Feb 19, 2008
アマデウス ディレクターズカット スペシャル・エディション(2002)
監督:ミロス・フォアマン
原作・脚本:ピーター・シェーファー
音楽・指揮:サー・ネヴィル・マリナー
NHK・BSにて十六日夜、三時間放映。これが二度目のこの映画鑑賞となるのだろう。
映画の舞台は精神病院から始まる。訪れた若い神父の前で、かつては皇帝ヨーゼフ二世(一七四一年~一七九〇年。在位は一七六五年~一七九〇年。)に仕える宮廷音楽家で、今や老いて車椅子生活者となった「アントニオ・サリエリ」の告白からはじまる。二六歳の若きヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの稀有な才能に驚き、嫉妬し、それを超えることのできないサリエリは、モーツアルトを殺害したと語る彼の回想という設定。ストーリーはあまりにも有名ですから、ここでは省きます。 ちなみにモーツアルトの生涯は(一七五六年~一七九一年)、サリエリは(一七五〇年~一八二五年)です。
翌日の十七日には、日本語によるオペラ「J・シュトラウス二世」の「こうもり」を観るという、偶然も重なって、言語と音楽との調和が気になってきました。さらに前の一月には「プラハ国立劇場オペラ」の「魔笛」を字幕入りで観るという体験も繋がって、あまりオペラ通とも言えないわたくしでも、言葉の音質と音楽との調和は気にかかります。まず日本語はオペラには似合わない。詩や小説ですら日本語に翻訳することは難しい。それを音楽に合わせるというのは、かなり無理にちがいないと感じました。
映画のなかでも、皇帝ヨーゼフ二世からモーツアルトに「オペラはドイツ語で。」という注文が出るシーンがありました。実際には、この映画では脚本家の「ピーター・シェーファー」自身が訳した英語の訳詞になっています。あああ。ややこしい。
言葉の問題でもう一つ考えさせられたこと。それはオペラというものは「先に脚本ありき。」なのです。その脚本を、音楽と踊り、歌と台詞の配分、そして長時間に及ぶオーケストラの演奏とともにオペラは舞台に展開されるわけですね。気の遠くなるような仕事です。鳴りやまない拍手は単なる観客の礼儀を超えたものでしょう。
【付記】
「ドン・ジョバン二」に登場する石の騎士長は厳格だったモーツァルトの亡き父「レオポルト」の亡霊として、「魔笛」の「夜の女王」の有名は超絶技巧のアリアは、仕事がなく酒に溺れるモーツァルトを激しく叱責する姑の姿にヒントを得ている。身近な人間の存在すら、モーツアルトは「音楽」に昇華できたのでしょう。
Feb 15, 2008
一茶 藤沢周平
この本を読むきっかけは、江戸学者の「田中優子」が「江戸文化の多くを、この本から学んだ。」という言葉からでした。
小林一茶(一七六三年~一八二七年)江戸後期の俳人。名は弥太郎。信濃柏原出身。継母と異母弟との折り合いが悪く、それほど貧しくはない農家の長男でありながら、十五歳で江戸に出て奉公先を転々としながら、「俳諧」の世界を知ることになります。俳諧の宗匠「二六庵竹阿」の弟子と言う説がありますが、この小説のなかでは僭称であるとなっています。
江戸前期には、俳人松尾芭蕉(一六四四年~一六九四年)は、「俳諧」に高い文学性を賦与してはいますが、短歌が宮廷文学から出発したのに対して、もともと「俳諧」は庶民(博打に似たものとして。)の遊びから出発していることが、わかりやすく書かれていました。幕府が禁止令を出した俳諧遊びの「三笠付け」は、さまざまに形式を変えながらも密かに続いていました。
一茶の俳諧の出発点はそういう世界だったわけです。思わぬ才能が一茶に「賞金」をもたらし、それが奉公先を転々とする一茶の生活費ともなったわけです。しかし、この時期の一茶の経歴はどこにも書き記されていません。その時代の農民出身の若者の記録などあるはずもないことでしょう。これはあくまでも作家の創作でありましょうが、この時代の「俳諧」に自らの生き方を求めた若者の姿とは、このようなものであったことでしょう。一茶は「俳諧」の世界で、農民から脱却して一流の俳諧師をめざしたのですね。
しかし、江戸で一茶が一流の俳諧師(家を構え、人並みに家族生活を営み、宗匠として弟子を多く抱えて、生活にゆとりがあること。)になることはありませんでしたし、江戸俳諧の傾向と信濃出身の貧しい一茶との句には、お互いに相容れないものが「障壁」のようにいつでもあり、一茶の俳諧師としての日々は、地方を回りながら草履銭で、なんとか「食い繋ぐ・・・・・・あまり好きな言葉ではありませんが、ここにはある意味これしかない、と言う言葉ですね。」生活の連続でした。
やがて不本意ながら、一茶を江戸へ奉公に出した郷里の父親が病に倒れる。看病に帰郷する一茶の先々の生活を思い、父親は直筆の遺言状を書きます。「山林、田畑、家、すべて半分を長男弥太郎(=一茶)に譲渡する。」という思いがけないものでした。この時代から直筆の遺言状が大きな権利を持つということはあったのですね。
