第三十二回目 大野新の「ひとり酔う」
ひとり酔う
大野新
男はひとりで飲んでいる 酔いが唇にでている そこか
らまっかな食道がつづく 酒はホースのなかをまっさか
さま 胃は水びたし 電話もサイレンも遠い地底からご
ぼごぼと鳴る 世のなかのあわただしさ 音を消したテ
レビでぺらぺらめくられる唇のはやさ 今日の解説 明
日の予告 男が口をはさもうとするころは万事おわり
水爆だっておちている だからひとりで酒を飲む男 ひ
とりで発疹している男 男は魚の腹をつつく 刺身色の
死体 腸から救急車がのぼってくる おれを押せ ぐう
っと 背をまげて男はつぶやく からえずきで死臭がす
こしもれただけ 天窓からこうもりがさをすぼめて男の
女房がかえってくる 火星からついたばかりのすきとお
る青い顔をしている 波長があわないとか成層圏でころ
んだとかいったのではないか 男には聞えない 男は世
界中の孤独をあつめてきてのむ 未練な腸を口からずる
ずるぬいて盃まではわせ眼をふせてのんでいる
『大野新詩集』(永井出版企画)所収
○お酒を飲んでいるときの身体の生理感覚。最初内視鏡でみるような鮮やかな食道の像がぱっと浮かんでくる詩だ。胃の中にあふれる酒。電話やサイレンの音も、この生理感覚に引きずられるように、「ごぼごぼ」なったり、テレビの画像も、ぺらぺら早口でめくられる「唇」の動きに注意がむけられる。この生理感覚は、「腸から救急車がのぼってくる」とか「未練な腸を口からずるずるぬいて」といった言葉でこだわられていて、この詩の最後まで続いているが、この詩でもうひとつ描かれているのは、酔ったとき特有の、世界(外界)から隔絶されているような「非現実感」だ。音を消されたテレビのなかで何が起こっているのかわからないし(どこかで「水爆だって落ち」ているかもしれない)、「天窓からこうもりがさをすぼめて」帰ってきた女房は「火星からついたばかり」のようで、やはり何をいっているのかよくわからない。きっと目の前ですぼめられた「こうもりがさ」の印象は妙にリアルで鮮明なのだが、女房がいつのまに帰ってきたのかわからないという酔ったときの感じが、「天窓から」とか「火星から」帰ってきた、というユーモラスないい方にこめられているのだと思う。ひとりでお酒をのみ自分の身体生理の感覚が妙に生々しく感じられる酩酊状態というのがあるが、魚をつつきながら「刺身色の死体」を連想してしまい、思わずもどしそうになるが「死臭」がもれただけだったというところに、作者の独特のこだわりの暗示をみいだせると思う。微苦笑を誘うような比喩がテンポよくちりばめられた不思議な味わいの「酔い」の詩。
●[back]●[next]