Jul 06, 2005
海の仙人 絲山秋子
わたしはたくさんの書物を読むことのできない人間ですので、よい出会いをした書物には深く関わりたいと常に思います。これはとても「よい出会い」の物語でした。「ハッピー・エンドで終わる物語がいい。」これもわたしの基本。
一旦読了して、わたしの心にはじめによぎった思いは、ひととひととの間にはお互いへの「愛」に気づく最も適切な時間が用意されているわけではない、大抵は遅れてくるもののようだということでした。さらにまた「死を待つ」こと、あるいは「愛する死者に追いつくこと」が人間の生きる希望に外ならないのではないかと。人間が「愛を生きる。」ということは、永い人生のなかのほんのわずかな時間、しかもそれは終末期なのではないか、とも思いました。
詩人天野忠には「端役たち」という作品があります。これは地獄の門の前でやっと出会う男女が互いに「お変わりありませなんだか?」「おかげさまで。」と深々と挨拶を交し、鬼の小役人にやさしく「おいで。」と招かれるというものです。この詩は永いあいだわたしの心の奥に棲んでいて、事あるごとに表れるのです。「海の仙人」もまたそれを呼び出しました。
さて、この小説の主人公とは、海辺の町で仙人(アウトロー)のように暮らしている男性河野です。実は宝くじに当たり、今までの平凡なサラリーマン生活にピリオドをうち、次に生きる場としてそこに棲みついたのです。さらにそこにふわりと棲みつき、あるいは消える「ファンタジー」という神様(のような……。神通力皆無。)との共同生活を軸にして、河野の二人の独身女性とのセックスレスの交流を静かに展開させています。河野の棲んでいる「水晶浜」と「水島」とを繋ぐ唯一の船主村井の存在も静かであたたかい。
この「海の仙人」とその棲家を「安息の場」として「かりん」と「片桐」という二人の女性(と言っても二人の間には具体的な交流はないのだが。)は訪れる。共にキャリアを積んだワークウ―マンです。「安息の場」が女性ではなく、仙人暮らしの男性であるという物語の設定は不思議に無理がない。「かりん」は乳癌で亡くなる。その看病期間が「かりん」と河野とのわずかな「愛の時間」だった。その後、河野は落雷による失明、ラストシーンは「かりん」が現れるずっと以前から河野を愛し続けていたもう一人の女性「片桐」が河野の元に来る。空には雷雲が……。
この物語のなかでは誰一人として心は傷つかなかった。「かりん」の死による河野の悲しみ、「片桐」の河野への片恋の淡い哀しみは、決して「傷」ではなかった。読了後の心地よさはここにあったと思うのです。そしてなによりもこの「海の仙人」という物語とわたしの出会いは最も適切な時間に実現したのです。女性という片側の性だけを生きてきたわたしが、ひととの関係性のなかで身篭ってしまった「孤独」「叶わぬ願い」「傷」、それが癒されたわけではないのですが、どうやらこれからの日々を生きるための「やさしい背骨」を頂いたようです。この物語に連れていって下さった方に感謝いたします。
(2004年8月・新潮社刊)
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