Jul 07, 2005
びろう樹の下の死時計
これは、谷川雁のエッセー集「工作者宣言」の最後に収録されているものです。ちなみにこの本は先輩からお借りしたものですが、発刊は昭和34年、文庫版で130円です。煙草のヤニと歳月によってかなり「バッチ―」状態。しおりの紐も千切れて短くなっている。よくぞご無事で……。でありますのでカバーをかけてからうやうやしく拝読いたしました。
これは「臥蛇島―がじゃしま」への紀行文です。「臥蛇島」は鹿児島県鹿児島郡十島村、東シナ海にあるトカラ列島の一つで、昭和45年からは無人島となっています。昭和34年(この本の発刊年。)14戸60人の暮らす「臥蛇島」へ谷川雁は訪れているわけです。月に一回不定期な汽船が通うだけのこの島に降りた途端に、死時計のように時間は茫洋とひろがるだけ。そこは極小の極限の寡黙な人間世界であった。約1ヶ月後にこの「臥蛇島」から帰った谷川は逆説のように「漂着」という言葉でそれを表現した。
「臥蛇島」の「食物」と「言葉」について少しだけ書いてみます。
このエッセーのなかで、わたしはふたたび「蘇鉄粥」という言葉に出会った。「どがき」「どうがき粥」あるいは「なりがい」とも読むらしい。土地によってはまた別の読み方もあるやもしれぬ。
数年前、わたしはある療養所にいらっしゃる方々(その半分以上はすでに鬼籍に入られた。)の書かれた過去70年間くらいの詩や俳句や短歌をたくさん読むという仕事をしたことがあります。その時に、沖縄の療養所の方の作品のなかで初めてこの言葉に出会いました。その折に、わたしは沖縄在住の詩人I氏にメールを送り、この「蘇鉄粥」について教えていただきました。
蘇鉄の幹と赤い実は澱粉質を含んでいるが、有毒なフォルムアルデヒドも含んでいるので、よく水にさらして澱粉質だけを採って、粥や団子や味噌として食したそうです。これは飢饉の時や、島の食糧が尽きて他島から食糧が運ばれてくるのを待つまでの非常食としてあったようです。この毒抜きが不充分な場合、それによって命をおとした人もいたようです。これは、沖縄に限らず、瀬戸内、奄美諸島、そしてこの「臥蛇島」にもあったのです。
さて当時の「臥蛇島」は灯台があるということが唯一の現金収入、あとは漁業、自然なままの林業、牛や山羊の牧場主なき牧畜(つまり、島全体が放牧場なのです。)そして収穫の乏しい農業と採取で人々の暮らしは成り立っていました。テレビは学校に1台あるだけ、そこはある意味での「コミューン」だったのかもしれません。しかしこう定義するのは外部の人間であり島民ではない。ここで谷川雁の言葉を引用すれば「そこで私たちは日本現代文明に対する黙々たる判決文を読むことができる。」のである。一つの文明国家の法律など及ばない未開の地域というものは必ず存在する。そこでは収穫された食糧は平等に分配され、老いた者や、男手を失った母子は壮健な働き手によって守られているのだ。そして大自然の掟に従順であることによって、そのコミューンは「文明の進歩」とは異なる独自の世界が成り立っている。おそらく「貧しさ」という言葉すら存在しないのだろう。これは「他者」との比較によって生まれる言葉だと思う。
ところで話は少し飛ぶが、ある詩人から、チベットの奥地の山村には「寂しい」という言葉がない、とうかがったことがある。「寂しい」とは文明社会が生んだ言葉なのだろう。人間が初めて発した言葉とはなんだったのか、というところまで想いは飛んでしまいそうだ。ちなみに「臥蛇島」の言葉はT音が未熟で「美しい」は「うちゅくしい」となり、「水」は「みじゅ」と発音されていたとのこと。
付記:この本の後にある「新刊案内」には「一億総白痴化」という言葉を生んだ加藤英俊の著書「テレビ時代」、そして「デモ・シカ先生」という言葉を生んだ永井道雄の「新教育論」がある。こんな時代に書かれたものなのだ。
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