第二十三回目 光太郎の「米久の晩餐」


米久の晩餐

          高村光太郎


八月の夜は今米久(よねひさ)にもうもうと煮え立つ。

鍵なりにあけひろげた二つの大部屋に
ぺったり坐り込んだ生きものの海。
パットの黄塵と人間くさい流電とのうずまきのなか、
右もひだりも前もうしろも、
顔とシャッポと鉢巻と裸と怒号と喧噪と、
麦酒瓶(ビールびん)と徳利と箸とコップと猪口(ちょこ)と、
こげつく牛鍋とぼろぼろな南京豆と、
さうしてこの一切の汗にまみれた熱気の嵐を統御しながら、
ばねを仕かけて縦横に飛びまはる
おうあのかくれた第六官の眼と耳と手の平に持つ
銀杏返しの獰猛なアマゾンの群れと。

八月の夜は今米久(よねひさ)にもうもうと煮え立つ。

室に満ちるタマネギと鱗とのにほひを
蠍(さそり)の逆立つ瑠璃いろの南天から来る寛潤な風が、
程よい頃にさっと吹き払って
遠い海のオゾンを皆(みんな)の団扇(うちわ)に配ってゆく。
わたしは食後に好む濃厚は渋茶の味わひにふけり、
友はいつもの絶品朝日(ノンバレイユアサヒ)に火をつける。
飲みかつ食つてすっかり黙つてゐる。
海鳴りの底にささやく夢幻と現実との交響音。
まあおとうさんお久しぶり、そっちは駄目よ、ここへお坐んなさい......
おきんさん、時計下のお会計よ......
そこでね、おぢさん、僕の小隊がその鉄橋を......
おいこら酒はまだか、酒、酒......
米久へ来てそんなに威張っても駄目よ......
まだ、づぶ、わかいの......
ほらすこへ来てゐるのが何とかいふ社会主義の女、随分おとなしいのよ......
ところで棟梁(とうりょう)、あっしの方の野郎のことも......
それやおれも知ってる、おれも知ってるがまあ待て......
かんばんは何時......
十一時半よ、まあごゆつくりなさい......
きびきびと暑いね、汗びつしょり......
あなた何、お愛想、お一人前の玉(ぎょく)にビールの、一円と八十銭......
まあすみません......はあい、およびはどちら......

八月の夜は今米久(よねひさ)にもうもうと煮え立つ。

ぎつしり並べた鍋台の前を
この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
正直まつたうの食慾とおしやべりとに今歓楽をつくす群衆、
まるで魂の銭湯のやうに
自分の心を平気でまる裸にする群衆、
かくしてゐたへんな隅隅の暗さまですつかりさらけ出して
のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆、
人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
せめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆、
まつ黒になつてはたらかねばならぬ明日を忘れて
年寄りやわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもんもんの群衆、
出来たての洋服を気にして四角にロオスをつつく群衆、
自分でかせいだ金のうまさをぢつとかみしめる群衆、
群衆、群衆、群衆。

八月の夜は今米久(よねひさ)にもうもうと煮え立つ。

わたしと友とは有頂天になつて、
いかにも身になる米久の山盛牛肉をほめたたえ、
この剛健な人間の食慾と野獣性とにやみがたい自然の声をきき、
むしろこの世の機動力に斯かる盲目の一要素を与へたものの深い心を感じ、
又随所に目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ、
老いたる女中頭の世相に澄み切つた言葉ずくなの挨拶にまで
抱かれるやうな又抱くやうな愛をおくり
この群衆の一員として心からの熱情をかけかまひの無い彼等の頭上に浴びせかけ、
不思議な溌剌の力を心に育みながら静かに座を起つた。

八月の夜は今米久(よねひさ)にもうもうと煮え立つ。

           『現代詩読本-5 高村光太郎』(思潮社刊)より


○牛鍋屋に充満する群衆のエネルギーも凄そうだが、その様相を子細に描写する言葉の放つエネルギーもまた凄い。牛鍋屋は明治時代からあったが、それが一般に普及したのが大正時代で、この作品の書かれた大正10年頃には一種の流行みたいになっていたのかもしれない。けれどこういう騒々しい人間集団の飲食風景そのものに目をむけるというのは、やはり特別なことで、そこに「魂の銭湯」というビジョンを見たり、「剛健な人間の食慾と野獣性とにやみがたい自然の声を」聞くものだけが、その感動を詩にしたいと思うのだろう。たとえば第七回でとりあげた黒田三郎の詩「ビヤホールで」には、こんな一節があった。


夕方のビヤホールはいっぱいのひとである
誰もが口々に勝手な熱をあげている
そのなかでひとり
ジョッキを傾ける僕の耳には
だが何ひとつことばらしいものはきこえない


○作者たちの置かれた喧噪状況は似通っているのだが、多くの詩が書かれるのはもっぱらこういう構図のほうで、それはたぶん今も当時もかわっていない。高村のこの詩のビジョンは造形作家として視線(ただ即物的な描写というのではなく、後半部など、ちょっとロダンの地獄の門を連想させるところもある)や、大正期の時代思想に通じる芸術理念なくしては書かれなかったように思う。なんだかお酒の話と関係なくなってしまったが、いろんなことを考えさせられる作品。




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