塵中風雅 (一二)
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塵中風雅 (一二)



 元禄三(一六九〇)年の晩秋、芭蕉は湖南の木曽塚から京(と思われる)の加生(凡兆)に宛てて書簡を認める。あたかも「猿蓑」編集のただなかの時期にあたる。以下全文を引いてみる。

頃日去(然)御方(けいじつさるおかた)樣より御文被下(ふみくだされ)、御無事に御いそがはしく御座候由、珍重に存(ぞんじ)候。拙者も持病さしひき折々にて、しかじか不仕(つかまつらず)候故、五三里片(邊)地、あそびがてら養生に罷越(まかりこえ)候。自是(これより)御左右申進(さうまうししんじ)候まで、御状に預(あづかる)まじく候。先以(まづもつて)去来子方病人いかゞ。度々(たびたび)御尋申(たづねまうす)も且(かつ)は物にまぎれいかゞと、延引いたし候。扨々無心元存斗(さてさてこころもとなくぞんずるばかり)に御座候。其許(そこもと)より御次手(ついで)に右之旨被仰達可被下(おほせたつせられくださるべく)候。
一、文集の事も、追付(おつつけ)上京いたし候間、染々(しみじみ)相談可致(いたすべく)候間、何角(なにかと)をも暫(しばらく)御とゞめ候半(さうらはん)と推察申(まうし)候。嵐蘭(らんらん)より燒蚊(かをやく)のことば一巻参(まゐり)候。是も重而(かさねて)持参可致(いたすべく)候。
一、憎烏之文(からすをにくむのぶん)御見せ、感吟いたし候。去乍(さりながら)、文章くだくだ敷所御座候而(て)、しまりかね候樣(やう)に相見(あひみ)え候間、先々他見被成(まづまづたけんなさる)まじく候。殊外(ことのほか)よろしき趣向にて御座候間、拙者に可被懸御意(ぎよいをかけらるべく)候か。文章に増補いたし、拙者(せつしやの)文に可致(いたすべく)候。もし又是然(非)と思召 (おぼしめし)候はゞ、拙者(せつしやの)文御覽被成(なされ)候而、其上にて又御改可被成(あらためなさるべく)候。文の落付所(おちつきどころ)、何を底意(そこい)に書(かき)たると申(まうす)事無御座(ござなく)候ては、お(を)どり・くどき・早物語の類(たぐひ)に御座候。古人の文章に御心可被付(つけらるべく)候。此(この)文にては烏の傳記に成申(なりまうし)候間、能々(よくよく)御工夫御尤(ごもつとも)に存(ぞんじ)候。
     九月十三日                      はせを
加生(かせい)樣
尚々こよひの月、漁家にて見申筈(みまうすはず)に御座候。發句は有(ある)まじく候。野水(やすい)返事も不参(まゐらず)候。もしもし御あひ被成(なされ)候はゞ、先日之返事いかゞと御尋可被下(たづねくださるべく)候。

