Feb 20, 2007
試行錯誤
日曜日はPSPの合評会でした。この日は灰皿町の住民でもある足立和夫さんがいらっしゃいました。
詩集「空気の中の永遠は」より作品をお出しになりましたが、
いかにも足立さんらしい、なにか心の中の一部に溜まっていた空気を、
すっと抜いてくれるような一篇でした。
足立さんの作風は、日常を暮らす勤め人の視点から、
しかし日常の外側をふと垣間見る一瞬を掴む作品です。
個人的には、藤子不二雄Aが描き出す世界に通じるものを感じます。
さて、この日は合評会で感じたことは、変わることの難しさでした。
この会に参加されている方は、私を除きみな長いキャリアを持っておられ、
それなりのものを書こうと思えばすっと書けてしまう方ばかりです。
しかし、それで満足できるかといえばそうではなく、
やはりそれぞれがその先へ進もうと試行錯誤されています。
変わること、変わろうとすることは、表現をしようとする人には必要なことでしょう。
しかしそれはなかなか、というより、とてもとても難しいことです。
ある程度以前の自分を破壊しなくてはならないですし、
先へ進もうとすればそこは自分にも他者にも未知の世界なわけで、
既存の方法論が必ずしも役に立つとは限りません。
必要とあれば、詩作法まで新たに自分で編み出さなくてはならないでしょう。
非常に難しいことです。
この日の合評会でも、変化を求めて試行錯誤する作品が見られました。
その作品も、その思考錯誤の部分を抜いて考えれば、優れた作品と言えるものでしたが、
もがいている部分がありありとわかり、それが手法としてありきたりであった上、
成功しているとは言い難かったので、全体としてはあまりいい印象は受けられませんでした。
しかし、その心意気や良し!とも言いたいのです。
変わろうと思い立って、たちまち次の段階へ移行できることなど、
よっぽどの天才でない限りありえません。
数ヶ月、あるいは数年も必要になることもあるでしょう。
多くの人がこの移行段階で挫折して詩を書かなくなってしまったり、
詩そのものに対して諦観を感じてしまったりするのではないでしょうか。
などと言っている私も、第一詩集以後の作品に対して「変わった」「変わろうとしている」
という意見を多く頂きます。
自分としては故意に変わろうという気持ちはなかったのですが、
やはり無意識にもそういう気持ちが働いていたのでしょう。
また昨日は合評会後の二次会を途中で抜けさせてもらって、別の詩の飲み会にも顔を出したのですが、
そこでも私の最近の作品に対して、複数の方からダメだしを食らいました。
リズムにこだわりすぎている、言葉でこねくり回している、などなど…。
これも自分ではそんなつもりはなかったのですが、彼らは詩に対してとても目の肥えた人たちなので、
恐らくは正しい意見なのでしょう。
変わっていくときは、書いていく詩の中で何かが少しずつ構築されていくのでしょうが、
不完全な状態では建設途中が丸見えでみっともないものかもしれません。
それが読んでいても気にならないぐらいになったとき、新たな形として完成するのでしょう。
私はどうものろまで、なかなかみっともない形から抜け出せませんが、
とりあえず描きたい「感覚」はあるので、それがうまく形として成せるまで、
いまの方向に進んで行きたいとは思います。
ただ同時に、自分の根っこを見失っているのでは、なにか大事なものを忘れてしまっているのでは、
ということも最近感じるところです。
「変わらないためには、変わり続けなくてはならない」と誰かが言っていましたが、
この言葉は、自分の根っこをしっかり持っていることが前提だと思います。
過去の自分を模写したところで仕方ないですが、
ちょっと原点に立ち返ってみようとも思っている今日この頃でした…。
Feb 13, 2007
対象物。
またまたおひさ。詩人の方の中には、カメラが好きな方が多くいらっしゃるようです。
恐らく詩の言葉と写真とでは、捉えようとする感覚に共通するものがあるのでしょう。
しかし私は、写真を撮ると言う行為に不思議なくらい興味がありません。
