Sep 23, 2008

評伝

大木重雄誄


 そのじっさいの謦咳についに接することがなかった。私がいつかそっちのほうへ行く仕儀となっても、芭蕉の書簡によくあるように「猶追而貴面」(手紙の書面ではなく、実際にお会いしてお話しします)というわけにもまいらぬだろう。けれど、私が現実にお会いした誰よりも、大木さんとは密実な手紙や葉書のやりとりがあった。大木さんと袖振り合うほどのご縁の方の誰しもが、びっしりと白紙や桝目を埋めたあの懐かしい細かいペン文字を思い浮かべるのではなかろうか。紛失したものも多く、そのことが今ではこころの生傷のように痛むのだが、遺された手紙葉書がいま私の横のここに積まれてあるのを見ても、つくづくと思う。ここに大木さんは居て、現在でも私に、ここから放出される未来のことまで語り尽くして倦んじない、と。それはビデオやコピーのたぐいではない。一枚一枚が取り替えの利かない、大木重雄という深い一回性の現前にほかならないのだ。
 大木さんは生前、あまり作品集というものを出すことにこだわらなかった。業績としてジョン・P・オニール著『メトロポリタン美術館の猫たち』(誠文堂新光社、昭和五十八年)という翻訳書が一冊あるというのが、ダニエル社から二冊の詩集を出す以前の公式の記録といえる。大木さんのものされた評伝『回想の牧章造』(坂井信夫氏個人誌「索」に十五回連載)によれば、大木さんは戦後すぐから詩や小説を書き、発表してきたが、その総数は私としては知るべくもない。それらが輿論においていかなる評価を受けたかも、個々についての詳細を、大木さんはその細かい文字による消息の一片だに残すことなく持って行ってしまわれた。繰り返すようだが、私の手元に残されたのは、詩集『山谷堀寸描』(平成十九年二月、ダニエル社)、第二詩集『愛にひきあげられて』(平成二十年六月、ダニエル社)、それから私宛の大量の手紙、葉書類のみである。此によってこれにより、大木さんの人となりと生涯を、その一端なりとも想い起してみたい。
 大木重雄さんは、昭和三年、東京・浅草に生まれた。ご尊父は歌舞伎界の道具方の重鎮であったことが、葬儀の日の弔辞により明らかにされたが、たぶんよちよち歩きの時分から歌舞伎座の観客席はもちろん、楽屋や奈落まで出入りされていたのではないだろうか。学齢時代は山谷堀尋常小学校から京華商業、それから年譜的には明治学院に進まれて戦後を迎えた。この間に、昭和二十年三月十日の下町を襲った東京大空襲に遭遇し、九死に一生を得ている。このことは、私思うに大木重雄氏の一生涯をほとんど被うほどの翳となってその身に寄り添っていたのではないだろうか。卒業後、生計のために汐留の日通でアルバイトなどするうちに、詩人の牧章造と出会い、親交を深めるきっかけとなる。のち、やや転身して立正中学・高校に奉職し、立正大学で英文学など講じるに至る(筆者宛書簡より)。戦後、結婚した百合子夫人と一男をなし、平成十八年、夫人を亡くされる。「それは私の死も同然だ」(『愛にひきあげられて』あとがきより)。
 私とは、たぶん平成十五年ころから個人的に親しくさせていただいた。きっかけは拙詩集をお送りし、それへの評が好意的以上のものに感じられ、個々発表した拙作についても丁寧だったり辛辣だったり、ときに過褒とも思われる言葉をいただいて、ついに十冊ほどある、あまり評判も取らずにわが家の押入で眠っていた詩集をふくめ、愚作のすべてをお送りする仕儀にまで立ち至った。大木さんの言葉はつねにわが詩作の励みであり、その見識と直感の鋭さにおいて、豚を木に登らすにじゅうぶんな力を持っていた。