 加生(凡兆)についてはすでに述べた。書簡冒頭の「去御方樣」とは、貴人のことらしいが不詳。「五三里片地」は堅田のことを指す。ここで芭蕉は「病雁の夜寒に落て旅寝哉」の吟をものしている。書簡ではしばらく手紙をよこさないでほしいと言っているが、こういう言い回しは芭蕉書簡のなかでは意外に多いことに気づく。例を挙げればこれ以前にも「拙者無事の旨御告可被下(つげくださるべく)候。其元別条無御座(ござなく)候はゞ、御状不及(ごじやうにおよばず)候」(元禄元年杉風宛)、「仙台より北陸道(ほくろくだう)・みのへ出(いで)申候而(て)、草臥(くたびれ)申候はゞ又其元(そこもと)へ立寄申(たちよりまうす)事も可有御坐(ござあるべく)候。もはや其元より御状被遣(つかはさる)まじく候」(元禄二年桐葉宛)、「近々他の地へ巣を移し可申(まうすべく)候。しばらく書音絶可申(しよいんたえまうすべく)候」(元禄三年去来宛)などがある。
 ここから一所不住の芭蕉の境涯を思うのは比較的容易だが、私はむしろここに彼の人間関係に対する濃やかに行き届いた神経を見たい。なぜなら、この言い回しと表裏するようにして次の言及がなされているからだ。「罷帰(まかりかへり)候へば、又いつ上り可申樣(まうすべきやう)にも無御座(ござなく)、一入々々(ひとしほひとしほ)御ゆかしきのみに候」、「猶貴面(なほきめん)」(なおくわしくは直接お会いしたおりに)、「此度御厚志忝(かたじけなく)、態(わざと)世間めき候へば、御禮不具 (つぶさならず)」(世間並みのことばでは申し尽くしがたいので、わざとお礼は申しません)。なにごとも直接に会って話してみるまでは、友は幻のような存在でしかない。会者定離の人間が、一夜俳席をともにするからこそ連句ははなやぐのだ。一所不住をいうのならそこのところを押さえるべきだろう。
 ところで「去来子方病人いかゞ」とあるのは、書簡註でもいうように去来の猶子(兄弟や親戚の子を自分の義子にすること)俊乗のことを指すか。「猿蓑」巻之三、秋の項には「仲秋の望、猶子を葬送して」の詞書がある去来句「かゝる夜の月も見にけり野邊送」を載せる。「度々御尋申も且は物にまぎれいかゞと、延引いたし候」云々という芭蕉の筆致には、去来に対する並々ならぬ気遣いが感じられるのである。
 ちなみに、書簡本文中にいう「文集」とは、言うまでもないが「猿蓑」のこと。最初の計画では、「蚊ヲ燒」のことばや「烏ノ文」への言及があることからも窺えるように、多く俳文を収録するつもりであったらしい。それが途中から変更になって結局「文」といえるものは芭蕉の「幻住庵記」一篇となってしまったという事情がある。ここで注目されるのは芭蕉が凡兆に対して、その趣向を譲ってほしいと申し出ている点である。けだし、芭蕉の生きていた時代と私たちの生きている近・現代とを大きく分かつところであろう(ただし、比較的最近の例では田村隆一が鮎川信夫から「立棺」ということばを作品のタイトルに貰い受けたということがある)。最終的には「烏」の趣向は、芭蕉の「烏之賦」となって落ち着くのだが、師が弟子の作を奪ったということではない。この書簡のすぐ前の曲水宛書簡のなかでは、「桐の木にうづら鳴(なく)なる塀の内」という句について「うづら鳴なる坪(塀)の内、と云(いふ)五文字、木ざはしや、と可有(あるべき)を珍夕(碩)にとられ候」と報告しており、この手のことは蕉門のなかでは相当自由に行われていたことがわかるのである。付け付けられることはもとより、それに付随する本歌取り、脇起こしなどが日常茶飯である俳諧の世界では当然のことであろう。折口信夫が日本の文芸を「非文学」と看破したのも、「近代」主義的な解釈では到底理解しえない分厚い伝統を意識してのことだった。そうした流れはむしろその人間一代のみで後人が使ってはならぬとされる詩語、「制(せい)ノ詞(ことば)」という奇妙なものさえ生み出すにいたっているくらいである。
 ところで、凡兆の「烏ヲ憎ム」の文について、それがどのようなものであったか、オリジナルが伝わっていないので不明だが、芭蕉によれば「文章くだくだ敷」、「しまりかね候樣」と形容され、この文では烏の伝記にすぎないものになってしまうとされている。大切なのは「文の落付所、何を底意に書たる」かという点だと芭蕉は言う。「古人の文章に御心可被付候」とも。ではここに「烏ヲ憎ムノ文」の趣向が芭蕉によっていかに増補され発展させられたか、その全文を引いてみたい。なお、芭蕉によるタイトルは「烏之賦」である。

一烏(いちう)大小有りて、名を異(こと)にす。小を烏鵲(うじやく)といひ、大を觜太(はしぶと)といふ。此の鳥反哺(はんぽ)の孝を讃して、鳥中の曾子(そうし)に比す。或いは人家に行く人を告げ、天の川の翅(つばさ)を竝(なら)べて、二星(じせい)の媒(なかだち)となれり。或いは大歳(おほどし)の宿りを知りて、春風を覺(さと)り巣を改むといへり。雪の曙の聲寒げに、夕(ゆふべ)に寐所(ねどころ)へ行くなんど、詩歌の才子も情 (なさけ)有るに云ひなし、繪にも書かれて形を愛す。只貪猾(どんくわつ)の中にいふ時は、其の徳大(おほ)いなり。
 又汝が罪を數ふる時は、其の徳小にして害又大(おほ)イなり。就中彼(なかんづくか)の觜太は性佞強惡にして、鳶の翅をあなどり、鷹の爪の利(と)き事を恐れず。肉は鴻雁(こうがん)の味もなく、聲は黄鳥(くわうてう)の吟にも似ず。啼く時は人不正の氣を抱きて、かならず凶事を引いて愁ひを向かふ。里にありては栗柿の梢を荒(あら)し、田野に有りては田畑を費(つひや)す。粮(らう)に辛苦の勞を知らずや。或いは雀の卵(かひこ)をつかみ、沼の蛙をくらふ。人のしかばねを待ち、牛馬の腸をむさぼりて、終(つひ)にいかの為めに命をあやまり、鵜の眞似をしてあやまりを傳ふ。これみな汝食(なんぢむさぼ)る事大にして其の智を責めざる誤(あやまり)なり。汝がごとき心貪欲にして、形を墨に染めたる、人に有りて賣僧(まいす)といふ。釋氏(しやくし)もこれを憎み、俗士(ぞくし)も甚だうとむ。アヽ汝よく愼しめ。ガイが矢先にかゝつて、三足(さんぞく)の金烏(きんう)に罪(つみ)せられんことを。

