オペラ・エクローグ『同級生夫婦』第4回(最終回)

オペラ・エクローグ『同級生夫婦』第4回(最終回)

有働 薫

第2幕第2場
(モーツァルト邸の居間 第1場の続き。
テーブルの赤いチューリップが挿してある花瓶はそのまま。
部屋着のモーツァルト夫妻がソファで休んでいる。第1場の午後。モーツァルトは雑誌を読んでいる。)

モーツァルト: (雑誌を読む)《わたしが旅したころの、アフガニスタンもネパールもインドもまだのどやかで素朴な交流ができた。アフガニスタンのバンデアミールの湖に行く途中の草原には水の綺麗な小川が流れ、周りには野生の色とりどりのチューリップが咲いていた。私たちはその小川の淵に坐ってお昼を食べた。カブールは平和で穏やかだっCombin。》  (*詩誌「りんごの木」47号 2017年12月 荒木寧子の後記より)
(マリーのほうへ顔をあげて、)

これ、日本の詩の雑誌。女性詩人の文章だけど、ぼくがチューリップが好きなのがわかるだろう? 目に見えるようだね。
マリー: わあ、いいわね、こことおんなじじゃない?
(モーツァルトはピアノを弾き出す。第1場と同じクラリネット協奏曲第二楽章のフレーズをピアノで。アフガニスタンのチューリップの草原の風景に重ねてずっと弾き続ける。)
(舞台が徐々に暗くなり、真暗な中にひときわ明るくフレーズが流れた後
左上のスポットライトの中に赤い楽長服の若いモーツァルト2世が立つ)
(詩の朗読)

「蓬猫――早川氏に
からだが痒かったので
よもぎ猫は柔らかそうな土を選んでうずくまった
あたりに少し耳を澄まして安心すると
あおむけにごろりところがり
背中を親愛な地球の土に力いっぱいこすりつけた
ゴリゴリと音がするまで
背骨がひりひりしてくるまで
よもぎ猫の気分は和らいでいった
からだを起こし手足を折り前足を胸の下に隠して
正しく坐った
丸いボール 太った鳩のように
「まず ふつうの猫であること 話はそれからだ
愛とは一緒にいること
日毎の食事を共にして
静かにふたりでいること
だまってそれぞれ自分のことをしながら
ときおり視線をかわすこと
姉も死んだ 母も去った
父ははじめから知らない」 (「セルヴォ」第1号 1994年9月)
(オルガン曲アンダンテヘ長調k616 が流れる)
(暗転)


第2幕第3場
(モーツァルトが死を迎えたウイーン郊外のアパート。人気がなく乱雑な室内。テーブルの上に書きかけの楽譜が散らばり、部屋着のモーツァルトが楽譜の上に顔を落としている。)
モーツァルト:(楽譜を書きながら「疾走するモーツァルト」(有働詩作品)を朗読)
ところで最近ぼくはこの世の通貨に欠乏しています
預金という社会インフラがまだ整備されていないし
ぼくは5歳の頃から働いてきましたが
王侯貴族の前でピアノを弾いて報酬を得る芸術的労働も
現金でなくて大抵はいらなくなった懐中時計とか古めかしいデザインのブローチとか
ザルツブルグの家にはざらざら残してあるよ
雇い主の大公と衝突してやむおえずフリーランスのさきがけとなってからは
大衆やまだ小規模なブルジョアからも注文が入りますから
仕事がなくてぶらぶらするなんてラッキーなことはまずないんです
いつも超忙しくしていますよ
借金魔だとか金銭感覚ゼロとか衣食住あげて贅沢三昧と謗られているのは知っています
死の1カ月ほど前のこと、猛烈な食欲に襲われて、当時手に入れにくかった高級な肉を思う存分食べた夜があった、かったなあ、あれがやすらぎの国への長旅のための弁当だったんだな
ぼくはほとんど一生涯両親にはよい息子だったし
妻を愛していました 
生活費が怖ろしいほど逼迫する前は姉さんとも仲がよかった
ぼくは人をいじめたことなんかないよ、忙しすぎてそんなぜいたくをする暇はなかった
あの世に着いたら
あの温泉好きだった唐の太宗皇帝に拝謁するのが楽しみ
〈飛炎雪晨 人世有終 芳流無竭……〉
玉詩をアリアにして御前演奏するのさ 滞在費ぐらいは稼げるだろう……
ねえ、マリー、きみが歌ってくれるね?
第2幕第4場
(舞台は明るい)
(豪華なステージ衣装で、ピアノの前)