 詩のことに関してはさておき、私がお送りした文庫本サイズの飲み食いの話『解酲子飲食』(かいていしおんじき)は大木さんをことのほか喜ばせたようだ。あのなかで「銀座の魚屋」と書いたのを大木さんは見咎めて、はて銀座のしかも木挽町あたりに魚屋などあったか知らんとおっしゃるので、「歌舞伎座裏の魚石です」と答えたら、《お礼申し上げなければならないのは私のほうです。木挽町界隈はわりあい知っているつもりでしたが、知らないことが多多あると分かり自戒しております》と書いて寄越されたが(平成十五年十二月四日付葉書)、今から考えると誰を相手にものを言っていたのか、私もめくら蛇に怖じずで、随分恐ろしいやりとりをしたものである。冷汗一斗とはこのことだ。
 私の前便で江戸料理の泥鰌や田螺のことを話題にしたところ、上記の返信でこんなことを書いておられたのが、いかにも大木さんらしい。《先日脚の故障をおして久久に歌舞伎座へ言ってまいりました。「お染の七役」の小悪党鬼門の喜兵衛と土手のお六の侘び住まいの場面で、喜兵衛がみずから求めてきたアテで、お六に酌をさせるところがあります。そのアテを喜兵衛がはっきり「たにしの煮つけ」と言っております。(中略)「たにしの煮つけ」というのは当時の庶民のもっとも安直なアテだったのでしょう。これは南北の闇の世界…。》(同前)。
 いったいに大木さんの飲食というのは、あるいは、飲食から見た世界観と言ってもいいが、ご自身がまさにそうであるように、骨の髄からの江戸人のそれにほかならない。清酒好き、魚好き、肉は得意でなく、歌舞伎の見巧者、見知らぬ町へ行ってその町の銭湯に入るのが好き、推理小説やクラシック音楽をいたく好み、フランス語に堪能、英語はご専門、だが、そういうことをひけらかすのは野暮天がすることとばかり、その種の話柄に出会うと「顔をしかめた」そうだ(佐野菊雄氏の弔辞による)。その東京の下町に寄せる思いは並々のものでない。いつか小さな詩の集まりの仲間で、忘年会をやったことがある。場所は深川は高橋(たかばし)の「山利喜」。そのときのことをおもしろ可笑しく書いた私の駄文がまた大木さんのお眼鏡に適ったようで、その尺牘をここに紹介しても差し支えあるまい。
 《「林」の忘年会「山利喜」とはやはりという感じ。発案者は当然倉田さんでしょうね。倉田さんの食物記を拝見すると、尻が落着かなくなります。と言って蟄居の身、お便りを食するしかありません。「目に毒」と言いますが、目のほうは年賀執筆中に襲われました。いつもなら数日でおさまるのですが、今回はなかなか旧に復しません。世はショーチュウ党一色で、すし屋でも「イイチコ」などが取置きで満杯のとき、皆様日本酒党のようで、わが意を得たりです。でも「山利喜」にナチュラルチーズやアンディーヴが登場するなんて、私の時代遅れもはなはだしいと言わねばなりません。何回も拝読しているうちに、発狂(?)にも似た妬ましさを覚え、すごすごとお便りを封におさめました。有難うの上に「お」をつけて鶴見までふわふわ飛んでいきたい、と言うことではありません。むしろ大変元気づけられました。奥様もかなりの酒豪のご様子、もし良いアテでもあればどうなるのでしょう。(息子も楽しそうだなと嘆じておりました)》(平成十七年十二月三十一日付葉書全文)
 「山利喜」をちゃんとご存じであった、というのは話の順序が逆で、むしろ私のほうが下町の人間なら誰でもが知っていたはずのこの店に、よくも巡り合ったものだという僥倖めいたことを思うべきなのかも知れない。これも、めくら蛇に怖じず、のたぐいであろう。そういえば上述の食物記で、「日本堤のけとばし屋に行った」と書いたら、おいおい君、という感じで、困りますね、私の縄張りにまで入ってきちゃあ、といったニュアンスのお便りをいただいて、このときもいたく恐縮した。「日本堤のけとばし屋」とは、桜鍋の「中江」である。こういった下町の店々を友人たちと飲み回って深更にいたり、気がつけば今までそばにいたはずの彼らみんなが幻のように消えていた、という氏の幻想小説の一端を拝読させてもらったことがあるが、これは死者となった若き日の友人たちへの愛惜であると同時に、「戦(いくさ)が緋のマントにくるんで持ち去った」「前世」の記憶(『山谷堀寸描』より)、その中にしか存在しない大木さんの東京下町というものへの秘められたる鍾愛といえるのだ。
