塵中風雅 (六)
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塵中風雅 (六)



 『書簡』の註によれば、土芳著の『蕉翁全伝』の元禄元年の項に次の記事があるという。「此春武蔵野の僧宗波・ミノ(ミカハの誤り)国杜国来る。宗波逗留なし。杜国は名ヲ万菊と改、逗留ス」。そしてこれは貞享五年(一六八八)二月十九日の芭蕉書簡に対応している(貞享五年は九月に元禄に改元)。

から口一升乞食申度(こつじきまうしたく)候。可被懸芳慮(はうりよにかけらるべく)候。江戸・參川(三河)よりばんに二人来候而(て)、明日奈良へ通(とほり)候間、今夕宗無(そうむ)同道に而、御出(いで)御語可被下(かたりくださるべく)候。壱人は宗無もちかづきにて御坐候。以上
          二月十九日
 宗七様
                            桃青

 じつはこのとき芭蕉は郷里の伊賀上野にいるのだが、それについては後述する。
 書簡は、伊賀上野の酒造家としか現在では知られていない宗七なる人物に辛口の酒一升を無心し、そのとき同地に滞在していた宗無を誘ってともどもお越しくださるようにとの文面であるが、このなかの「二人」とは、『蕉翁全伝』によって宗波と杜国であることが知られる。以下、それぞれの略伝を記しておきたい。
 宗波。生没年未詳。蒼波とも署す。禅宗黄檗派の僧。江戸本所原庭の定林寺住職。芭蕉の隣庵に住す。貞享四年、芭蕉の『鹿島紀行』の旅に同行したことで知られる。晩年の芭蕉書簡には、相手に対しての尊称である「老」の字がみえる(元禄七年五月十六日付曽良宛)。
 宗無。菅野氏。江戸住。伊賀上野の米問屋菅野十兵衛の三男。若年のころ武家屋敷に奉公、延宝ごろに江戸に出て次兄のあとを継ぐが、やや転身してのち禅門に帰し、生涯無妻であったという。この間、宗波と知遇を得たか。享保四(一七二〇)年十月三日没。享年未詳。宗波と同様、芭蕉はこの人に対しても書簡などでは「老」と、つねに敬称を用いている(元禄二年閏正月乃至二月初旬筆猿雖宛ほか)。ちなみに宗無は僧籍ではない。 
 杜国についてはいささか多くのことを語らなければならない。杜国。坪井氏。通称庄兵衛。生年不明。元禄二年三月二十日没、享年三十余か。尾張名古屋の人。御園町の町代を務めた裕福な米商で、貞享元年成立の『冬の日』五歌仙の有力な連衆のひとり。貞享二年八月、空米売買の罪で御領分追放となり、三河国畠村に閉居、のち保美村に転じその地で没す。変名して南喜左衛門(墓碑には彦左衛門)、号野仁(野人・の人とも。読みはヤジンではなくノヒト)。才能のある人であったようだが、ついにそれを開花させることなく終わった。芭蕉鍾愛の弟子である。
 貞享四年冬、江戸を発った芭蕉は同年十二月初旬まで尾張に遊んだが、その間、十一月なかごろに越人の案内で三河国保美村に隠棲していた杜国を訪ねている。この地で芭蕉は次の一句をものしている。