モーツァルト:死んでもバリバリ働くのが俺流さ、ははは!
ところで死ぬ間際にヒットしたオペラ『魔笛』のパパゲーノだけど
台本を書いたシカネーダーが自分自身で演じようと考えたキャラだが
ぼくにそっくりじゃないかしら
けっこううそつきだし、策士だし(ぼくはうそつきでも策士でもないけど)、騒がしいし、でも生き生きしてるよ(こっちのほうはぼくそっくりだ)
俺たちは小鳥の化身だ、空を自由に飛び廻る……
この世でひどい目に遭った人間も、無難で安穏な生活を満喫した人間も
報われても報われなくとも
マリーやぼくなんかのようにこうやって
ほんとうにきれいな土地でゆっくりしている
(左手のスポットライトに第1幕第3場のシーンが戻る。テークラが窓辺で手紙を読んでいる。)
《私達のすることはよく似合っていて、彼女もどちらかというと皮肉家で、私達は一緒になって友人達のひやかしを愉快にやるのです。(1777年10月17日付け手紙)》
《彼らがとり交わす恋文は二人以外には意味のわからない程、純粋な原始性が流れ、そこには文字や言語の表現をはるかに超えた親しさがあります。……モーツァルトはこの曲を書きながら、おそらく従妹ベエズレのことを想起していたことでしょう。パパゲーナは生命そのもののような美しさで最後を飾るにふさわしい光に満ちています。》(向坂正久)

第2幕第5場
(モーツァルト邸の居間。朝、夫妻はソファーにいる。2台のピアノが置いてある。)
モーツァルト: 今日はお客があるんだよ、ルソー先生、そう、パリでお母さんが亡くなる前の日にエルムノンヴィルで亡くなった。現実で会えなかったぶん、いまお会いできるのがうれしい……先生とピアノを弾こう、僕が先生に曲を差し上げる。先生は晩年は写譜をして生活していらっしゃった。ぼくの『ドン・ジョバンニ』も先生に写譜していただけたらよかったなあ。
マリー: 今朝、花売りが来てね、先生のお気に入りそうな紫と黄色のアイリスを幾束も買ったわ、いかが? 
モー: (マリーがテーブルに置いたアイリスの豪華な花瓶を見やって)先生はもっと小型の花がお気に入ると思うよ、トラノオとか野菊なんか……
マ: 珍しい異国の花にもお詳しいのよね、お友達とよく散歩に出られて、遠くまで…
(上手、女執事が訪問客を案内する)
モ: (立ち上がって、いそいそと出迎える)やあ、ようこそ、お運びいただいて光栄です、ルソー先生!
ルソー: (老人、はにかんで)先生はやめてください、ムシュー・ルソーとだけ……
モー: いや、ぼくが最も敬愛する数少ない先輩でいらっしゃる……
マ: (手を差し伸べて迎える)先生、光栄ですわ
ルソー: 何と王妃陛下からそんな……
モー: 先生、今日は先生とピアノをご一緒したいと思っております。それで2台背中合わせに並べてお待ちしておりました。譜面はここに……
ルソー: それはそれは、しかし、わたしは写譜を生業とする身なのですが、指捌きのほうはどうも、それにもはや高齢ですので……
モー: 何をおっしゃいます、いつもご謙遜ばかり……
ルソー: (受け取った譜面をめくりながら)うーん、なるほど……
モー: ねえ、遊びのようなものでしょう? それがね、これを聴いて、21世紀の日本の作曲家が椅子から落っこちそうになってしまったという曰くつきの曲でしてね(出だしのスタッカートの部分を鳴らす)はっはつは!
ルソー: (譜面をめくるにつれて、顔つきが晴れやかになって)なんと、これは気持ちが弾みますな~
モー: (ルソーを手前側のピアノに導いて)でしょう? さあ、行きますよ、わずか4分足らずですから……タンタンターン、タラララ、タンタンターン……
(マリーはスカートを広げてソファに、耳を傾けるしぐさ)
(「2台のピアノのためのハ短調フーガ」K426 全曲演奏、二人とも人が変わったように真剣勝負で、4分間曲の演奏に集中する)

モー: (元の気分に戻って)わっつはっつはっつ!
ルソー:(つられて)わっつはっつはっつ! これはこれは!
マリー:(猛烈に拍手)ブラボー、ブラボー!
(3人手をつないで輪になって踊りだす)
モー: 運命はこのように手をたたく、ですか!
ルソー: そうそう!
マリー: アッハッハッ! 運命のおかげで、わたしたち!
モー: (うやうやしく、お辞儀をしながら)先生にこの曲を捧げます~
ルソー: なんと、うれしいことでしょう、生きているあいだには、とても望めなかった……文字通り望外の喜びです!
(女執事がお茶のセットを運んでくる、マリーが受け取り、アイリスと野草を活けた大きな花瓶のあるテーブルへ) お菓子(ブリオッシュ)を小皿に分けて!
女執事: はい、奥さま!
マリー: 大きいブリオッシュでしょう? パンの代わりになるわよね!
(3人でひっくり返るほど笑う)(お茶のパーティーがはじまる)
(窓の外で、鳥が(鳩か)さっきの出だしのスタッカートを得意げに囀る)

オーケストラが引き継いで演奏するうちにややあって幕がゆっくりと下りる。
(幕)