 大木さんの下町好きはまたその歌舞伎好きにも通じる。詳しくはないのであまり大きなことは言えないのだが、さっき紹介した葉書の文面にも鶴屋南北が登場している。河竹黙阿弥もお好きのようであったが、これは私の好みと重なる。役者では断然菊五郎。ただし六世で、これをオン・タイム、生で見るのを得たことが大木さんの大きな財産のようであった。葉書の中で大木さんはこんなことを書いている。《「間」は「魔」で歌舞伎でも同じです。私が今も六代目菊五郎を尊敬してやまないのは「魚宗」のセリフの「間」に鳥肌が立ったのを忘れないからです。》(平成十七年八月二十日付葉書)。また、中村歌右衛門と坂東玉三郎のやりとりをこんな風に言う。《(妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)について)歌舞伎ではとても通しはのぞめませんね。精々「山の段」―「道行」―「館の段」ぐらいですが「山の段」が見ごたえがあります。それで思い出したのですが、六代歌右衛門が定高(さだか)を演じるとき、他の人とは違うところがあると聞いた玉三郎が、自分が演ずるとどこが違うか知らせてほしいと頼んだそうです。結局はちょっと小腰をかがめて顔をそむけるうれいの姿(後段の伏線)だったそうですが、玉三郎がどうやったかは覚えていません。いま歌舞伎座建て替えの話があるそうですが、あの辺をよくご存じの倉田さんはどうお感じでしょう。戦後やっと歌舞伎座の上演が許され、焼失した歌舞伎座でなく筋向かいの東劇で上演、私も行きましたが、出し物は「助六」、いくら名優の六代菊五郎でも揚巻はどうにも「アクタイのハツネ」も通りませんでした。》(平成十八年六月十七日付葉書)。「あの辺をよくご存じ」とは、私がかつてあのあたりにあった出版社で、フリーランスとして七年ばかり仕事をしていたことがあるのを指す。「木挽町の魚石」はそのときの話である。また、六世菊五郎の「アクタイのハツネ」とは何かが、今の私には判じようもないのが、隔靴掻痒のごときものであるのだけれども。
 大木さんの文学に関することと言えば、創作を別とすれば、大いにご自身に影響があったというか、その文学的体力に資するところがあったのは、やはり英語であり、それから独学でやって来られたというフランス語の文学であろう。あまり詳しくはおっしゃらなかったが、英語圏ではジョン・ダンを読んでいた一時期があるという。またフランス語ではボードレールの『悪の華』全巻を通読されたのが大きいと思う。大木さんは野暮な大声を出されない人なので、このほかにも泰西の大小詩人たちに関する知的な蓄積量に、目を瞠るものがあることはその片言隻語からじゅうぶんスパークしていた。そのスパークが分からない向きにはまた「顔をしかめ」たことだろう。
 音楽ではモーツァルトのどれそれ、シューベルトのどれそれといった、作曲家や作品そのものを評するというかランクづけするということはあまりなく、誰のどんな演奏がよかったかとか、演奏者の逸話や表情といったことに重きを置かれていたようだ。つまり作品がどうであるかというよりは、その現前たる演奏や演奏家がどうであるか、といったことに興味の中心がおありだったのではなかったか、と書けば、我田引水になろうか。この曲はこの演奏家に限る、という言い方もあまりされなかったように思う。
 詩以外では、小説は無類にお好きであったと感じる。海外文学だが、ドストエフスキーは全部お読みになったのではないだろうか。「近代文学」の作家としてだろうけれど、埴谷雄高の『闇の中の黒い馬』など、私に恵与くださった。埴谷は私は若いころ、一種の思想家として考えていたものだが。それから島尾敏雄の『贋学生』に話が及び(手紙でである)、あれを若いころ読んだことがあると書いて送ったら、あれまではなかなか島尾を読んだと言っても読んではいないのだ、とお褒めに与った。あの作品を石川淳が評して「駄作というより、世紀の悪作である」と言ったと教えてくださった。ついでに、島尾敏雄を大作家という人がいるが、じぶんは島尾が「大」のつく作家という気がしない、とも話されていた。
