Mar 08, 2007
ヘヤー・インディアンとその世界 原ひろ子
原ひろ子は文化人類学者、一九三四年ソウル生まれ。一九五九年から一九六四年アメリカ留学中に「ヘヤー・インディアン」のフィールド・ワークに入る。そこから出発して、この著書が初版されるまでに三十年の時の流れがあります。そして、わたくしがこの著書に出会うまでに、さらに二十年近い歳月が流れているわけです。この時間の経過をどう埋めればいいのかと思いつつ読み進めました。
そして原ひろ子自身にも二十五歳から始まったフィールド・ワークからの時間の階段が螺旋のようにあったのではないでしょうか?女性の身での極北の狩猟民族のフィールド・ワークの困難さを助けたのは、さまざまな先達の学者、スタッフなどがいらっしゃったことでしょうが、本当に彼女を助けたのは、日常的に「飢え」と隣席している「ヘヤー・インディアン」の人々だったのでしょう。
この膨大な一冊の調査報告は、文章のうつくしさと共に読む者を圧倒します。原ひろ子のたゆみのないフィールド・ワーク、その綿密な調査報告書は紛失を防ぐために、カーボン紙を使って二重三重に防いだこと、そして一通は即刻留学先の大学に届けられたことなど。
「ヘヤー・インディアン」とは「The Hare Indians」、「Hare」とは「野うさぎ」のこと、これはかれらが最も多く食するものです。カナダ北部、北極圏線を跨いでいる地域に暮らす狩猟の遊牧民です。東端には「グレート・ベアー湖」のほとりに「フォート・グッド・ホープ交易所」があります。彼等の移動地には「マッケンジー河」が流れていて、魚も多く食しています。この河の凍結と氷解が彼等の生活を大きく支配します。わたくしたちが「数年前」と言うように、彼等の時間の表現には「数夏前」「数冬前」と言う言葉があるのです。こういう美しい自然表現の言葉に出会えることが、わたくしの「ネィティヴ・アメリカン」への接近の要因なのではないかと思います。
改めて言うまでもないことですが「ヘヤー・インディアン」がキリスト教と無縁であったわけではありません。十九世紀にあるヘヤー・インディアンがフランスのカソリック神父に語った物語は「創造主は、白人の素晴らしい土地をまず創り出した。そのとき、役に立たぬ粘土がたくさん余っておった。どうにもならぬ粘土に腹を立てて、それを投げ棄てた。そのいちばん悪いところが、ヘヤー・インディアンのカントリーとなったのだ。」というものでした。十九世紀に侵入してきた白人の話から、彼等は初めてみずからの土地の貧しさに気付かされ、この物語を思いついたのでしょう。
また、一八六一年から四十年間、カナダ北部の布教にあたった「セガン神父」の報告によると、日常的な「飢え」との戦いがあるヘヤー・インディアンには、人肉を食べる(カニバリズム)ことによって生き延びた例があります。これは「キリスト教」ではどう解釈できますか?できないでしょう。ヘヤー・インディアンは、この「カニバリズム」から自らを守るものは「強い守護霊」だとしているのです。
こんな時には、ナイジェリアの詩人で劇作家の「ウォーレ・ショインカ=Wole Soyinka」の言葉を、わたくしはよく思い出します。それは「人間には二つの宗教が必要です。」と言うこと。
もちろん、この著書のなかでは、カナダ政府からのヘヤー・インディアン救済はすでに始まっていました。政治、宗教、文明が彼等を救い、反面落とした影について、もうわたくしには書き尽くせないことでしょう。ここで著者とヘヤー・インディアンへの深い敬意とともにペンを落します。
(一九八九年・平凡社刊)
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