Mar 04, 2006

夕陽学舎

有斐学舎創立120周年記念誌が兄弟、いとこに送られて、電話をもらった。3月3日は長兄の命日だし。「夕陽学舎」として、詩の題材に使っていたのを、ネットでみつけてくださって、記念誌に思い出を書かないかと連絡をいただいた。ネットの恵み。ネットさん、灰皿町さん、ありがとう。

《夕陽学舎》
あの厚ぼったいねずみ色の門札は燃やされてしまったか
四〇年後に戻ってみると
人けのないテニスコート

      詩集『雪柳さん』より

連絡を下さった編集委員のお一人の伊藤晴雄さんは、(ネットだから、文字のみのお付き合い、これも不思議だ)私たち一家が去った後に入舎された学生さんだったが、兄君お二人の時代が父親が舎監だった時とかさなる。晴雄さんは現在熊本日日新聞社(通称クマニチ)勤務。遥か昔の春の午後、有斐学舎の舎監宅の応接室でクマニチの記者のひとが余ったフィルムで撮ってくれた写真を載せてくださった。わたしは竹早高校の制服で写っている。
その写真に父親と3人で写っているすぐ上の兄と電話でしゃべる。 びっくりしたのは、おまえ、小平の墓に入っていいぞ、と言ったのだ!以前、お前は入れないぞと念押ししてくれたおせっかいな兄だったのに、どうした風の吹き回し? 電話切ってから、これは遺言だと思った。あの兄にして、この言い遺し。海は怖いから、山に撒かれたい、骨壷はいやだ。お金使わず、ひそかに捨ててほしい(だめ?) 兄は骨壷は墓のサイズにぴったりなんだと言っていたが、サイズがアウと聞いて、とたんに逃げ出したくなった。わたし寸法が合うのだめなのよー。こんな掘り出しをしてくださった伊藤さんって、きっと優秀な新聞人なんだろうなー。
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