Aug 28, 2007

宗教・神話・詩論

寺田操・高堂敏治著『酒食つれづれ』詩話  ――解酲子飲食番外

 酒食のことを書いてはおられるが、この本の著者であるお二方は本来詩人であるので、酒食エッセイとはいえ、詩のことを経糸(たていと)にして感想を述べてゆきたい。事実詩は、本文中にしきりと顔を覗かせているのである。
 この本の本篇をなす「酒食つれづれ」は歳時記仕立てになっているので、冒頭をかざるのは当然、おせちや雑煮といった正月料理である。いっぱしの酒徒を気取るようになってからは別だが、子どもの時代、私の目に正月の食卓はそれはそれはすばらしいものに映った。今に比べ、もとより大層なものが並んでいたわけでは決してないはずである。にもかかわらず「正月にはお年玉をもらい、雑煮を食べたり双六やカルタで遊ぶのが、なによりの楽しみであった」(高堂)、「餅つきは、餅つき屋の指導で我家の庭で行われた。(略)大人も子どもも総出で餅をまるめるので、大小さまざまな形になる。自分でまるめた餅でお正月の雑煮を食べるのは、子どもごころにも楽しかった思い出だ」(寺田)といった特別な心持ちは、料理の味までも本質的に変えさせた。と、こう言葉で書けばこれっきりだが、そこには「「happiness」は「happen」という言葉に語源的なつながりがあります。突然、思いも掛けなかったような形で、神のおぼしめしが与えられた、という意味がこめられています」(中沢新一)という状態に似た、常ならぬ光明にみちたものがあったのだ。ただし、私の場合、酒は極端なからくちに傾きがちなので、おせちのあの甘い味付けや雑煮の主食っぽさを厭った時期が長かった。今はまた別だ。
 鰤のことを言えば北陸出身の高堂さんの前で、可成りに忸怩たるものがあるのだが、関東で、私の子どもの頃などには大ごちそうであった、照り焼きやハマチの刺身で知っていた鰤の、その常識を打ち砕いたのが、金沢で出会った鰤である。重厚で、はなやかで、それでいてどこか幽かに泥臭く力強い味わいは、金沢の他の料理や菓子、文化・芸事、宝飾にも通うものがある。ところで寺田さんが京都の冬の風物詩として紹介されている「塩ぶりの焼いたん」は、金沢の鰤に比べて一見雑駁で荒っぽいように思えるが、じつはおそろしく洗練されたものがありはしないか。ちなみにここで「ぶりは、東京では、わかし→つばす→さわらなどと呼び名を変えて」とあるが、「さわら」は「わらさ」の誤植であろう。
 「湯豆腐のまだ煮えてこぬはなしかな 久保田万太郎」という句を挙げて、湯豆腐のはなしをするのは寺田さんである。久保田万太郎の、豆腐というよりは湯豆腐・熱燗好きはきわだっていて、湯豆腐の句は五句、熱燗に至っては生涯にじつに十四句をかぞえる。万太郎はどうも甘辛両刀遣いだったみたいで、焼芋なんかも六句ばかり詠んでいる。それはともあれ、問題は湯豆腐である。万太郎句に「湯豆腐に一も二もなく承知かな」とあるように、酒飲みならば、冬に湯豆腐とくれば、どんなにうるさいやつでも大抵は黙らせることができる。それで、昭和三十八年の死の最晩年の吟に「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」とあるごとく、傘雨万太郎七十四翁、辞世のさいごまで湯豆腐なのである。じっさい自分が湯豆腐で飲んでいて、そんなような心持ちになることが、ときたま、ふっとは、まあ、ある。ところで「まだ煮えてこぬ」の句は、芭蕉の、これも晩年の「もののふの大根からき(にがき)はなしかな」をかすめたような気がするのだが、どうであろうか。
 高堂さんは摘み草について、こんな思い出を書く。「農作業の忙しいこの時期、蕨採りは子どもの仕事。山遊びが好きな私は、独り奥山に入り、陽が落ちるまで、蕨採りにあけくれた。両親はいちども捜索願を出したことはない。牧歌的なよき時代であった」と。たとえば子どものものであるわらべ唄や遊びの形のなかに、非常な文化の古層がしまわれている例はしばしば指摘される。春の摘み草などもこの例に漏れず、かつては子どものほかに女性たちが、さらにその昔には男たちも、野に出(いで)て摘み草をした。野遊び、というやつである。手近なところでは、百人一首にある「君がため春の野に出て若菜摘む」の和歌とか、万葉集劈頭の「こもよ みこ持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます児」とかの歌謡に顕著だ。それはたんに、邪気をはらうヨモギなどの聖草を摘みにゆく、という以上に、「遊び」が神事の義をも具しているごとく、里から離れた山野に隠れてちょっとした潔斎状態に入ることを意味している。高堂少年も奥山に分け入るとき、少し酔ったような状態に没入していたのではなかろうか。「牧歌的な」とは言うけれど、往昔しばしば子どもが神隠しに遭ったその事由も、なんとなく偲ばれる。
 寺田さんはあんまりお好きではないみたいだけれど、高堂さんはイカナゴの味に季節を感じられるようである。尤も、イカナゴの便りに春を感じるのは、阪神地区にお住まいらしい寺田さんも同様であるようだ。こういう感覚は関東人にはあまりなじみがない。イカナゴはカマスゴともいうが、お二人が住されるあたりの季節感なら『猿蓑』歌仙の次の運びに、その本情は十全に発揮されていると想像する。

