Jul 09, 2009
ドゥイノの悲歌ーメモ3
(ガスパラ・スタムパ)
古井由吉訳の「ドゥイノ・エレギー訳文 1」のなかの2連目を引用します。この連は何度読んでも溜息がでるほど魅力的です。繰り返し読みました。
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たしかに、春はお前をもとめる。幾多の星もお前に、その徴(しるし)を感じ取ることを望む。過去から波が立って寄せる。ひらいた窓の下を通り過ぎると、弦の音がお前に寄り添う。すべて、何事かを託したのだ。しかし、お前はそれを果たしたか。そのつど、すべては恋人の出現を告げているかのような、期待にまだ紛らわされていたのではないか。大きな見知らぬ想いの数々が出没して、しばしば夜まで去らぬという時に、恋人をどこに匿うと言うのか。それでも憧憬の念の止まぬものなら、愛を生きた女たちのことを歌うがよい。かの女(おんな)たちの名高き心はひさしくなお十分の不死の誉れを得てはいない。男に去られながら、渇きを癒された者よりもはるかに多くを愛したあの女たちを見れば、お前は妬まんばかりになるはずだ。けっして十全な称賛とはなりきらぬ称賛を、繰り返し新たに始めよ。考えてみるがよい。英雄はおのれを保つ。滅びすら彼にとっては生きながらえるための口実にほかならず、じつは究極の誕生にひとしい。しかし愛の女たちは究め尽くした宿命を、内へ納め戻す。あたかも二度と、これを為し遂げる力も尽きたかのように。かのガスパラ・スタムパの生涯をお前は十分に思ったことがあるか。恋人に去られたどこかの娘がこの愛の女の、高き手本に接して、わたしももしや、あの人のようになれるのではと感じる、そんな学びもあるということを考えたか。これら往古よりの苦悩を、われわれにとってついに稔りあるものと成すべきではないのか。愛しながらもなおかつ、愛する人のもとから身を解き放たんとして、その解放の境に震えつつ堪えるべき、その時が来たのではないか。矢が弓弦(ゆんづる)に堪えて、放たれる際(きわ)に力を絞り、おのれ以上のものにならんとするように。滞留は何処にもないのだ。
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ふぅ~。まずはこれを書いた自分を誉めてあげようかな(^^)。
「ガスパラ・スタムパ(Gaspara Stampa)・1523年~1554年」という女性は、イタリアの詩人です。「ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)1875年~1926年」よりも350年以上前に生まれた方ですね。この女性詩人をここに蘇らせたリルケの功績は大きなもののようです。
『しかし愛の女たちは究め尽くした宿命を、内へ納め戻す。』
この「納め戻す」という表現は記憶しておきましょう。時を超えて読まれつづける詩や小説に登場する女性というものは、いつでも過去の時間から、今の時間までを生き生きと生きているのです。決して古びることがない。天使のように。。。
流れ出てしまったものを、そのもののうちへと取り戻して、旧に復する、あるいは恢復することは、リルケの一貫した考え方、感じかたですとは、I氏が教えて下さった解釈です。
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