イジオート

イジオート

倉田良成

 新大久保にあったアルバイト先の下水工事会社は、今まで
経験したことのないほどの猛烈な繁忙に見舞われていた。ア
ルバイトではあるがここに来て六年が経ち、定期券で会社に
通う立場となっていた私に任された仕事内容は、正社員のそ
れと選ぶところがない。一か月におよぶ徹夜というか昼夜逆
転の工事を含むほぼ半年の間に、与えられた休日は全部を合
わせても一週間に満たなかった。夏が過ぎ秋が過ぎ、冬に入
るころからふと食事をとることに苦痛を覚えているじぶんに
気がついた。あいかわらず休みは取れなかったが、それでも
ようやく定時に退社できるようになり、酒を飲んで寝ようと
思ったある晩、眼をつむっても、刃物みたいなもので首を切
断されたかのような、眠りという感覚から絶対的に切り離さ
れているみずからを、ある驚きをもって認識した。食えず、
眠れぬまま三日ほど過ぎ、あきらかに体力の減衰を感じたの
で、今夜こそはと大量のアルコールの力を借りたすえに、や
っと少しうとうととすることができた。が、確実に遠ざかる
楽隊の音のようにたちまち睡気は遠ざかり、半身を起こした
暗がりのベッドでじぶんの手の甲から小さな蜃気楼みたいな
虹の柱が起つのを見て、深い恐怖を感じた。なにかそのあた
りから私の言動に滅裂なものがあらわれはじめたことは、な
によりも私自身の感覚として残っている。世界のすべてはあ
る肯定的なすばらしく美しい光明のなかに照り映えて見え、
霜月のさむさのしたを、素肌に木綿のシャツをはおっただけ
で友人の家に行って永遠の友情を宣言し、詩は余技に過ぎな
いと言い放ち、夕ぐれの駅のあらゆる民草に愛を覚えた。そ
のころから鼻腔の奥に香り蝋燭が燃えているような芳香を感
じはじめる。天に穴が空いてこんじきの喇叭が轟き渡るみた
いな心の昂揚は恐ろしいほどの亢進を見せ、見慣れているは
ずの夜の燈火群が、精神に直結したかたちの視覚器官にほと
んど肉体的な苦痛を印すまでに鋭い輝きで飛び込んでくる。
何が起こったのだろうかと鏡を覗いたら、私の黒い二つの瞳
孔が死人みたいにいっぱいに拡がっていた。私自身には属さ
ない、なにか凄まじい力がはたらいたのだ。信ずべからざる
力が。数時間後には、母と姉と姉の家族のいる、名古屋へむ
かって疾走する夜の新幹線の窓ぎわに顔をうずめ、震えなが
ら号泣している私がいた。

 下手くそなピアノが継接[つぎはぎ]にする朝
 あおぞらの酩酊に呼び醒まされる
 真贋を別けて秋が過ぎふゆが過ぎ
 満天のさむさの下で樹が化粧[けわい]する
 危険なまでに人を愛することができるか
 真夜中の独語の綺羅めきのうちで

(神様なんぞはいかさまだよ
  人間はもっと不合理で
  深い)
      (そのさなかに書かれた「霜月」全行、一九八二年冬)


「ゆぎょう」第四十四号より(2006・9月)