Jul 20, 2007

宗教・神話・詩論

「歩行に関する仮説的なノート」(1972年刊)より


第三のノート(自註)



   a
    
〈テーゼ〉はそれがどのようなものであろうと出された瞬間に相対化される。このことはあらゆる人間活動のある本来的な規定である。いかなる内容であれ、それ自体としてのテーゼの方向は、ひとつの〈効力〉の枠に集中するが、それを有効化せしめるためにはおおかれすくなかれ、〈信憑〉ということが不可欠な要素となる。ちょうど〈世界〉を信憑するごとくに、である。

 もし虚偽を避けたいのなら、眼は出されたテーゼの内容にむかわず、テーゼが提出されるそのしかたを遡行してゆけばよい。しかし、この眼のなりゆきに忠実であるならば、かかる遡行、逆行はおそらく無限になされなければならないだろう。あたかも、〈世界〉を追跡するように、である。

 このようにするとき、僕はことごとく〈場処〉というものを失うだろう。〈場処〉とは判断によってあたえられるものだ。ところで〈世界〉を無限に遡行する、ということもひとつの判断によってあたえられたある〈場処〉だとすれば、判断-場処を拒んで〈世界〉を追跡するものにとって、それはあきらかに自己撞着である。

 ここに、〈ひとが思考する〉という行為より発するある究極的な不合理性ともいうべきもの、ひるがえって言えば、ひとつの有機性、もっとも厳密な意味における〈倫理〉のようなものがあらわれているのだとおもわれる。

       b
 
  〈方法〉がつくられるためには、具象的な現実はあたうかぎりしりぞけられ、持ちうる能力それ自体が最大限に動員されなくてはならない。

 僕が非常な努力をかたむけてつくろうとしていたのは、単なる方法論ではなく、それによって、僕の思考、意識、感情、生理等が統御され、ある一点へと束ねられてゆくべきより有機的な方法そのものであった……。

 僕にとって……方法とはかんがえられるものではなく、行なわれるものだ。そこで、僕は恢復する。

 みずからを再構成したいという欲望。なぜひとつの思考は、実証され、展開されなくてはならないのか。世界は他のなにものにも依ることなく、ただみずからの脳髄の重さだけで倒れなくてはならない。

 方法はみずからを語らないはずである。なぜならそれはひとつの悪無限であるから。そこに〈行なう〉ということの持つ、沈黙の不思議な肉感性が存する。

 そしてどうしても還元することのできぬものが残ったとき、それなりの遣り方で自分か時代かにかえしてやれば良い。

 意識性は、厳密であろうと欲すれば欲するほど対象のうちに微細に分岐してゆき、凍てついてゆく過程をたどる。それにたいして方法性は、意識にある盲目性を強いることで、あの〈親密さ〉という運動の感覚を喚ぶ。

 方法とは一種の意識の、あるいは思考する、ということの、もっとも原基的な能力の場である。意識はそれだけではいかなる〈面〉も持たず、したがって自動する構造も持たない。

 方法を逆向きにたどることによって、僕のひとつのあるきわめて〈質的な〉由来といったものがあらわにされるはずである。

 方法それ自体はいかなるものも絶対に対象に加えたりはしない。すなわち方法それ自体は、いっさいの〈結果〉をおもわない。したがってどのような〈結果〉もおそれない。

〈結果〉をおもうのは〈ひと〉であって方法ではない。ここにおこる一種の切断を注視せよ。このまぶしさは〈ひと〉あるいは方法の、述語の息の根を止めてしまうような背理性にほかならぬ。

 方法は時間のなかを遍歴しながら、突如、みずからがひとつの空間のうちに顕わになっているのをかんじるだろう。

      c

 しばしば、ある絶対性をおびたニュアンスをもってかたられる〈体験〉は、それがどのようなものであろうとも、ひとしく、単彩の〈現実〉へおしかえされるべきである。
  
〈根拠〉はそれがある目的をもって言われたちょうどその瞬間にすでに〈根拠〉ではなくなる。僕が言いうることは、ただ触れてはならぬその一点もまた〈根拠〉いがいのものの命ずるままに、ひらきつくすことに依ってかくしぬけ、ということだけだ。

   どのような意味でも体験はたんに体験でしかない。それがそれ以上のものとなる、そのさきはもはやそれは体験とはかかわりがない。あらゆる言葉はかかる場においてためされるべきだ。どんなことをしてこようと、それゆえ、僕はいつでも〈ここ〉からはじめることができなくてはならぬ。

 ひとつのものを、そのもっとも純粋なかたちで把えるためには、そこから〈時間〉を追放しさえすれば良い。すると、把握とは、その〈現在〉で所有するということにほかならない。