 その詩的履歴については、なんといっても『回想の牧章造』が第一資料として挙げられよう。これをなんとかして、パンフレテールな形ででもよいからまとめておき、流通させたいものと思う。金子光晴始め、じっさいに大木さんがその謦咳に接した詩人たちが走馬燈のように出現しては消えてゆく、そのまぢかの息遣いさえ聞こえてくる貴重でレアな記録である。また現在では失われてしまっている、幾時代かの雰囲気のようなものがそくそくと伝わってくる。ちなみに原爆詩で著名な大木淳夫は、大木さんの御縁者のようである。大木さんは決して原爆詩や空襲詩や思想詩などは書かれなかったが。
 最晩年、という言い方も私には口惜しいが、その晩節に夫人を亡くされたことが大きな痛手であろうことはみずからも仰られ、また容易に他からも推し量ることができようが、それを境としてそれまでにも傾向としては萌芽をのぞかせていた、一種の神秘思想に傾いてゆかれた形跡が窺われる。先にも言ったが、ジョン・ダンを読んでいた一時期があったということを告白されてもいる。夫人を亡くす一年前であるが、こんな葉書を寄越されている。《また今生を相対視しはするが、迷信には行きつかない(拙詩集『夕空』のあとがきによる)、の迷信とは「ある種の神秘主義」でしょうか。シュタイナーをかじった私には耳が痛いのですがおっしゃる通りでしょう。》(平成十七年八月二十日付葉書より)。そして、最後となった第二詩集『愛にひきあげられて』に顕著なキリスト教のしかも旧教の面影が濃厚な詩群、それは亡夫人との深い対話を為すものであるが、それに通じる葉書の一節をここに引いてみる。《私はもっと単純に考えます。人間(というより私自身)は一個の生物体に過ぎませんので他の生物と同じ道筋に従う。この自覚はかなり若い時期に訪れました。家族は子供の誕生を祝うが、子供自身は誕生しなかったことを祝われるべきではないかと。しかし、現在はすこし変わってフィルムを逆回転させ、幻の母の胎内におさまればよい終結だと。凡庸な「胎内願望」に過ぎませんがほんのすこしの「神秘」が加味されています。》(平成十九年三月十日付葉書より)。
 この女性性にかかわる「神秘」が、大木さんの晩節に訪れたと見てよいのではなかろうか。いっぽうで、大木さんにはこんな側面があるのだ。《……ここだけの話ですが(ビトウイン・ユー・アンド・ミー)、私が「女色に潔癖」などよくお判りになりましたね。正確に言えば「女性への恐怖心」とも言えるでしょうか。女性は現世に足がついていますが、私は二、三センチ宙に浮いて生きてきたようです。昔、ある文学の会合である女の子が、私を見つめて、私の詩を全行すらすらと暗唱したことがありました。その結果はご想像にまかせます。》(平成十七年五月二十六日付葉書より)。
 ここで言う「恐怖心」がどこからやってくるのか、にわかには判じがたいけれど、思うに、むしろ女性たちを強く引き寄せてしまう要素が、大木さんにはありていに言って可成りにおありだったのではなかったか。みずから仰るごとく、大木さんにはあまり、ではない、全くと言ってよいほど女色への嗜好、いいかえれば俗臭が感じられないのは事実だ。それが神秘的な氏の女性性とどうかかわっていたのか、精しくは大木さんご当人にあちらに行ってからゆっくり伺うにしても、その俗臭の無さの理由のひとつに、ご自身が過剰なまでに固く身を律することをされていたことが挙げられる。その潔癖さの根源をはるかに思えば、却って「色を好むが如くする」(『論語』)という言葉が思い浮かんでくるのは、一体どうしたわけか。むしろ女性性をめぐることがらは大木さんにこそ相応しい。若い吉本隆明がかつて太宰治と面談したさい、君その無精髭を剃りたまえと言われた、所謂「マザー・シップ」の伝説など思い合わされる。ご母堂や夫人に支えられて生きてこられた大木さんが、「女に愛されない男」であるわけがない。むしろ大木さんという少年的な存在が、女性性の篤い庇護を受けているという、聖画の構図のようなものさえ浮かんでくるようだ。