これはもう子供の頃からのことで、カメラという機械に興味を持ったこともなければ、
旅行などに行った際に写真を撮ることも殆どしませんでした。
写真を撮るぐらいなら目に焼き付けておく、それで後々忘れてしまうぐらいなら、
それは自分にとって大した意味のある眺めではなかったのだ、なんて思ってしまいます。
ましてやカメラをぶら下げて何かを撮りに行こうという発想などあろうはずがありません。
なのに写真を見るということは、かなり好きなのですね。
好きな写真家の作品集はお金を出して買うこともありますし、
「アサヒカメラ」などの写真雑誌を購入して、有名な写真家の作品はもちろん、
投稿欄の作品まで丹念に眺めていたりします。
以前、詩誌の投稿欄マニアが存在すると聞いたとき、とても驚いたことがあったのですが、
考えてみれば、私も写真雑誌の投稿欄マニアでした。
こちらもカメラが好きな方から見れば、大分おかしな存在でしょう。
さて、なぜに自分は写真を撮ろうとしないくせに、見る方ばかりに熱心なのかと自己分析してみるに、
多分私は手で触れることの出来る現実というものに、殆ど興味がないんですね。
目に見えないもの、手で触れることができないものにだけ、私は興味を覚えるのです。
思うに写真を「撮る」という行為は、手で触れられる現実に正面から対峙する行為であり、
写真を「見る」という行為は、既にそこにはない、手の届かなくなったものに触れようとする行為で、
私は後者にだけ惹かれるのです。
これは人間として良くない傾向です。
よくある、バーチャルにしか対応できない不完全な人間の一種であるとも言えます。
思えば私は絵画や映画などの、一枚膜を隔てた向こう側にある芸術には惹かれても、
彫刻や陶器など、直接手で触れられるものにはほとんど興味を持てないのでした。
先週の「新日曜美術館」でオルセー美術館展の特集をやっていましたが、その中で、
ゴッホやセザンヌやゴーギャンは対象物に実際に対峙して絵を描いていたのに対して、
ルドンやモローは記憶や想像の世界を絵に描いていたという話がありました。
モローに至っては、手で触れられる現実には興味がないと言い切っています。
どうやら私はモローの仲間ですね。
私は詩を書くとき、実際に何か現実の風景やものを見ながら書くことが、実はあります。
寧ろ想像だけで書くことよりずっと多い。
これは対象物を見つめてシャッターを押すのとは違い、
対象物から一旦目を落して紙に字を書くという行為によって、
そこにある現実を、そのそばから現実でなくしてしまっているから、
私のようなタイプでも自然に行えるのでしょう。
紙に字を書く、またはパソコンのキーボードを叩いて文章を書くというのは、
指先でひょいひょいとつまらない現実を好き勝手に捻っていく行為かもしれません。
これは私にとって、随分楽しい行為です。
Feb 06, 2007
地下室への誘惑
おひさ。昨日は新宿のNECO BARで行われたエッジイベント、
「地下室への誘惑~女声詩の交響日」を見に行ってきました。
出演者は海埜今日子さん、斎藤恵子さん、杉本真維子さん、中右史子さん、水無田気流さん、
渡辺めぐみさんといった、今を代表する女性詩人六名。
そして司会は久谷雉さん。
会場は50名の定員のところ、60名を越すお客さんが入り、かなりの熱気。
私も備え付けの椅子には座れず、その後ろに丸椅子を持ち出しての鑑賞となりました。
会の始めにまず出演者全員による、新川和江さんの「私を束ねないで」の朗読がありました。
この詩が書かれたときと現在とでは、女性の置かれている状況は大きく異なっており、
また相変わらずな部分もあるとも思います。
しかし拡散し混沌とした現在の全体像を掴むために、
この一遍の詩の持つ意味をまず踏まえることは重要かもしれません。
続いて過去に放送されたエッジドキュメンタリーから、
白石かずこ編と平田俊子編が店内のモニターにて上映されました。
白石さんの方は、過去の名作「中国のユリシーズ」を「今日のユリシーズ」と新たに改作し、
