかった。夏だというのにわたしは厚いふとんにくるまって寝ていた。暑かったという記憶はない。後で聞いた話によると、わたしは本当は「隔離」されなくてはならない伝染病だったらしい。まだ七歳のわたしを「隔離病棟」に入れることを不憫に思った祖父母と父母と医者の話し合いの結果、母の必死の看病と衛生管理のもとにわたしは「自宅治療」を受けることになったのだった。


そんなわたしのために二人の姉と、近くに住んでいる二人の従兄弟が七夕かざりを作ってくれた。従兄弟が郊外の農家から竹をもらってきて、それに四人が飾り付けをしてくれたのだった。


夏休みが明けて、登校する時期が来てもわたしはまだやっと歩けるくらいの体力にしか回復していなかった。久しぶりに外へ出ると、残暑の光と暑さにクラクラした。ホッとした母は過労で倒れた。これがわたしの七夕の思い出である。
Posted at 11:21 in diary_2004 | WriteBacks (0) | Edit
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