 それがどのように否定のいろにそめられていようとも、あるものを〈美〉とかんずるかぎりは、ある〈了承〉をその感受の根底に敷いているといわなくてはならない。

〈了承〉という鍵がはずされると、〈美〉はある種の展性をあたえられる。あたえられるや否や、それはたんに〈美〉とは呼びえなくなるような地点にいたるまで、おのれを展開させて止まないだろう。かくして僕は〈美〉よりその全権をゆずりうけ、その対象が美であるにせよ、ないにせよ、なにごとか行為せねばならない。

 美とは、ひとつの状態のほかのものではないのであって、おそらく固有名詞の〈美〉といったものは存在せず、あるのはただ、〈昂揚〉ということばであらわされる、精神のある種の形姿のみである。

 理性も感性も信じないこと。だが理性や感性が存在するとして。僕の不信はそのように区別することにではなく、区別したものに名称をあたえることにむけられている。

 感性を拒否することも、反理性をさけぶことも、ひとしく、かならずしも迷妄とばかりは言いきれぬ、ひとつの迷妄のふたつの貌にすぎない……。

 読書法……。
 はじめて見る、ということにはある〈奇怪さ〉がつきまとう。一冊の書物が、もし〈真正〉な著者の手に成るものであるのならば、ことごとくこれを奇怪な書とみてさしつかえない。それが〈偽物〉でないとすれば、その奇怪さは終始一貫したものであるだろう。巨大な思想はつねにある端初的なものをその核として保存しており、われわれにとって〈端初〉とはつねにある奇怪さをもってあらわれるものであるからだ。一種の〈置換〉ともいうべき操作をおこなうこと。論理学は詩のようにも読める。作家は本来的に孤りであるという究極的な視座をたえず設けておくこと。~主義、~運動といった名のもとに、あるいは多少なりともそのことに関連させて、一個の作家を判断せぬこと。

 内容の豊饒さよりも、〈場〉の堅固さにむかうこと。おそらく内容は無限にかさねてゆくことができるが、その堆積にある構造をあたえるのは、ただひとつの〈場〉である。

   d

     実証されることのない明証ともいうべきものがある。それは、いかなる意味をも包合したところで名指されるべき〈意識〉というものの総合における一種の発光であって、通常〈直観〉と呼ばれているところの現象である。この総合による発光と、個々の場面での反射とをきびしく弁別せねばならない。

 A≠A,-A……。だがこの定式への解答は案外、易しいことなのかもしれぬ。僕が為すべきことのいっさいの区分け-すなわち行なうか、行なわぬか。もっとも知ってはならぬものは自己自身である。

 ひとつの解釈にたいする他の解釈は、方法的な眼においてはひとつの〈発見〉となる。なぜならそこには、可能もしくは不可能という極度に〈個〉的な与件が、直接、介入しているから。

 ひとつの発見をひとつの解釈に堕さしめぬこと。可逆の関係に捉えられていたものが、不可逆のかがやきを発するまでに、あの、〈精神〉とよばれるものの運行を持続させなければならない。

 同質的なたんなる〈状態〉は、これに意識のひかりをあてることをせず、つねに〈忘れている〉べきだ。そうしなければ、意識と肉体とは刻々、異様な共喰いをはじめて僕のすべての〈動き〉すなわち精神の運動をしめあげていってしまうだろう。

 虚無は否定の極限としては存在しえない。それはむしろ肯定の極限として解されるべきものである。

 世界がなにものかでありつづけるかぎり、ついに〈純粋〉はひとつの否定の質としてしかあらわれることはないだろう。

 現実への密着は、通常それ自体としてそのようには意識化されない。したがって、かかる〈現実密着〉をそのものとして感覚するとすれば、それはかならず強烈な現実乖離の象となってくる。

   e

 ひとつのものを注視すると、それは、ほんらいのそれとは全く別のものになってしまう。

 ひとつの思考を、ひとつの比喩をもって表現するのは、厳密に云えば虚偽である。

 ひとの思想に依って思考せぬ、ということは、みずからの思考に依って発見ないしは獲得したものに、毛の筋ほどにも〈普遍〉の感覚をゆるさないことである。

 いかなる言葉も無益に通用してしまう。ほんとうに通じにくい言葉は、しかしどこかにあるはずだ。

 ものを区別する、とはもっとも基本的な把握-理解の遣り方であるが、それは〈ひと〉がする、〈世界〉への最小限度の妥協をも意味している。

 区別されえぬものはしかしかならず消滅する。すなわち、区別される。

(言われたものにはあたかも臓腑のような構造を負わせ、それを言う僕そのものをはるかに外延化してしまえ。)
 現実はもっとも遠いところから〈私〉を直撃する。そんなとき〈私〉もしくは現実は、ひとつの巨きな夢となる。

 そして僕のうちで、なんとあの〈他者〉がおもわれていることだろう。
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