巻物にしたため、冬の雪が舞う日本海に向かって朗読される姿が、いろんな意味で圧倒的でした。
50年代、ニューヨークなどで活躍されていた頃の写真も多く映し出され、その美しさや、
常にそこに「在る」ことにより生きる力強さにもまた圧倒されました。
…そして実は私の隣の席には、かなり素敵なお召し物のご婦人が座られていたのですが、
ちらりとお顔を拝見したところ、画面に映っている方と同じ顔のような気が。
白石かずこさんご本人でした…。
平田俊子編のほうは、人が苦手な平田さんが、夜中の二時に町を徘徊しながら詩の言葉を拾っていく
姿が映し出され、詩人の言葉が生まれる場所を思わされました。
人と会うのが苦手で、一週間も人と話さないことがあるという平田さんですが、
誰かに誘われれば断らず出かけていくあたりなど見ると、実は人との繋がりを強く欲しているらしく、
しかしなかなかそこでもうまく人と接することが出来ずにつらい思いをするそうで、
それが詩を書いて発表するいう行為をさせるのではと感じられました。
上映後は、6人の女性詩人によるトークショー。
ここでは、それぞれが詩をかく「場所」、そして「名前」について語られました。
まず「場所」について。
海埜さんは、全く違うふたつのものが出会う時に生まれるのが詩であり、常にその場所で詩作していきたいということを語られました。
斎藤恵子さんは、日常生活を送る自分がいて、しかしそれとは別にその根底にある水とか樹木のような自分がいて、そこが詩を書く場所と語られました。
水無田さんは、大量生産される部品のようにその他大勢として生まれ育ち、そういったアイデンティティがあやふやな状態の中で詩を書くことを語られました。
渡辺めぐみさんは、自分の書くものは殆どがフィクションであり、実際の自分が置かれている場所を寧ろ意識から外した場所で詩を書いていると語られました。
中右史子さんは、ご自身の幼い頃の経験やトラウマが強く詩作に影響していることを語られました。
名前についてもそれぞれ出演者から、自分の筆名の由来や、本名を使うことの意味が語られました。
私としては一番考え方が似ていると思えたのは水無田気流さん、名前というものにそれほど頓着はなく、
一作ごとに名前を変えてもいいくらいだという気持ちには個人的に非常に共感が持てました。
これは女性男性という事より、私と水無田さんが年齢的に近く、生まれ育った県も同じということが、
寧ろ関係しているように思います。
面白いのは、極限まで凡庸な名前にするか、一風変わった名前にするかという選択をするとき、
水無田さんは後者を取り、私は前者をとったということです。
水無田気流と小川三郎とではまったく正反対のイメージがもたれるであろう名前ですが、
その発生源は意外と似ていたように思います。
トークのあとは、出演者による詩の朗読。
杉本真維子さんは何故かチャイナドレスに身を包んでの朗読。
中右史子さんは詩を暗記しての朗読で、まるでその場で詩の言葉が生まれているようであり、
これは大変なことですが、朗読のひとつの理想の形だと思います。
渡辺めぐみさんはスパイラルという作品群の中からの朗読で、流石に場数を踏んでいる印象、
堂々と自分の世界を展開されました。
水無田気流さんは、朗読経験が少ないということでしたが、読み方に熟考した工夫が見られ、
なかなかに聴かせるものでした。
斎藤恵子さんは、今回の出演者の中では最も質素な読み方をされましたが、
斎藤さんの作風にはこのような読み方が一番あっており、言葉の意味が損失なく伝わってきました。
海埜今日子さんは、音楽を流しての朗読で、これも経験豊富なことを感じさせる、流麗なものでした。
ざざざっと書きましたが、この日の内容はかなり濃いものでした。
「女性詩人」というくくりは現在では殆ど意味のないものだと思いますが、
こうして女性の書き手たちの話や朗読を聞いていると、
やはり「ならでは」のものも存在することを改めて感じたりもしました。
生活も、対峙する社会の形も似通ってきている現在、さらに原初的な男女それぞれの特性が、
詩の言葉に匂い始めているのかもしれません。