Nov 07, 2015
私の記憶がまだ健やかなうちに
思い出して…… 8,9歳の頃だろうか、昭和22、3年敗戦の惨状はまだ生々しかったはずだが、親や回りの大人たちに保護されて飢えていたとはいえ自分自身で差し迫った命の危険を感じることは無かった、幼い子供は大人のようには死の脅威を感じにくいものだ。大人たちは戦時下のひどい統制から開放された安堵感をかけがえの無いものと感じていたはずだ。7歳の春に肺炎にかかって、豊坂を下りきった角にある田原医院の達磨大師のような先生の往診を受けた。本人は気が付いたら何日間も布団に寝かされていたというような具合だった。ペニシリンさえあればと先生に教えられて、両親が必死にツテをたどって占領軍のPX勤務の2世の小林さんという名の、折り紙の笹舟にそっくりな軍帽をかぶった濃緑の占領軍の軍服の男の人、あまり背が高くはなかったと記憶している、というのはすっかり回復してから、玄関先に見えたその人にお礼の挨拶をさせられたからだ、米軍にしかなかったペニシリンは一晩で効いて、ふらつきはしたが起きて歩けるようになっていた。無事生還したことに大人たちは優しかったが、その後、父の知り合いからのお見舞いの果物籠の、いい匂いのするインドりんごとかデリシャスとかいう銘柄の大きなりんごを一人で一籠みんな食べてしまったと、母から言われて、いくら母親でも自分も食べたかった、病気の子供ばかりとても手の届かないものを食べたということに引っ掛かりがあったのだと子供心にも思った、ほかにもたくさんの幼い兄弟たちがいたのだから、病気になってお前ばかり贅沢をしたと、自分ではどうしようもないこととはいえ、ひどく疚しかった記憶がある。あのまま死んでいれば言われなかったのに、べつに死ぬのが怖かったわけではないと心の中で意地を張ったことを覚えている。久しぶりに学校に行くと、1組(わたしは3組)の恐い土田先生に、廊下で行き会うたびに「おまえ、顔いろが青いぞ!」と怒鳴られてイヤだった。自分の顔色なぞ子供には見えないから、いやなことを言っていじめる先生だとこそこそのがれたが、あれからはるか遠くまで生きてきた現在は、反対のことを思う、あれは先生の愛情だったのだと……先生の少し髪の薄くなった額と、ポケットのたくさんあるグレーのジャケットが見える、いつも手にあったのは丸い玉の付いた木琴のスティック……書きたかったのはこの7歳の春の肺炎のことではなく、それより1,2年ほどあとの少女雑誌の付録の薄い小判の赤い歌詞集のことだ。めったに買ってはもらえない雑誌の付録をどうやって手に入れたのか、ともかく大切な宝物だった、今でもページに添えられたペン画の素描が眼に浮かぶ。「ふけゆく秋の夜」、「四葉のクローバー」、「ローレライ」、「オールドブラックジョー」とか、10歳前の女の子の夢の宝箱だった。歌うのにいちばん難しかったのが「モーツァルトの子守唄」で、ほかの曲とは感じが違っていた。この曲だけ、遠くにあるような、今で言えば生活感から離れた明るい空間の中にぽっかり浮いているように思えた。大人になってから、この曲はモーツァルトの創ったものではないと知ったが、それにしても同時代のフリースという医者の作品で、モーツァルトに作曲を習った人だというので、「フリースのモーツァルトの子守唄」といまでは呼ばれているらしい、きわめてモーツァルティックな曲で、k350というケッヘルナンバーまで付いている。 学校の音楽の教科書にも、いまではなるほどと分かる、モーツアルトのフレーズを使った曲がいくつもあった。「魔笛」の中のパパゲーノの第20番アリア〈かわいい女房がひとり、パパゲーノ様はほしいんだ〉などを、もう少し無難な学生向きの身近なシーンに歌詞の内容を移した曲だった。だから敗戦後の子供たちはモーツァルトの音楽にそれと知らされずに触れていたことになる。他人事とは思えない、自分の成長と結びついた血肉化した音楽なのだ。礒山雅(ただし)の「モーツァルト」(ちくま学芸文庫)を読んでいて、「内側から満たされる癒し」というフレーズに行き当たって、上に書いたことが思いだされた。ホンヤクスルト、内側から満たされていく音楽という意味で、自分の言葉で言えば「秋の晴れた昼間に、なんの不足も感じない時間を過ごしている」音楽と言ってみよう……戦争とは無縁の、わたしたちは穏やかな民族なのだ。