乗出して肱(かひな)に余る春の駒       去来
摩耶が高根に雲のかゝれる       野水
ゆふめしにかますご喰へば風薫(かをる)    凡兆
蛭の口処(くちど)をかきて気味よき      芭蕉

 詩の言葉の力というのは顕著なもので、これらの句の運びによって、東京の居酒屋などで、いくら春のものだからといって釘煮などを出されても、京阪人が感じるようなこっくりとしたイカナゴのあじわいから開闢してゆく雄大な眺望というのは、ここには全く存在していないものなのだな、ということが納得される。
 さて、初鰹である。高堂さんは「なんといっても」たたきだと言い、寺田さんは刺身のほうに軍配を上げる。私はといえば、脂の強い十月頃の戻り鰹はたたきにし、まだ脂のない清新な、とも形容できる初鰹は、「なんといっても」刺身にとどめをさす。女房を質に入れても、と言われる江戸の初鰹は、現在の物価に換算して、低く見積もっても一本十万円くらい、高いところでは二、三十万ほどしたらしい。川柳に「寒いときおまえ鰹が着られるか」というのがあるが、今の季節には必要がないからといって、女房とは言わないが、袷や綿入れなどのありったけを質屋に入れ、初鰹の料にする、ために発生するせまい家でのこんなやりとりがリアルに偲ばれる。鰹は江戸のそのかみは芥子酢で、そして刺身で食したらしいが、同じころ、上方で初鰹にこんなに血道を上げたことを聞かない。鰹のもっとも繊細な味の区別は刺身でわかるのだが、この四、五年、鰹の味がいちじるしく落ちてきている気がする。どんな新鮮なものでも、血と脂のにおいが鼻につくのだ。海で何か起きているのではないだろうか。
 ところで、酒や蕎麦やまたその両方が苦手な向きには永遠のアポリアである酒と蕎麦の相性については、つまるところ蕎麦好きの酒飲みのなかに、うるさく講釈を垂れるやつがいるからいけないのだ。本来蕎麦に酒を合わせるのは江戸の嗜好で、合わせる蕎麦は蕎麦切り、つまり麺の状態になった蕎麦である。なぜか酒が冷やなのはファストフードとしての蕎麦っ喰いの名残だろう。すなわち気ぜわしない江戸っ子が燗がつくのを待ちきれずに冷や酒を啖い、胃袋がきゅーっとなったところで蕎麦切りをたぐって、飯台に銭を叩きつけて屋台や店から出ていったのだ。これが原型で、焼き海苔だの蒲鉾だのやきとりだのは、後生になってからの付けたりにすぎない。寺田さんが岐阜で出遭ったという災難は、蕎麦掻きに酒という取り合わせに尽きると私は考える。蕎麦掻きに酒なんて、すいとんでからくちをやるみたいなもので、寺田さんでなくとも胸焼けするようだ。もともと蕎麦と酒は連句における付合・寄合のようなものといえる。付合・寄合とは、弁慶といえば薙刀、赤穂といえば仇討ちのたぐいのことである。そこには必ずしも有機的・内在的な連関が無くてもよい。昔読んだ立原正秋の小説の中に、鎌倉の僧坊にいる僧が、友人の作家に蕎麦を打ったのでおいでくださいと招く場面があって、それなら酒を酌みましょうと、作家がスコッチを一本提げてゆく、というくだりがある。蕎麦には酒、気は心で、酒でさえあるならば清酒でなくともスコッチで一向かまわない。私はそこに、形のないイデーにまで高められた蕎麦による簡素な宴、純粋飲食(おんじき)、とでもいえるような、立原の美学を感じるのだ。当然、蕎麦はたぐって啜る蕎麦切りであろう。
 さて、酒と言えば、寺田さんは1516年のヴィルヘルム4世によるビール純粋令に触れられているが、このような法令を下さなくてはならないほど、ドイツの酒は混ぜものが多い、という例をもうひとつ。こんな小話を聞いたことがある。ある有名なモーゼルワインの大醸造家は、製法に工夫を凝らしてこんにちの地位を築いたが、寄る年波には勝てず、病の床に伏した。いよいよ臨終となって、彼はすべての人を遠ざけ、跡取りの息子だけを呼び寄せてこう言った。「お前にだけは言い残しておきたいことがある。いいか、せがれ、うちのワインには秘密がある。それは、うちのワインの中にはブドウも入っとるということだ!」
 「金色のウィスキー」の高堂さんの文章を読んで、なんと無茶をするものかと思った。「冷蔵庫でキンキンに冷やし、ストレートで飲む」なんていうことは、いくら胃が丈夫でも、少し続ければその結果はおおむね想像できる。もっとも、さらに胃が丈夫であったら、倒れるくらいではすまない事態に立ち至ったはずである。同じ見開きに寺田さんが書いている田村隆一先達がそうだったので、長寿に属するとはいえ先達を襲ったのは、生(き)の強い蒸留酒を愛好する人をしばしば蝕む、食道や咽頭に出来る悪性腫瘍だった。「きみが眼ざめるとき/どんな夢を見る?/青いライオンに追いかけられて/地の果てまで?/それとも死んだ男と抱きあって/金色のウイスキーを飲みながら漂流する?」(「飛ぶ」)。寺田さんが引いた田村先達のこの詩句、若い頃は気づかなかったが、どうもヘミングウェイの『老人と海』における最後の一行のイメージと重なるようだ。「老人はライオンの夢を見ていた」(The old man was dreaming about the lions)。この精神的なマッチョ、ダンディズムは時として夢見るようなまなざしでうつくしい幻影を追うことがある。1976年刊の『詩人のノート』には、上記の詩を引いたあと、大阪のイヴェントで飲みに飲み、大阪のアメリカ文化センターはじまって以来の「最高のエンタテインメントを演じた」翌朝、東京(鎌倉?)へ帰る新幹線の車中でのことを次のように書く。これは「ライオンの夢」の続きといえるだろう。「食堂で、金色のウイスキーをのみつづけ、小田原をすぎたので、席にもどったが、いつのまにか眠ってしまって、二十七、八歳の女性の、しみとおるような優しい声、「着きましたよ、着きましたよ」。やっと目をあけたときは、その女性のうしろ姿、ドレスの色しか見えなかった……青いライオン。」
 高堂さんは「濁り酒」の項で藤村の詩を引く。「濁り酒濁れる飲みて/草枕しばし慰む」(「千曲川旅情の歌」)。久々に近代詩を目にした気がするが、案外佳いものだと思うがいかが。衰退しきった現在の詩に比して、藤村のような悶々とした文弱でさえ、張りもつやもあるのがことさら印象深く感じられる。当時は文弱でさえ、濁り酒を飲む姿がさまになっていた。飲酒は本来雅(が)に属する事柄なのだ。詩ではないが、俳句の、それも投稿俳壇で目にとまった句がある。作者の名前ももう覚えてはいないが。

