Jun 13, 2006
不運な女 リチャード・ブローティガン(1935~84)
この著書は、一九八四年にピストル自殺した作家の遺品の中から「完成原稿」として一人娘によって発見されたもの。それは一六〇ページの日本のJMPC社製のノート(一六〇ページ)に、一ページに一行おきに書いて一四行、各ページに書かれた言葉数はおよそ一九〇字~一四〇字。使われたペンは日本パイロット社のBP-Sペン二本、とのことだ。一九九四年に仏訳版、二〇〇〇年に英語版が刊行され、二〇〇五年日本で刊行された。
この本を友人宅の書棚に見つけて手に取った時、その帯分でわたくしは読むことを決めてお借りしてきました。そこにはこう書いてありました。「旅となれば、以前は女たちが、上手に荷物を詰めてくれたものだった。」と。。。
この本を日記や備忘録のように捉えることも可能なことだが、ブローティガン自身の流れたり、滞ったりする時間のなかに浮かんだり、飛び込んだり、沈んだりする現在進行形の出来事と、遠いあるいは近い記憶、または夢想などを繋いでいった歪なチェーン・ストーリーと言ってもいいかもしれない。このノートを書く期間は、その前期も含めて尋常ではない移動(あるいは旅?)の連続でもある。
片方だけの女物の靴が道路に転がっている光景(事故ではなく。)を見つめている時の作者の心の不安定感。あるいは首吊り自殺した「不運な女」を幾度も思い出しながら、それははっきりとした形をなしてこないことへの茫漠感。忘れ去られることを食い止めようとして、ノートは何度もそこへ戻り続けるのだが、形は浮上してこない。マリー・ローランサンの詩「鎮静剤」の一行がふと浮かぶ。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
ひとりの人間が生きている時間の経過のなかで、どのようなことが起こりうるか?そこになんらかの意味があるのか?その最初の意図を変えることなくブローティガンは書き続けたのだと思う。物語の定型をこわした未完の迷路だとしか言いようがない。一六〇ページのノートの最後にわずかな空白を残して終わる。その空白をどこに託したかったのだろうか?この著書を読みながら、癒えない傷口を掌で押さえ続けているような痛ましい感覚がずっと続いていた。そこにはもうかすかな「死」の匂いがしていた。最後はこう結んである。
でも、わたしだって真実、努力はした。
彼の詩集「ロンメル進軍・一九九一年・思潮社刊」からこの一編を記しておきます。
鹿の足跡 (高橋源一郎訳)
美しく
儚げにすすり泣き
激しい愛にもだえ
そして静かに横たわる
降ったばかりの雪の上にしるされた鹿の足跡みたいに
そこは愛する人のかたわら
それでいいのだ!
(二〇〇五年・藤本和子訳・新潮社刊)
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