 麦はえてよき隱家や畠村

 人の不幸に寄り添い、それを穏やかに転じている俳諧師の一句は杜国の胸に沁みたことであろう。「麦」を兼三の春の季ととれば(詠まれたのは冬であるがその没した日を思えば)、一見目立たない句ではあるが私などにはうらうらとした春日のなかに杜国の生涯の地を視るようで、痛切である。
 その後芭蕉は杜国、越人を伴って伊良胡岬に遊びなどしたあと、いったん杜国とは別れて、尾張経由で伊賀上野に帰郷、そこで越年する。翌年二月四日、かねてからの約束により伊勢で杜国と再会。杜国は追放になった名古屋を避けて、海路伊勢までやってきたのである。十八日、参宮をすませた芭蕉は亡父の三十三回忌追善法要のため帰郷、そして十九日晩のこの書簡となるのである。杜国は一日遅れで伊賀にやってきたものらしい。
 このあと杜国は万菊丸と名を改めて芭蕉の西国一見の旅につきしたがうことになるのであるが、これから先、生涯会うことのないかもしれぬ者が「逗留」し、宗波と宗無という江戸の知己が旅先で一晩語ってそのまま別れてゆく。会者定離の、これもひとつの(芭蕉を亭主とする)「座」にほかならないのではないか。下戸の芭蕉がわざわざ「から口」を工面したということは、そのおかしさは別として、杜国をはじめ一座の面々がかなりいける口であったことの証拠のようなものである。一夜の歓を尽くす、その酒の味はどういうものだったか。
 ところで、杜国訪問を含めた西国一見の旅は『笈の小文』にまとめられているが、これはたとえば後年の『おくのほそ道』のようにコンパクトなものではない。いいかえれば、それは紀行文『笈の小文』のための旅という性格のものではない。貞享四年十月末に江戸を発ってから翌五年の八月下旬にいたる無慮一年近くにわたる芭蕉の足取りは、そういうためにはあまりに蹌踉としているのである。伊勢参詣ののち郷里をあとにした芭蕉ら二人は、まず吉野の花見へとおもむく。次いで歌枕を探って大和をさまよい、紀伊・高野まで足を延ばしている。それから駕籠で二上を越えて河内から大坂に入り、尼崎から船で兵庫夜泊、須磨・一ノ谷・明石の平氏の悲劇に及んで『笈の小文』の記述は途絶えている。このあと芭蕉は杜国と別れて京・湖南でひと月、尾張・美濃にふた月あまりも遊び、かねてからの計画かどうか、秋風の立つころ、さっさと姨捨山の名月を見にいってしまうのである。これはのちに『更科紀行』として成立した。
 こうみてくると、伊勢といい、吉野・大和といい、更科にしても、芭蕉はなにものかに憑かれたように歩き回っているといってよい。すなわち、彼は「旅」の計画は持っていたにしても、そこで「作品」を将来しようなどとはその時点では考えていなかったはずである。「作品」はたんなる結果にすぎない。歌枕の影の深い西国のそこここを「万菊丸」と旅するなかで、芭蕉は幾多の視えざる連衆と出会っていたような気がする。『笈の小文』所収のものではないが、まさに『笈の小文』の旅のただなかでものされた、その幻想を思わせる次の一句がある。 

やまとのくにを行脚しけるに、ある濃(農)夫の家にやどりて一夜をあかすほどに、あるじ情ふかくやさしくもてなし侍れば
 はなのかげうたひに似たるたび寝哉

 ここで芭蕉は謡曲のワキがもたらす或る高い調子の酔いのうちにあるようである。あるいは能『忠度』の以下の一節あたりをその俤としていたか。

ワキ「早日の暮れて候一夜の宿を御かし候へ。シテ「勝(げに)おやどがな参らせ候はん。や。此花の陰ほどのお宿の候べきか。ワキ「げにげに花のやどなれども、誰をあるじと定むべき。シテ下「行暮れて木(こ)の下陰をやどとせば、「花やこよひのあるじならましと、「詠(なが)めし人も此苔のしたいたはしや

 たしかなことはいえないが、芭蕉の西国一見の旅は一面『平家物語』にみちびかれた旅でもあったはずだ。このとき彼のこころは、そこに絶え間なく修羅や夢幻というかたちであらわれている「中世」のただなかにいるといってもよいのではないか。「万菊丸」という時代離れした戯称ひとつとってみてもそのことは考えられるのである。ここで杜国は芭蕉に対して一人前の大人ではないかのようにふるまっている。部外者の意識もあったのであろう。この江戸の「世間」という現実のなかで、しかし杜国は芭蕉にとってひとり冥府を案内する者として恰好の「ツレ」であったような気がする。

(この項終わり)

*参考文献/岩波文庫『芭蕉紀行文集』、同『芭蕉俳句集』(各中村俊定校注)、朝日新聞社刊『日本古典選・謡曲集上』(野上豐一郎解説、田中允校註)。なお「はなのかげ」の句は詞書と併せ「真蹟懐紙」のものから引いたが成稿ではない 。


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