 濁り酒出世頭も鬼籍入る

 濁り酒の詩語としての本情を尽くして余すところがない。専門俳人の「味噌可なり菜漬妙なり濁り酒 四方太」などもこれに遠く及ばない。私が購読しているのは朝日だが、投稿欄には時折こんなことがあって、次の句にもひそかに唸らされた。

 満月を見て春窮のさなかなり

 こちらに覚悟を迫ってくるような句ぶりといえようか。春窮とは、たくわえていた冬の食糧が底をつき、しかもまだ春の収穫が期待できないときのことをいう季語。しかしこの満月に作者は、なんと曇りなく鮮明に対峙していることだろう。月のかがやきを食べて人間を回顧しているかのようだ。
 ここにも純粋飲食はあり、濁り酒でもビールでも安ウイスキーでも焼酎でも、高堂さんのふるさとの、立山、銀盤でも、なんでもいい、月明の下で悉皆平等である。そこにはなんだか、鬼籍に入っているやつも、生きているやつも、入り交じり、ざわついて立ったり座ったり、赤いギンガムチェックのシャツの、長身の、老いた、詩を書くよっぱらいが、顔をしかめながら猥談を隣の娘にささやいて、かんなぎ髪の女将に叱りとばされ、神隠しに遭って人生の中に消え去った少年や少女、雪女もいて、夏の木陰、蕨やよもぎ、冷たいグラスやゼリーの彩りの瓶がきらきらと光る宴会の大テーブルの端っこで、だれかが「しっ静かに」と言ったあと、風のような音楽が始まる……金のライオン。

         
(『酒食つれづれ』白地社刊、2007年7月、1300円+税)
「索通信」1(2007・8・15)所収     
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