Feb 06, 2007
地下室への誘惑
おひさ。昨日は新宿のNECO BARで行われたエッジイベント、
「地下室への誘惑~女声詩の交響日」を見に行ってきました。
出演者は海埜今日子さん、斎藤恵子さん、杉本真維子さん、中右史子さん、水無田気流さん、
渡辺めぐみさんといった、今を代表する女性詩人六名。
そして司会は久谷雉さん。
会場は50名の定員のところ、60名を越すお客さんが入り、かなりの熱気。
私も備え付けの椅子には座れず、その後ろに丸椅子を持ち出しての鑑賞となりました。
会の始めにまず出演者全員による、新川和江さんの「私を束ねないで」の朗読がありました。
この詩が書かれたときと現在とでは、女性の置かれている状況は大きく異なっており、
また相変わらずな部分もあるとも思います。
しかし拡散し混沌とした現在の全体像を掴むために、
この一遍の詩の持つ意味をまず踏まえることは重要かもしれません。
続いて過去に放送されたエッジドキュメンタリーから、
白石かずこ編と平田俊子編が店内のモニターにて上映されました。
白石さんの方は、過去の名作「中国のユリシーズ」を「今日のユリシーズ」と新たに改作し、
巻物にしたため、冬の雪が舞う日本海に向かって朗読される姿が、いろんな意味で圧倒的でした。
50年代、ニューヨークなどで活躍されていた頃の写真も多く映し出され、その美しさや、
常にそこに「在る」ことにより生きる力強さにもまた圧倒されました。
…そして実は私の隣の席には、かなり素敵なお召し物のご婦人が座られていたのですが、
ちらりとお顔を拝見したところ、画面に映っている方と同じ顔のような気が。
白石かずこさんご本人でした…。
平田俊子編のほうは、人が苦手な平田さんが、夜中の二時に町を徘徊しながら詩の言葉を拾っていく
姿が映し出され、詩人の言葉が生まれる場所を思わされました。
人と会うのが苦手で、一週間も人と話さないことがあるという平田さんですが、
誰かに誘われれば断らず出かけていくあたりなど見ると、実は人との繋がりを強く欲しているらしく、
しかしなかなかそこでもうまく人と接することが出来ずにつらい思いをするそうで、
それが詩を書いて発表するいう行為をさせるのではと感じられました。
上映後は、6人の女性詩人によるトークショー。
ここでは、それぞれが詩をかく「場所」、そして「名前」について語られました。
まず「場所」について。
海埜さんは、全く違うふたつのものが出会う時に生まれるのが詩であり、常にその場所で詩作していきたいということを語られました。
斎藤恵子さんは、日常生活を送る自分がいて、しかしそれとは別にその根底にある水とか樹木のような自分がいて、そこが詩を書く場所と語られました。
水無田さんは、大量生産される部品のようにその他大勢として生まれ育ち、そういったアイデンティティがあやふやな状態の中で詩を書くことを語られました。
渡辺めぐみさんは、自分の書くものは殆どがフィクションであり、実際の自分が置かれている場所を寧ろ意識から外した場所で詩を書いていると語られました。
中右史子さんは、ご自身の幼い頃の経験やトラウマが強く詩作に影響していることを語られました。
名前についてもそれぞれ出演者から、自分の筆名の由来や、本名を使うことの意味が語られました。
私としては一番考え方が似ていると思えたのは水無田気流さん、名前というものにそれほど頓着はなく、
一作ごとに名前を変えてもいいくらいだという気持ちには個人的に非常に共感が持てました。
これは女性男性という事より、私と水無田さんが年齢的に近く、生まれ育った県も同じということが、
寧ろ関係しているように思います。
面白いのは、極限まで凡庸な名前にするか、一風変わった名前にするかという選択をするとき、
水無田さんは後者を取り、私は前者をとったということです。
水無田気流と小川三郎とではまったく正反対のイメージがもたれるであろう名前ですが、
その発生源は意外と似ていたように思います。
トークのあとは、出演者による詩の朗読。
杉本真維子さんは何故かチャイナドレスに身を包んでの朗読。
中右史子さんは詩を暗記しての朗読で、まるでその場で詩の言葉が生まれているようであり、
これは大変なことですが、朗読のひとつの理想の形だと思います。
渡辺めぐみさんはスパイラルという作品群の中からの朗読で、流石に場数を踏んでいる印象、
堂々と自分の世界を展開されました。
水無田気流さんは、朗読経験が少ないということでしたが、読み方に熟考した工夫が見られ、
なかなかに聴かせるものでした。
斎藤恵子さんは、今回の出演者の中では最も質素な読み方をされましたが、
斎藤さんの作風にはこのような読み方が一番あっており、言葉の意味が損失なく伝わってきました。
海埜今日子さんは、音楽を流しての朗読で、これも経験豊富なことを感じさせる、流麗なものでした。
ざざざっと書きましたが、この日の内容はかなり濃いものでした。
「女性詩人」というくくりは現在では殆ど意味のないものだと思いますが、
こうして女性の書き手たちの話や朗読を聞いていると、
やはり「ならでは」のものも存在することを改めて感じたりもしました。
生活も、対峙する社会の形も似通ってきている現在、さらに原初的な男女それぞれの特性が、
詩の言葉に匂い始めているのかもしれません。
Edit this entry...
wikieditish message: Ready to edit this entry.
A quick preview will be rendered here when you click "Preview" button.