博物館へ行く道
水島英己
博物館へ行く道で
京都からずっと一緒の車両に乗っていた
外国人夫婦に話しかけられた
「ええ、まっすぐです」
「どこから来ました?」
「フィンランドです、小さな国です」
「東大寺で大仏を見てから、この展覧会には行きます」
「また会えるかもしれませんね」
人の波にもまれ、強くてしなやかで華麗な工芸品に見とれる
「緑瑠璃十二曲長杯(正字は土偏だが)」
ミドリルリノジュウニキョクチョウハイと口にすると
音楽が生まれる
サイカクノツカシロガネカズラガタノサヤシュギョクカザリノトウスと口にすると
天平の幻影が私の耳と眼を覆いつくし、あとかたなく
えぐる
フィンランドの夫婦との
再会はなかったが
果てのないアジアの森の中で
私たちは同じ樹木 たとえば
梓の木で作られた弓から
ここに こうして射られた夢の名残として
今を飛びつつあるのかもしれない 夢見ることは
正倉を持つほどの資力や権力とは関係ないことである
この緑瑠璃のさかづきに満たされたものは何か
十月の終わりの空の遠い青をつらぬく五重塔
ミトラシノ 梓弓ノ ナカハズノ音スナリ
アサカリニ ユウカリニ 今タタスラシ
「夢の始まり」が茶褐色の七尺余りの弓の形をしている
弓の形をして、目の前に立っているよ
ハズノオトガ聞こえる、ハズガナッテイルヨウダ
ナカハズが鳴っているようだ
千二百年余前の十月の終わりの今日
私は「最後の狩り」に出発した「最後のディアハンター」の一人だった
タマキワル―霊魂のきわまる私の命の内、その内のつく
大きな野原、内の原に
私は馬を連ねて、立っている、出発を待っている
タマキワル―霊魂のきわまる私の命の内、その野原の深い草の感触
私の言葉はカルパチア ルテニア語のようにも響く、あるいはフィン語のようにも
千二百年余り後の十月の終わりの今日
博物館への白く塗り込められた滑らかな道を
多くの現代人とともに私はたどっている
「最後の古代人」のようにも感じる
ここにこうして
ここにこうして
射られた弓、射られた夢の名残として
弓の夢、夢の弓
もう一回
私は私を射ることが可能だろうか?
遠くへ
さらに千二百年あまり経過した十月の終わりの今日
正倉院古文書正集か別集の第x巻に
「私は私を射ることが可能だろうか」という私の文字を私は読むことが可能だろうか?
築地のくずれた葎の邸の西の対で
まだ私を待っている女がいる
千二百年余も私を待っている
ハズ
ハズノオトが聞こえる
ナカハズが鳴っているようだ
私は博物館へ入った
人の波にもまれ、強くてしなやかで華麗な工芸品に見とれる
「緑瑠璃十二曲長杯(正字は土偏だが)」
ミドリルリノジュウニキョクチョウハイと口にすると
音楽が生まれる
サイカクノツカシロガネカズラガタノサヤシュギョクカザリノトウスと口にすると
天平の幻影が私の耳と眼を覆いつくし、あとかたなく
えぐる
私は出口へ向う
「出口がよろこびに満ちるとよい、私は戻りたくない」
“I hope the exit is joyful, I hope never to return.”