この遺言状が実現するまでには、かなりの歳月を要しましたが、最後には遺言状以上のものを手に入れるという一茶の強引さ、狡猾さもここに表出します。その期間に一茶は徐々に江戸俳諧から離れ、北信濃周辺の門人との繋がりを準備、地方の俳諧師として信濃に帰郷するのでした。この時の一茶は五一歳でした。その後結婚、三人の子に恵まれながらも三人とも幼くして病死、妻の菊も病死しました。後、再婚と離婚、三度目の子連れの妻と継母に看取られて、六五歳で亡くなります。俳句は二十万句と言われています。
継母の言葉が心に残ります。
『旅ばっかりしてらったひとでなえ。もう出かけることもなくて、眠ってるようだなえ』
さて、一茶という人間をどのようにとらえるか?難しいところです。それぞれの人間の生きている足場から、とらえるしかありませんね。水上勉が「良寛」に自らの境涯を重ねるように愛しい思いで書いたように、藤沢周平もそのような「愛しさ」を一茶に抱きつつ書いたのでしょう。歴史上実在した人間を「評伝」としてではなく「小説」として書く時、そこにどこまでの「嘘」と「真実」が錯綜し、小説となるのか?そのようなことも考えさせられる一冊でした。
(一九八一年初刷・二〇〇七年三四刷 文藝春秋・文春文庫)
Feb 14, 2008
レンブラントの夜警
監督:ピーター・グリーナウェイ(Peter Greenaway,1942年- )。イギリス(ウェールズ)出身。
音楽:ジョヴァンニ・ソリマ ヴウォテック・パヴリク
レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz, van Rijn 1606-1669)と ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632-1675)は、オランダの十七世紀の代表的な画家であり、膨大な作品が残されている。この時代のオランダはスペインからの独立を果たし、経済的繁栄を極めていました。東インド会社との交易によって、世界中からさまざまな品物が集まり、人々は蒐集熱に浮かされていました。絵画は「チューリップの球根」と同じように「投機」の対象だったのでした。この時代の画家に作品が多いのはそのような時代でもあったのでしょう。「作品が多い」ということの裏には「注文が多い」ということで、多くの弟子の助けがあったということでもあるのでしょう。
また、別の側面からこの時代のオランダを見ますと、独立後のオランダはプロテスタント中心の市民社会が確立していたため、オランダの絵画市場は、同時代の「フランス」「イタリア」とは異なり、大きなサイズの神話画や宗教画ではなく、小さめの風俗画や風景画の注文があって、その結果さまざまな絵画のジャンルが確立した時代でもありました。
さて、一六四二年に手がけたこの絵画『フランス・バニング・コック隊長の市警団の集団肖像画』、通称『夜警』は、市警団からの依頼であり、資金は彼等が分担したのであろうと思われます。夜警』は大きなサイズの絵画です。この絵画によって、レンブラントの地位、名声は一気に破局に向かうことになります。その時期には産まれたばかりの子供を残して、妻の「サスキア」が亡くなり、レンブラントは深い悲しみにも遭遇するのでした。
「集団肖像画」はそれぞれの人間を平等に並列的に描くという常識がありましたが、レンブラントはその常識を破りました。何故破ったのか?それはモデルとなる市警団の人間たちの裏に潜む「悪」を見てしまったからでしょう。少女だけが収容されている孤児院では「売春」が黙認されていたこと、また「陰謀」「殺人」など、さまざまな権力の行う「悪」を見たレンブラントは、その「告発」を絵画としたからでした。
『画筆は画家の武器だ。なんでもできる――侮辱も告発も。』
「アムステルダム国立美術館のサイト」では大きな絵画をみることができます。リベルさんに教えていただきました。色彩、明暗もきれいです。
また「サスキア」を失った悲しみを埋めるように、レンブラントにもスキャンダラスな女性関係が浮上します。依頼主たちからの絵画の不評とスキャンダルによって、レンブラントは彼等の暴力に遭い、視力すら失うことになる。ここで彼の名声は終わる。映画のラストシーンもここに照準を合わせて終わりました。
監督の「ピーター・グリーナウェイ」は、レンブラントが「夜警」を描くことによって、市警団のさまざまな人間達を告発したように、映画「レンブラントの夜警」を制作することによって「レンブラント」を告発しようとしたのだろうか?ちょっとそのような思いが頭上をかすめます。
【付記】
当たり前のことですが、映画鑑賞と読書は異質な行為だと、つくづく思います。映画のストーリーのテンポに、わたくしの心理的なテンポが著しく追いつかない状況に陥っても、映画は待っていてくれないのです。