第七回目 黒田三郎の「ビヤホールで」


ビヤホールで

       黒田三郎


沈黙と行動の間を
紋白蝶のように
かるがると
美しく
僕はかつて翔んだことがない

黙っておれなくなって
大声でわめく
すると何かが僕の尻尾を手荒く引き据える
黙っていれば
黙っていればよかったのだと

何をしても無駄だと
白々しく黙り込む
すると何かが乱暴に僕の足を踏みつける
黙っている奴があるか
一歩でも二歩でも前に出ればよかったのだと

夕方のビヤホールはいっぱいのひとである
誰もが口々に勝手な熱をあげている
そのなかでひとり
ジョッキを傾ける僕の耳には
だが何ひとつことばらしいものはきこえない

たとえ僕が何かを言っても
たとえ僕が何かを言わなくても
それはここでは同じこと
見知らないひとの間で安らかに
一杯のビールを飲む淋しいひととき

僕はたた無心にビールを飲み
都会の群衆の頭上を翔ぶ
一匹の紋白蝶を目に描く
彼女の目にうつる
はるかな菜の花畑のひろがりを

      黒田三郎詩集『ある日ある時』より
     (昭森社刊『定本 黒田三郎詩集』参照)


○つい大声でどなってしまったことや、言うべき時に言えなかったことなど、悔やまれることが思い出されるけれど、ここではそんなこと誰も気にかけない、という夕暮れのビアホール。群衆の中にまじってひとりでビールを飲んでいる時のさびしさや開放感が伝わってくる。「僕」の目にうかぶのは、一羽の白い蝶の飛ぶ菜の花畑の風景だ。黒田三郎の酒のでてくる詩というと、連作詩「小さなユリへ」が有名だが、この詩にはその続編のようなところがある。連作のなかの「僕を責めるものは」という詩で「僕」は、ユリを幼稚園に連れて行き、いつまでも泣きやまないユリに困り果て、結局「保母さんたちに見送られて/小さなユリと僕は今来たばかりの道を/家に帰る」のだが、その時歩いていくのが「紋白蝶のとんでいる道」だった。やはり連作の中の「小さなあまりにも小さな」という詩にもいつもユリの手を引いて通ったその道のこと(「初夏には紋白蝶がとんでいた」)がでてくる。紋白蝶はうまく生きられない自分のあこがれのイメージであると同時に、ユリの手を引いて何度も歩いた幼稚園に通う道の思い出と結びついているのだった。




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