第二十五回目 中桐雅夫の「New Year Eve」
New Year Eve
中桐雅夫
することはない、言うことはない
こんな不潔な人間のあいだでは
ただ首を横にふらないように
うつかりどならないように気をつけて
微笑のようにみえる微笑を頬にうかべ
全然別のことを考えているよりないのだ
ナイトクラブでも一ぱい飲み屋でも
喋っているのは同じ女だ
ふるい虎はもう一匹の虎の口中に跳込み、その一瞬
新しい虎はテーブルから跳躍する
おお新年、帰るべき部屋はあるが
僕の跳込む新しい口はどこにあるのだろう
冷たい牛乳は舌のとげを溶かし
僕のからだをなめらかにするが
マンボのリズムは膝の関節をはずし
僕の欲望をかきたてるが
支払わねばならない負債から逃れて
また新しい負債をつくる、それが僕の年越しなのだ
『荒地詩集 1955』(国文社刊)より
○大晦日の都会の盛り場。ナイトクラブや飲み屋はそういう場所で年を越したい人々で賑わっている。でもこの日はかなり特別な日のはずだ。普通この日くらいは早く家路について、家族とゆっくり過ごしたくなるのではないか。独身者でも故郷のあるひとはとっくに実家に帰っているだろう。するとそんな夜に都会の盛り場で深酒してる中年男性には、それなりのわけがありそうだ。「僕」には「帰るべき部屋」はある。しかし帰らない。この作品は、たぶん作者が実際に見聞体験したことの細部が直接盛りもまれているために、その分わかりにくくなっているのだと思うが、結局いいたいことは、俺は大晦日に結構不機嫌な気分でお酒を飲んですごしたし、それが自分のありようだ、ということに尽きそうな気がする。一連目は、作者の渋い顔を目がうかぶような、いかにも傲岸不遜という感じの心情吐露になっているが、わかるところがある。もっとも、酔うとこういう食えない「型」としてふるまってしまう自分の姿を、ことさら書き付けて表明したい自意識のありようがわかる気がする、ということだが。この詩が書かれた時期を含め、作者が生涯どんな酒とのつきあい方をしたか、ということは、奥さんであった中桐文子さんの著書『美酒すこし』(筑摩書房)という本に詳しく書かれている。いつも酒を浴びるように飲むという人で、よく転んで負傷したり路上で平気で寝てしまうので、病院や警察の世話になることも多かったという。『美酒すこし』は、そういう夫の行状も含め、中桐家の「嫁」としての葛藤に明け暮れた自分の半生を夫の死後に洗いざらいという形で書ききった、ある意味壮絶な印象を残す本なのだった。
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