旅人はときおり考える。私はどの国から国へ、さまよっているのか。山を越え、懸崖を渡ったら、地と空が接吻する街道の果てに至ったら、そこはほんとうに「遠方」なのか、世界は広いのか狭いのか、と。思えば時間も含めて、世界が計量されうる広がりとして認識されたときから、すべては狭まりはじめたのではなかったか。空間軸があり、時間軸が画かれ、ファンクションから計量されうる世界というものは、しかし同時に日暮れたり朝焼けたり、風が立ち、響きを上げるものとして旅人に臨んでいるのではないか。世界が計量されうるということがすでに、世界を有限なものにする。言い換えれば世界がfactであるということ、これが世界を有限にする。旅人が行く、蒼渤海を渡れば恒河沙の炎熱に着き、聖林のオアシスに至ること三千由旬、下天の二百日にあたる。けれどもこれら実数は体験に属すのか。タバコの箱の長さ七センチは惑星間の距離一億キロと本質においてなんら変わりない。同じく計量されたものであるがゆえに。旅人が遠望する積乱雲とそのしたの港町と、同じ瞬間の積乱雲とそのしたの港町そのものは同一ではない。見たものと見られたもののあいだに存在する裂け目はけっして計量されざるものであるがゆえに。旅人の眼はひくく見ている。閃きやまぬ西の空を。垂れ幕みたいな暗い雲を痙攣させて、さかんに白光が降りる。竜がいるのだ。空いっぱいにのたうつ一瞬、カミソリのような金鱗をかくやくと纏い、五本の、七本の、九本の脚の鋭い爪で西方を劈く。威嚇する蛇の口のような擦過音とともに。旅人は空に花を見ているのだ。「たとへば、優鉢羅華(うはつらけ)の開敷(かいふ)の時処は火裏・火時なるがごとし。鑽火(さんくわ)焔火みな優鉢羅華の開敷処なり、開敷時なり。もし優鉢羅華の時処にあらざれば、一星火(しんくわ)の出生するなし、一星火の活計なきなり。しるべし、一星火に百千朶の優鉢羅華ありて、空(くう)に開敷し、地(ぢ)に開敷するなり。過去に開敷し、現在に開敷するなり。火の現時現処を見聞するは、優鉢羅華を見聞するなり。1」天に轟き、地に轟く、千の竜というfactは、七月の空を、現実そのものを、夢ときわめて似通ったものにする。金鱗に眩んだ旅人の眼と耳にやがて、すべて生死するものへの嗟嘆みたいな大粒であたたかい、沛然とした雨がやって来て、昔の旅人の呟きは「稲妻にさとらぬ人の貴さよ」2。
1道元『正法眼蔵』第十四「空華」より。
2芭蕉元禄三年秋句。
索35号掲載予定
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