第二十六回目 谷川雁の「敗王へ一献」
敗王へ一献
谷川雁
暗い鍋の水面につきでた小鴨の脚へ
つぐないは何かと責めて雪ふりはじめる
からまつ谷の幾筋を風の櫛でかきあげ
水(み)の蛇(ち)の郡最後の王が目をさましたのだ
はしれ ふぶきの声する差別を鞍につけ
天狼を指して地のいただきが沈むまで
王よ あなたとまばゆい白を競おう
どこまでも垂直をこばむ語法をなびかせて
なぜ前方なのか ぜひもない後円なのか
半島と湾のだきあうかぶとなどとは
毛焼きのあと切断された首の模写にすぎぬ
したたりおちる液汁は灰に吸わせよう
今夜かつての奴(やっこ)の肩を抱いて盃をほしたまえ
さげすみの力学もちょうど煮えてきた
谷川雁詩集『海としての信濃』(深夜叢書社刊)より
○山深い小屋の囲炉裏のはたで、冬の夜に男がひとり狩猟してきたばかりの小鴨を鍋で煮ている。いつしか雪が降りはじめ、谷を渡るはげしい松風の音が聞こえてきて、どうやら吹雪になったのがわかる。と、しだいに、その凄みのある風の音は(鴨を殺した償いを求めるかのように)この土地に眠る古代の王が目覚めるという幻想に「私」を誘っていく。この「王」は、かってこの土地に侵入してきた大きな勢力と戦い破れて滅びた先住民部族の最後の王なのだった。王は吹雪の中をシリウスをさして飛ぶ鴨の化身のような幻影として現れるが、(かってそのような観念の飛翔を夢みたこともある)「私」は、想像のなかで王を招き寄せる。あなたとは語りたいことがたくさんあるのだから、と。(たとえば)あなたを滅ぼしたものたちの首長の巨大な墓の形は、甲の形を象徴しているなどとは思えない、あれは毛を焼いた後に切り落とされた(鴨の・王の)首をかたどったものではないのか。鍋からふきこばれる汁は(その血は)、灰に(地に)、染みこむにまかせよう。「王」よ、さあ、今夜は飲もう、あなたが昔愛した女奴隷の幻影も呼び出して、その肩でも抱くがいい。まずは俺の盃をのみほしたまえ。。。というような深読みの解釈をしてみたが、あまり自信はない。ともあれ大きなスケールの民俗的な幻想世界を、短い詩行のなかに凝縮した作品。状況設定も計算され尽くされているという感じで、鍋や酒がたくみに雰囲気をもりたてている。
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