Sep 17, 2014
横浜トリエンナーレ2014
昨日9月16日第7詩集『モーツァルトになっちゃった』の再校が終ってほっとした息抜きに大家利夫さんからかねてご案内をいただいていた横浜トリエンナーレ展に出かけた。夏のぶり返しで日中28度を超える熱い中を桜木町から標識を頼りに徒歩で15分、それだけでもすでにくたびれていた。会場に着くと若者が多く、Tシャツ、スニーカー、鍔つき帽子のすっきりしたファッションに目が癒された。展示の目玉は大家さんの装丁なさった巨大書籍1冊、プラスチックの台に置かれていて、階段を4段ほど上ってページをめくることができる。表紙は本格的装丁の分厚い重厚な作りになっているが中味のページは手書きのものもあって、近親感を持って読むことが(制限時間3分なので読み込むのは無理)できる。普段机の上でしている読書を、規模を拡大して読む、読みを拡大してなぞる、という雰囲気。韓国語やアラビア語のページもある。横書きの女性の詩が親しみやすく、楽しい経験だった。11月3日までの会期を終えた後、燃やされるのだそうだ。MoeNaiKoToBa というタイトルにもかかわらず。 第2会場のビデオ作品が興味深かった。 海岸に漂着した巨大な倒木をじっと写し続けたもの。根っこの空洞にやせこけた犬が忍び込んでいる。東アジアの天然の海にひたひたと押し寄せている地球破壊の足跡。何の文明の恩恵もうけていない原住民がそれらの漂流物を取り除こうと取り付いている。やせこけて汚れた裸体。いつもからだが濡れ、マイナスだけを受け続けている。 日本の都市の表面的な小奇麗さがエゴイスティックに思われる。海だけが審判者だ。「世界の中心には忘却の海がある」が今年度のテーマ。Sep 01, 2014
幻の都市の予感
PC27番を聞いているうちに、ランボーの『イリュミナシヨン』に幻視されている様々な風景が浮かんできた。海辺にサーカスの一座が休んでいて、白い服の子どもたちが散らばっているのが見えたり、巨大な歯車のようにギーギーとかみ合い回転する都市構造物の移動。アルプスの山のあいだにおかれたグランドピアノを演奏する伯爵夫人。時を打たぬ大聖堂の丸時計。薔薇の茂みに隠れた死んだ女の子。空にかかる鉄の橋や光り輝く真昼間の都市,明け方に樅の木の間から見える真っ白な滝。未来に出現するはずの幻だ。大災害の後、すべてが瓦礫と化し、生き残った人間たちがシャベルでまた働き出す。そうすることが生き物が生きていくことなのだから。あらかたが死に、少数が生き残る。でもそれも地球がカラカラと回る不毛の岩石となるまでの猶予の時間に過ぎない。その時間はこの音楽のように疾走し、明るい。モーツアルトが5歳の頃からほとんど一生涯、馬車旅行を繰り返し、馬たちに曳かれて疾走しながら頭の中を流れて行った音楽と、ランボーが20歳になる前に様々な自己崩壊の果てに幻視した風景とが重なり合う。ブリッテンの歌曲、『イリュミナシオン』をボストリッジのテノールで聴く。YouTubeでライブも見つかった。きわめて神経質だ。それも悪くはないが、わたしはPC27の軽やかな透明感のほうがこの詩集に似合っていると思うのだが。