ターナーからの示唆
上野の都美術館にターナー展を見に行く冬まじかの秋晴れの1日。やっと自分を取り戻した気分。夏から秋にかけて充実はしていたが忙しなかった。それでいて孤独だった。孤独はいいけど、友人がいない、という寂しさにちくちく刺されていた。ターナーをじっくり見て、自分の現状を肯定することができた。
13歳ごろすでにずば抜けた精密なデッサン力で父親を驚かせた。建築学を学び、壮大な石の宮殿、教会、遺跡、にひとりでたじろぐことなく向き合った。このひとは生まれつきの才能で自然と歴史に向き合っている。パトロンの貴族の邸宅に逗留させてもらって、この城のための絵を頼まれ、難破船の大きな油絵を差し出したがパトロンの気に入らず、完成させて飾られることはなかった。灰色の海が実に美しい。黄色気違いだったそうだが、灰色のほうがもっと美しい。この展覧会中最も引き込まれた絵だったが、絵葉書やカタログでは平凡に変貌してしまっている。青年時代の美貌に比べ、晩年のクロッキーのみすぼらしさ。絵は形をなくし、ますます存在感を増しているのに。現実の人間は醜く滅びていく、その反比例として生み出す美が冴え返る。
中部フランスのロワール川を遡るスケッチが美しいことは以前から知っていたが、こんどその全貌をつかめて満足している。モーツアルトがそうだったように、ターナーも人間のシステム、社会を越えてその視線が遠くのほうへ向かっていく。神ではなく、人間の意識が研ぎすまされていく過程を一直線に追っかけている。芸術家たるもの、それが王道なのだろう。
レイナルド・アーンのオペレッタ「モーツアルト」
アーンが台本作家サッシャ・ギトリーに依頼されて作曲した3幕の小オペラ。作曲家モーツアルトがパリに滞在した数日間、という架空の設定で、初演(1925年)のモーツアルト役はギトリー夫人でソプラノ歌手のイヴォンヌ・プランタンが歌ったそうだ。EMI版の2枚ディスクのCDを運良く借りることができて、ここ半月ほどこればかり聞いている。パリとモーツアルトはあまり似合わないが、ギトリーが妻に歌わせるため新作オペラの題材に思いついた。フランス語がきれいで、科白を言うだけの登場人物も半分。フランス語の会話は歌を聴いているのとさして変らない。意味はあまりはっきりしないが、モーツアルトがクラヴサンを弾いて、サロンの女性たちと合奏するシーンは美しい。プルーストの「失われた時」に出てくるいたちの民謡のフレーズがドッキリさせられる。モーツアルトのフレーズもたっぷり盛り込まれていて、明るく可愛らしく、モーツアルトの音楽がどれほど世の人々の気分を潤したか、あらためて考えさせられる。最後はこのモテモテのイケメン作曲家が惜しまれながらパリを去る、という終幕。別にモーツアルトでなくともよさそうだが、モーツアルトでなければだめでもあるのだろう。他愛ない話し。Youtubeで上演舞台の一部が見られるが、これはピント来ない。CDを聞いているほうがずっとよい。ただ、アーンという人はお父さんがドイツ人だそうで、母はスペイン系ヴェネゼラ人で、フランス人の血はない。30代でフランス市民権をとった。10代から作曲に秀でて、コンセルバトワールでマスネーの愛弟子だったそうだ。このオペレッタを聞くと、ウイーン歌劇の匂いがする。時代も血筋もそんな土台があるに違いない。歌曲「クロリスへ」の無垢さ、バロック的な明るさもフランスを飛び越え、国籍を超えて共感を呼ぶ何かがあると思う。いずれこのオペレッタをローレルが指揮すればいいなと思う。演出と科白を今日的に変貌させるのはのはフランス人のお得意芸だから。繊細で、心深くて、子供っぽくて、やや蓮っ葉な、フェミニンなモーツアルトが生れてほしい。モーツアルトが貧窮の中で亡くなって共同墓地に運ばれていったという話しがずっと記憶に沁みついている。蝶々のような人だ。