第二十回目 リルケの「酔いどれの歌」


酔いどれの歌

          ライナー・マリア・リルケ


そいつはおれのなかにいなかった そいつは出たりはいったりした
だからそいつをつかまえたかった ところが酒がそいつをつかまえたのさ
(そいつが何だったかは おぼえちゃいない)
それから酒が あれだのこれだのと とっつかまえてはおれに見せ
あげくにおれは 酒にすっかり身をまかせた
おれ ばかやろう

いまおれは酒のばくちに使われている さもさげすむように
酒はおれさまを蒔きちらし もう今日のうちにも
死という畜生に取られてしまう
死のやつは おれという穢い札をせしめると
灰いろのかさぶたを 札のかどで掻く
それからおれを 汚物のなかに投げ棄てる

           生野幸吉訳
           『リルケ全集 第一巻』(彌生書房刊)より


○リルケはお酒が好きだっただろうか。どうもそんな風には思えないが、よくわからないのが本当のところ。この詩は『形象詩集』の「第二の書、第二部」に収録されていて、「さまざまな声 題詩を伴なう九葉の詩」というタイトルの連作詩の中の一編。全集の富士川英郎氏の「解題」によると、この一連の詩は「ボードレールの影響を受けたものとして注目されるべき」とある。この指摘に注意して、「さまざまな声」の一連の詩の他のタイトルをみてみると、「乞食の歌」「めくらの歌」「自殺者の歌」「やもめの歌」「白痴の歌」などなどとある。十八回目でとりあげたボードレールの『悪の華』の「酒」の連作(さまざまな人の立場で酒のもつ意味をうたった構成)に似ているのがおわかりだろうか。リルケがボードレールを意識したとしたら、当然「酒」の連作に注意したはずだ。そしてこの詩の主題も人と酒の関わりである。この作品の中で、リルケは、ボードレールの酒の讃歌とまったく逆の立場から、酒のもたらす害毒を強調している。酒に身も心も乗っ取られて破滅していく酔いどれ男。そんな男を描いてすこしも同情的でない。これをボードレールに対する対抗心と見るべきか、いややっぱりリルケはお酒が好きじゃなかったんじゃないか。




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