第二十七回目 辻征夫の「地球儀を眺めながら」
地球儀を眺めながら
辻征夫
地球儀を眺めながら
夜更けのジンをがぶりと飲む
ジャパンも エスパニアも
突けばまわる一片の肴だ 埃まみれの
おれはこのまま意識を失い
波立つ北太平洋に流れ入って消えてもよい
世界一個 あてどない愛をふくめて
進呈しようか偽善の読者よ わが同類よ!
辻征夫詩集『隅田川まで』(思潮社刊)より
○この短い詩は、詩集『隅田川まで』の最初に、いわゆる巻頭詩として、これから詩集を読み始める読者に向けた前口上ふうにおかれている。この詩集の中に、とくに世界各地を題材にした作品が収録されているというわけではないのだが、深夜ひとりで地球儀を肴にして酒をのむ、という、ちょっと孤独そうでかつ愉しげな雰囲気のただよう詩句が、詩なるものに向きあう作者の姿勢をそっと読者に告げているようで、いかにも巻頭詩としてしっくりしている感じがする。最後の行は、ボードレールの『悪の華』の巻頭詩「読者に」の最終行をうつしたもの。この引用も、作者の詩に向かう姿勢ということについて、読者にちょっとしたイメージの共鳴作用を起こさせる仕掛けなのかもしれない。ついでというか面白いので、ボードレールの『悪の葉』の序詩「読者へ」のほうも以下に安藤元雄氏の訳で引用しておきます。
読者へ
シャルル・ボードレール
愚行、あやまち、罪、出し惜しみ、
われらの心を占領し われらの体をさいなむはこれ、
そこでわれらはおなじみの悔恨どもを飼いふとらせる、
乞食が虱(しらみ)を養(やしな)っているのと同じこと。
われらの罪の執念深さ、後悔の方のだらしなさ。
告白すればたっぷり元が取れた気になって、
意気揚々と立ち戻る泥んこの道、
いやしい涙で汚れをすっかり洗い流したつもりなのさ。
悪の枕もとには「大魔王サタン」がはべり
みいられたわれらの心をいつまでも揺すってくれる、
われらの意志という 値打ちの高いあの金属も
この錬金博士にかかっては跡かたもなく蒸発する。
要するに「悪魔」に糸を引かれているんだ!
胸くそ悪い品々ばかりに気をそそられて、
日ごと「地獄」の方へ一歩一歩おりて行くんだ、
恐れも知らず、悪臭紛々の闇をわたって。
たとえば貧しい道楽者が 年を経た淫売の
見るも無惨な乳房を舐(な)めたり噛(か)んだりするように、
われらは道々 ひそかな快楽を盗み取っては
そいつをしなびたオレンジみたいにとことん搾(しぼ)りぬく。
百万匹の回虫さながら、ひしめき、うごめき、
われらの脳味噌の中では「悪霊」の群れが乱痴気さわぎ、
そこでわれらが息を吸うたび、肺の中へと流れこむのは
「死」だ、見えない河さ。かすかな嘆きの声を立てて。
かりに強姦、毒殺、刺殺、放火のたぐいが、
それぞれの楽しい図柄で いまもって
われらの哀れな運命の陳腐な画面を賑(にぎ)わせていないとすれば、
それはわれらの魂が、なさけなや! 度胸に欠けるだけのこと。
だがジャッカルや、豹や、山犬や、
猿や、蠍(さそり)や、禿鷹(はげたか)や、蛇や、
およそわめいて、吠(ほ)えて、唸(うな)って、地を這(は)う怪物どもが、
われらの悪徳のおぞましい動物園を形づくっている中に、
一匹だけ もっと醜い、もっと邪悪な、もっと下劣なやつがいる!
大袈裟な身ぶりもせず 大きな声も立てないが、
いざとなれば喜んで地球を廃墟にするかも知れず、
あくび一つに世界を呑(の)んでしまうかも知れない。
その名は「倦怠」! ----思わずも目をうるませて、
水煙管(ぎせる)をふかしながら死刑台の夢を見ている。
ご存知ですな、読者よ、扱いにくいこの怪物を、
----偽善の読者よ、----わが同胞、----わが兄弟よ!
安藤元雄訳ボードレール詩集『悪の華』(集英社刊)より
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