葡萄酒
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葡萄酒



 夜の豪奢な帳が降りると、ネクタイを締めて白布を掛けたテーブル席につく。影たちのざわめきは近くなったり遠くなったり。それを擦ると星辰の音を立てる半切り状のグラスの球に、はるかに高い場所から注がれる濃紅色の液を、顔に寄せる。揮発しないものが盛んに立ち籠める、とても暗い時計の底の感じはすぐに立ち去って、その暗さが金色の柱のような高さを伴うしたたかな花の(たとえばカサブランカの、ヘリオトロープの)匂いにほかならないことに気づく。オークや檜の樽の要素が、ほんのすこし花の匂いに混じっているかと思う数瞬後、グラスの外へ吹き出てゆく鼻腔の吐気に、幽かなバッカスたちの、近づいたり遠ざかったりする軍勢のようなにぎわいを聴く。それからさいしょの一滴を舌に置く。香りというものを捨象して考えれば、そこにあるのは新鮮なヒラメの肉の味である。あるいは矛盾するかも知れないが、重厚な血の味である。そこを突き詰めて解釈すれば、鉄の味、酸化した鉄の味である。鼻腔を開放する。たちまち広がるのは一種の華やかさであるけれど、同時に非常に古い夢のような懐かしさともいうべきもの、もっといえば塩素と塗り固めた石灰の鈍重さというべきものも存在する。この鈍重さは、じつは華やかさには欠くことのできない要素で、五月のバラの色と匂いと存在感を想像すれば、かなりの程度再現できるのではないか(人の子の死と復活という思想の残酷さ)……。この苦みさえ通過してしまえば、ヒトのふるさとである快い森のなかへ分け入っていくような、すなわちスグリ、コケモモといった、すべからくberryと分類される漿果類の匂いに満ちた太古の時間が過ぎてゆく。濡れた枯葉の、朽ちた木の、菌類の、秋の終わりのシガーの匂い。夢はもっと古いところまで降りてゆく。色々な地層をまんべんなく遍歴して、やがて逢着するのは酔いである。酩酊は星辰にまでとどく。《名だたる星の唐草が/その寂滅裡に絡みあふ 夜よ》*贈与された酩酊は冬夜の街路にヒトを迷走させもするが、同時に終わることのない夜を煌めく太陽の結晶で飾りつづける王冠でもあるのだ。ふたたびグラスを顔から遠ざける。ふと大きな森が遠景になる。むらさきいろに濡れたコルク栓がテーブルに立てられ、男が頷くとそこで初めて、ギャルソンが濃紅の酒を女の側につぐ。

*鈴木信太郎訳のマラルメ「ソネット」の記憶。

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