Jul 04, 2006
有斐学舎はE.N.A.に似ていたのだろうか
有斐学舎の120周年記念誌ができて、総会を兼ねた記念会に招待していただいた。熊本で6月の始めに開かれ、30日はその東京版。舎歌のCDができ、熊本会の記念写真を伊藤晴雄さんから見せていただいた。昭和17年、文京区の細川邸の一角に新築された有斐学舎に引越すための馬が来たのを、茗荷谷の舎監の家の廊下から見ていたのが、当時3歳の記憶の始まりである。昭和20年の敗戦をはさんでのことだから、もっとも貧しく、飢えていた時代だったが、記憶の中で有斐学舎はますます輝いてくる。あそここそ、自分に恵み与えられたアルカディアだったのだなあと、あらためて気付いた。ほぼ半世紀ぶりに体感する有斐学舎、学生時代の舎生さんたち。志木にある現在の有斐学舎の学生さんたちも来ていたが、半世紀前の弊衣剛毅の風貌はがらりとかわり、ほっそりときゃしゃで、私にはお人形さんのような気がした。ちっとも実感がなかったが、細川家の庇護の下で運営されたエリートたちの学生寮だったのだろう。集まったOBの人たちは、立派で、会長は日弁連会長の平山さん。宮本秀人さんもなつかしい。熊本の男性は美しいなと思った。私も熊本の人と結婚していればよかったのになあ、何を血迷ったか…逃がした魚は大きいぞ!
目下は細川家の援助を離れ、経営が難しいらしい。不要論もあり、また男子だけに限るのも今の時代にどうだろう。記念誌を見ていると楽しいが、前途多難の有斐学舎である。
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