Dec 02, 2006
12月
になっちゃいましたねー。今年も早かった…。
以前、クラシックのピアノ曲などを聴きはじめた頃、
元々好きな曲だったり、印象的なメロディーを持った曲だと割と楽しんで聴けるのですが、
ちょっと難解な曲や渋めの曲を聴くと、やはりちょっと退屈してしまいました。
演奏者についても、どぎついぐらいの個性を持っている人はいいのですが、
渋めの魅力を持った演奏者などだと、違いがよくわからず、音が耳を素通りしてしまって、
せっかくCDを買っても一回しか聴かなかったりでした。
しかし、誰の演奏を聴いているときだか忘れましたが、
あるときふと、これは音楽として受け入れるよりも、
一種の言語として受け取った方がいいのではと思い、
これは「ピアノでしか喋ることが出来ない人が発する言葉」だと想像して聴いてみると、
言葉で説明することは出来ないまでも、作曲者や演奏者が何を思っているのかが、
強くこちらに伝わってくるような気がしました。
途端にピアノの曲を聴くのが面白くなり、
いままで一回聴いたっ切りでしまいこんでいたCDを引っ張り出して聴いてみると、
なんでもないと思っていた演奏が驚くほど面白く聴こえてきて、また同じ曲でも演奏者によって、
大きく話し方が違うのがわかり、以来そんな風にしてピアノ曲を聴いています。
読んでもよくわからない詩に行き当たった時、私は上記のことを応用して、
これは文学ではなく、「こうしか喋ることのできない人が発する言葉」だと思って読みます。
すると、それまでさっぱり意味の通らなかった言葉が、すっとこちらの胸に馴染んで来たりします。
とてもわかりゃしないと数秒前まで思っていた詩句から突然意味が浮き出てくる瞬間というのは、
なかなかクセになります。
どうも私はいつのまにか、先入観という壁を自分で作ってしまっていたようでした。
ピアノ曲とはこういう風なもの、詩とはこういう風なもの、といった先入観をもってしまうと、
その領域からはみ出したものは、頭が激しく拒否反応を起こして受け付けなくなってしまいます。
しかし考えてみると、私の勝手な先入観が作り出していた領域とは、
呆れるほど狭いところであったようで、
取り去ってみると実に広々としてスリリングな景色がみえてきました。
大胆に言ってしまえば「音楽」や「詩」と言った括りでさえ、先入観に過ぎないのかもしれません。
私たちは主に共通の言語でコミュニケーションをとり、必要最低限の事はそれで済むのでしょうが、
それだけでは伝えられないことも数多くあります。
そういったことを伝えたいと欲するとき、
ひとは現在音楽なり詩なりと一般的に括られているような特殊な言語を使って、
より深いコミュニケーションを図ろうとするのでしょう。
すると芸術というのは、多言語の世界のようです。
映像や彫刻や絵画などの表現方法は、それぞれ固有の言語であって、
更にひとつの言語の中でも、個人によってかなり話し方が違ってきます。
しかしそれを聞き取るのは比較的楽でも、自分から話せるようになるのは難しい。
ひとつの言語を話すことを習得するには、一部の天才を除けば、一生かかるぐらいなので、
殆どの人が、ひとつの言語を話せるようになるのがせいぜいでしょう。
詩と彫刻をやる、と言う人も中にはいますが、一種のバイリンガルと言えるかもしれません。
複数の言語を合わせてひとつの言語にする例もあり、
映像というものが現われてからは、特にその傾向が強いようです。
音楽と映像という二つの言語は、抜群に相性がいいですし、詩と絵画にもその傾向があるようです。
建築はそれ自体ひとつの言語でありながら、その外部や内部に無数の言語を取り込むことが出来ます。
また言語の中には、非常に似た言語もあるようです。
詩と写真なんて、結構言語的には似ている気がするのですが、どうでしょう。
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