第八回目 清岡卓行の「泥酔」
泥酔
清岡卓行
きみがある朝 眼をさますと
頭は下痢だ
きみは どうしても
なにか犯行がなければならなかったと考える
しかしきみは 共犯者について
その手のひらを思い出すことができない
きみは どうしても
なにか恋愛がなければならなかったと考える
しかしきみは 恋人について
その足のうらを思い出すことができない
きみの苛立たしい悔恨には理由がない
きみの頭の中のしだいに拡がるエア・ポケットで
そのとき
昨日が死に
今日が生れる
すると きみは気がついたように思い出す
きみの存在のなかへ
巨大な隕石のようにはげしく落下してくるもの
それがきみ自身の肉体であることを
世界の狂うかもしれない
政治の鼓動のなかに
おどおどと
生れてはじめていっせいに裸で降り立たされた
人類というもの
原水爆に怯える人類というものの
一人であることを
迷惑なきみの朝ではある
近頃は泥酔からの脱皮にまで
政治が浸透している
清岡卓行詩集『氷った焔』より
(思潮社刊『清岡卓行全詩集』参照)
○泥酔したよく朝、昨夜なにかひどいことをやらかしたに違いないと思うけれど、どうにも思い出すことができない。その悩ましいようなもどかしいような空白の感じを遮断するように、しだいに蘇ってくるのは「今」(「今日」)という現実感覚や身体感覚だ。この作品では、その事態とは自分(きみ)が「原水爆に怯える人類」の一員であることを思い出すことだ、というふうに一挙に飛躍していく。これはまた知識人的苦い認識というべきだろうか。二日酔いの朝にふつうの人はそんなこと考えないだろうとは思うが、そこはこの詩の書かれた時代(詩集『氷った焔』は1959年に出版されている)を映しているといってもいいだろうし、詩には書かれていないが、この朝、「きみ」の目にテレビや新聞のニュースがとびこんできた、と考えれば、半世紀後の現代だって、普通のひともこういう「迷惑な」朝の気分にまきこまれることは十分ありえるのだと思われる。
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