Jan 04, 2006
『好きな人の…』と『火曜日になったら…』
やはり詩集のほうがとっつきやすいのでしょうか、評論のほうは読みかけて放り出して、詩集2冊を読み終わりました。斎藤さんの『すきなひとの住んでる街へ』は1990年出版の第一詩集。渡辺さんの『火曜日になたら戦争に行く』は2005年10月。ここに全く偶然に同席させられて、おふたかたとももじもじ当惑していらっしゃるだろう。お許しあれ、あなた方をご同席させてしまったのは、有働の全くの恣意であります。斎藤さんのはもう実物はなくなって、コピーだもの。偶然、有働の怠惰により、この2006年の冒頭に、この有働のしがない、幽霊のようなウエブコーナーに引っ張り出されて、「こまってしまぷ」でしょう。ごめんなさい。と、これは、渡辺さんがけっして代名詞を使わないで自己を固有名詞で名指されるのをへたくそにコピーしたまでであります。「持っていかれる」と悪い意味で使う、影響されやすい、という心情の自立性のなさをたしなめて言うことがありますが、渡辺さんは完全に持っていかれているのです。何に?ケータイに、コンビニに、福岡地震に(台風だっけ)。若芽のようにいたいけな感受性の故に、毎日新しい災厄に「持って行かれているのです」。ぼくとかわたくしとかおれとかに自分を置き換えるヒマもないほど矢継ぎ早に襲われているのです。対して、斎藤さんは「きみはいちずすぎる」と恋人に言われてしまうほど、トスカナのカララ山の白大理石ほど、純白で硬く、容易に鑿をうけつけない自我の持主。これって、男女逆転していないかしら? 女性がりりしく、構築的で、男性が流れに揺れる藻草のようにやさしく。このひとたちは、自分の個性をちゃんとつかんでいると思う。荒削りではあるが、自己の原石は掘り当てている。あとは、人の目に分りやすい形に細部を形成すること。この対照的な無定形性を、どんなかたちにまとめて行くか、だと思う。対照的とはいえ、その純度は両方とも抜群。その純度のエネルギーが内から突き上げて書かせているのだと思う。やはりテーマを持つべきだと思う。蛾の少女・アンリエットのように、「その時」を懼れずつかまえるべきだと、それは、自分も含めて、そう思うのだ。
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