第十九回目 ヴァレリーの「消えた葡萄酒」


消えた葡萄酒

          ポール・ヴァレリー


いつであったか、大海に、
(もう何處の空の下だか覺えてゐない)
虚無に献げる贄(にへ)として 俺は貴重な
葡萄酒を 僅かであるが 濯(そそ)ぎかけた......

誰がお前を棄てようとしたのか、美酒よ。
俺は 恐らく 占師(うらなひ)の卜兆(うらかた)に従つたのか。
恐らく 心の鬱屈を霽(はら)さうとして、
血を注ぐ気で、葡萄酒を撒いたのか。

薔薇色の水烟(みずけむり)が立ってから、
いつもと変わらぬその透明を
取り戻した 純粋無垢の海......

消えたこの葡萄酒、微(ほのか)に酔った波......
俺は見たのだ、潮風の苦い空の中に
この上もなく深々とした形象の踊り上がるのを......

           鈴木信太郎訳
           『ヴァレリー全集1 詩集』(筑摩書房刊)より


○お酒を海に注いで、豊漁や船旅の安全を祈願するという風習は大昔から世界各地にあるだろう。けれどこの詩の場合そうするのは、漁夫ではないし、捧げる相手も海の神さまではない。あくまでも「虚無」への供物なのだ。酔狂といえば酔狂だが、ひとりで海辺の磯のうえや、船のうえですこし酩酊して海風に吹かれながら、こういう気分になることは誰でもあると思う。信仰が失われても、人は時にこういう不合理なことをしてしまう。そしてこの捧げものは、虚無に向き合って生きざるを得ない人の慰めに似た戯れのふるまいでもあるだろう。詩では不思議なことがおこる。酒をそそがれた海が、というより世界が、積乱雲のかたちを借りて深々とした形象をしめし、そのふるまいに応えた(ように思えた)というのだ。「詩」を象徴するのは、葡萄酒だろうか、はたまたその結果示された「形象」だろうか。深い味わいのある美しい象徴詩。




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