第五十六回目 安西均の「駿河の女」


○「日本の詩人は酒飲みが多いわりに、お酒の詩をあまり書かないようだ」と、さるシリアの詩人の方がおっしゃっていた、と教えてもらった。ふむ、どういうわけだろうと考えると、これはとても面白い問題設定だと思うが、とりあえずここでとりあげている「お酒の詩」は、そういう場合の、たぶんお酒をテーマにした詩という意味からはそれてしまう作品も(お酒という言葉が装飾的にでも使われている作品も)扱っている。それでも少ない(^^;。短歌にはわりに多いと思うが、そこには生活感と言葉のつながり具合の問題があるとは言えそうだ。今回もそういう一例。


駿河の女

      安西均


街騒(まちざい)が木立ちのあいだから
かすかに流れてくる
公園のすみのレストラン
テーブルに椎の葉が一枚こびりついて
ビールのしずくにぬれている。
「あなたの子どもを生ませてください」
そう言いつづけてきた人妻と
別れの食事をしている。
ほかのテーブルには
<見えざる客>がぎっしり詰まっている。
だから ゆうぐれの墓場のように
ここは少し賑やかすぎるほどだ。
ガラス戸の内から 老いた給仕が
いつまでもこちらを見つめている
あれは<時>の伯父だろう。
二人だけのテーブルの近くで
小さなつむじ風が
落葉を捲いている。
生まれなかった子どものような
小さな ちっともじっとしていないつむじ風だ。

        「ひとづま抄」より
        『現代詩文庫 安西均詩集』〔思潮社)収録


○とても雰囲気のある詩で、実際に起きたことと考えると、ラストの数行など哀切な感じでうったえてくるものがあるが、どうも事実ではないらしい。この詩は「ひとづま抄」というタイトルの連作詩の一編で、他にも「伊豆の女」とか「相模の女」とか「吉備の女」といった別の女性との関係や女性の心情をテーマにした作品があるからだ(^^;。『現代詩文庫 安西均詩集』収録の岡本潤氏の解説によると、多彩な異なるタイプの作品を書きわけた作者の作品系列のなかで「不良中年もの」とか「よろめきもの」といわれる系列の作品群があるという。この詩もそうしたもののひとつと思われる。実際におこったことでないとすれば、どんな動機がこういう作品を生むのか知りたいところがあるが、もちろんそれは単純に興味として知りたいということで、こういう空想の恋愛ドラマを描いた詩があってわるいはずはない。抒情の質は、岡本氏が作者のこうした「よろめきもの」系列の作品について「ぼくの読後感はじつにさわやかで、不遜でありながら無邪気で、むしろ清潔であります。」と指摘しているとおりだと思う。お酒(ビール)は脇役として登場するだけだが、テーブルに貼り付いた落葉のぬれたひかりが目にみえるようだ。もうひとつ、とても雰囲気のある抒情詩を引用しておきたい。この詩にでてくる「彼」は、恋人だろうか、死んだ友人だろうか、それとももうひとりの自分だろうか。こちらにもビールがちょっとでてくる。


銀座

      安西均


ランチ・タイムには
エレベーターで地上まで沈んでゆく
ひびわれた舗道をまたぎ
透明なレストランではいつも
ひとりビールを飲み
ゆっくり咀嚼する
さしむかいに「彼」と
くつろいでいるみたいに

ここから見えるものについてなら
幾年も おなじ食卓にすわって話しあってきた
デパートメント・ストアのさびしさ
ハイ・ウェイのさびしさ
巨大な広告塔のさびしさ
そして「デザインにはかなしみがない」
とつぶやいた あるデザイナーのことばについても
けれどもまだ人生は正午(ひる)を少しまわったにすぎぬとは!

さしむかいの「彼」に別れ
レストランのガラスの扉をすり抜け
舗道のひびわれをまたぎ
毒のまわった海が見えるあたりまで
ふたたびエレベーターで吊りあげられる
時間ぎめの<ファウスト博士>のように。

        『現代詩文庫 安西均詩集』〔思潮社)より


[back][next]