Feb 15, 2008
一茶 藤沢周平
この本を読むきっかけは、江戸学者の「田中優子」が「江戸文化の多くを、この本から学んだ。」という言葉からでした。
小林一茶(一七六三年~一八二七年)江戸後期の俳人。名は弥太郎。信濃柏原出身。継母と異母弟との折り合いが悪く、それほど貧しくはない農家の長男でありながら、十五歳で江戸に出て奉公先を転々としながら、「俳諧」の世界を知ることになります。俳諧の宗匠「二六庵竹阿」の弟子と言う説がありますが、この小説のなかでは僭称であるとなっています。
江戸前期には、俳人松尾芭蕉(一六四四年~一六九四年)は、「俳諧」に高い文学性を賦与してはいますが、短歌が宮廷文学から出発したのに対して、もともと「俳諧」は庶民(博打に似たものとして。)の遊びから出発していることが、わかりやすく書かれていました。幕府が禁止令を出した俳諧遊びの「三笠付け」は、さまざまに形式を変えながらも密かに続いていました。
一茶の俳諧の出発点はそういう世界だったわけです。思わぬ才能が一茶に「賞金」をもたらし、それが奉公先を転々とする一茶の生活費ともなったわけです。しかし、この時期の一茶の経歴はどこにも書き記されていません。その時代の農民出身の若者の記録などあるはずもないことでしょう。これはあくまでも作家の創作でありましょうが、この時代の「俳諧」に自らの生き方を求めた若者の姿とは、このようなものであったことでしょう。一茶は「俳諧」の世界で、農民から脱却して一流の俳諧師をめざしたのですね。
しかし、江戸で一茶が一流の俳諧師(家を構え、人並みに家族生活を営み、宗匠として弟子を多く抱えて、生活にゆとりがあること。)になることはありませんでしたし、江戸俳諧の傾向と信濃出身の貧しい一茶との句には、お互いに相容れないものが「障壁」のようにいつでもあり、一茶の俳諧師としての日々は、地方を回りながら草履銭で、なんとか「食い繋ぐ・・・・・・あまり好きな言葉ではありませんが、ここにはある意味これしかない、と言う言葉ですね。」生活の連続でした。
やがて不本意ながら、一茶を江戸へ奉公に出した郷里の父親が病に倒れる。看病に帰郷する一茶の先々の生活を思い、父親は直筆の遺言状を書きます。「山林、田畑、家、すべて半分を長男弥太郎(=一茶)に譲渡する。」という思いがけないものでした。この時代から直筆の遺言状が大きな権利を持つということはあったのですね。
この遺言状が実現するまでには、かなりの歳月を要しましたが、最後には遺言状以上のものを手に入れるという一茶の強引さ、狡猾さもここに表出します。その期間に一茶は徐々に江戸俳諧から離れ、北信濃周辺の門人との繋がりを準備、地方の俳諧師として信濃に帰郷するのでした。この時の一茶は五一歳でした。その後結婚、三人の子に恵まれながらも三人とも幼くして病死、妻の菊も病死しました。後、再婚と離婚、三度目の子連れの妻と継母に看取られて、六五歳で亡くなります。俳句は二十万句と言われています。
継母の言葉が心に残ります。
『旅ばっかりしてらったひとでなえ。もう出かけることもなくて、眠ってるようだなえ』
さて、一茶という人間をどのようにとらえるか?難しいところです。それぞれの人間の生きている足場から、とらえるしかありませんね。水上勉が「良寛」に自らの境涯を重ねるように愛しい思いで書いたように、藤沢周平もそのような「愛しさ」を一茶に抱きつつ書いたのでしょう。歴史上実在した人間を「評伝」としてではなく「小説」として書く時、そこにどこまでの「嘘」と「真実」が錯綜し、小説となるのか?そのようなことも考えさせられる一冊でした。
(一九八一年初刷・二〇〇七年三四刷 文藝春秋・文春文庫)
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