 ここで若干の註を付しておきたい。○烏鵲/カササギのこと。烏鴉とあるべきか。○反哺の孝/烏は母烏に六十日養われた恩返しに六十日口移しに食べさせる、という伝承を踏まえる。○鳥中の曾子/曾参(そうしん)。孔子の門人で孝をもって知られる。○鴻雁/鴻は雁の大きなもの。ともに美味。○黄鳥/鴬の異称。○粮に辛苦の勞を知らずや/食べものを得るのに苦労することなく。○いか/いかのぼり。凧のこと。○賣僧/俗情に染みた坊主を嘲罵していう。 ○ガイ(HTML版のための注:羽の下に廾という字)が矢先にかゝつて、三足の金烏に罪せられんことを/ガイはゲイとも。中国古代神話上の人物で弓の名人。一度に十の太陽が出て暑さに民が苦しんだとき、尭(ぎよう)に命じられて太陽を九つまで射落としたという。三足の金烏は太陽のなかにいるとされる三つ足の烏。

 さて、一読して芭蕉の俳文独特の晦渋さを感じるが、「底意」の意味するところは明らかであろう。「文の落付所」のあるなしは、「文」にメタフィジックがあるかどうかにかかっている。人生観と言い換えてもよいが、私は芭蕉に関してはできるならこのことばを避けたい。たんなる倫理というには、あまりにも高速度・高密度で機能している存在の機微のようなものが感じられるからだ。「古人の文章」は、芭蕉にとって目のあたりに実在し、実感されるものでなくてはならなかった。この「烏之賦」で芭蕉は、烏の大小を分かち、その古典からの面影を引き、その徳と罪とを挙げているが、このようなスタイルはむろん「おどり・くどき・早物語」の羅列主義から完全に脱却しているとは言いがたい。逆に見れば、蕉門全般の「文」に臨む態度は貞門時代からつづく一種の伝統に根ざしていると言えそうだ。しかしこれを宝暦ごろに書かれた次の「俳文」と比較してみるとどうであろうか。

燒蚊辞(かをやくのじ)
おのが身ひとつは唯塵ひぢの幽かなる物ながら、類を引き雲(カ)をなし、夕の背戸に柱を立て軒端に雷の聲をなし、貴賤の肌をなやますより、世に蚊帳といふ物を以て汝を防ぎ、末々の品に至るまで、誰か一釣の帋帳をもたざるべき、積りて世の費いくばくぞや。されば虻の利觜蜂の毒尾も、しひて人を害せむとはせず、既に仇の逼る時、是をもて防がんとするは、人の刀剣を帶するに等し。汝が針は只人の油断をうかがひ、ひとり口腹のためにむさぼらんとす。たまたま蜘の巣につつまれ、人の手に握られて、其針を出すことあたはず、然れば巾着切のはさみには劣れり。今宵一把の杉の葉をたいて、端居を心地よくせんとすれど、猶も透間をうかがふ憎さに、おとなげなき業ながら、紙燭さして汝を駈る。ひとへに汝が業火(ごふくわ)なれば、他をうらむ事あるべからず。さるにても殘ましき汝が身を觀ずれば、
 火をとりに来ぬ蚊は人に燒かれけり     (横井也有「鶉衣」より)

 人も違う。時代も違う。同工異曲だが、芭蕉のそれとくらべて格調の落差はいかんともしがたいところである。ただこの文にただよう、突き抜けたような明るいニヒリズムの匂いは賞してよいだろう。芭蕉の生きていた元禄から半世紀ほどのちの宝暦ごろになると、「俳諧」はこのような姿をとって延命していたことになる。そして蕪村の中興まではあと四半世紀ほどの歳月を必要としていた。しかしそれとても、乱世の翳をどこかで木枯らしのようにまとわせた芭蕉の次の句の世界を「再興」するものではなかった。

  いねいねと人にいはれても、猶喰(なほくひ)あらす旅のやどり、どこやら寒き居心(ゐごごろ)を侘(わび)て
住(すみ)つかぬ旅のこゝろや置火燵(をきごたつ)


(完)

* 参考文献/朝日新聞社「日本古典全書・芭蕉文集」(エ原退蔵校註・山崎喜好増補)、同付録(山崎喜好文)。岩波文庫「鶉衣」(石田元季校訂)。


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