 ご夫人が逝かれたのが平成十八年、大木さんが逝かれたのが平成二十年。なんと短くて長い、遅い、遁走曲のひまであったろうか。大木さんの訃報を聞いた夜、大木さんは女性性という大いなる神秘へ還ってゆかれたのだと、つまらない句でもって一瞬のミサとした。

 水無月のやへがきとはに妻籠みに  解酲子
   
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Sep 13, 2008

宗教・神話・詩論

具体性の詩学ノート3 地名、詩、差別のことなど


 ある存在が具体的に存在するとは、どういうことなのだろうかと考えた場合、それはその存在が世界と繋がれてある、というのがひとつの答えとなってくるような気がする。人間に引き直してみれば、その人間の帰属先ということであるが、先の戦争のこともあってか、このことを公明に論議するのが避けられてきた嫌いがなくもなかったようだ。
 復古とか国粋とかの翳りなくして、この問題にあたうかぎりの精確さをもってあたってきたある部分が、たとえば柳田國男であり、たとえば折口信夫といった人びとと言える。彼らは、ある個性や集団のアイデンティティがまさに危機に瀕していた近代の始め、その個性や集団を支えていたアイデンティティそのものが奈辺にあり、どこに帰属していたのか、柳田はモーセのような指導性をもって、折口は鋭利な学匠詩人の内面で、深く掘り下げていったのだ。
 人が具体的に在る、と言うとき、もちろん米を食いパンを食して屋根のある場所で寝、畑へ行って芋を掘り、あるいは鎚をふるって鋤鍬を鍛えるのだが、それらのことが具体性なのではない。柳田や折口がさぐったのは、人びとはただ己の欲求したままにそれらを行為するのではなく、ひとつの理法とも言うべきものに則ってこれらを行い、理法もふくめたそのことに初めて具体性がある、という現実にまつわるsomethingなのだった。
 この理法のことを詩だと言ったら、性急に過ぎ、またおおかたの向きの顰蹙を買うだろうが、といって何か積極的な理由がなければ人は、たとえば食べ物に色々な料理法を加えることさえしないと思う。食べ物に限定すれば、食べてはいけないとされる物が、別の場面では薬として摂取され、また、それどころか、ある家(神職など)では禁忌の対象である食べ物が、他のおおかたの家々では大変なご馳走であったりする理由というものにも、少しく地上的ではない性格があるのではなかろうか。これをそのまま詩だとは言えないにしても、そこに連接してゆく性格がある、とまでは言えそうだ。
 最近柳田の『地名の研究』を読み返してみて思ったのだが、それは、われわれは抽象的な空間に符号のように点在しているわけではなく、あるひどく具体的な言語圏、風土、季節や気候の中に血を通わせていて、その取り巻く環境(milieu)の重要な項目に地名というのがあるのではないかということだった。このことは、一旦東京のような都市にいると往々にして忘れがちなことではある。
 われわれは自分の帰属先のヤカラ・ウカラを思い浮かべて、じぶんのことを一般的に日本人と称するが、たとえば英国人は、じぶんはウェールズ人である、じぶんはスコットランド人である、という具合の言をなすそうだ。よその国のことは調べていないのでよく分からぬところがあるが、少し前の日本人なら、熊谷二郎直実が武蔵国熊谷の人、新田義貞が上野国新田の人であること等は常識であって、地名と人の名(家の名)が切り離せないものであること、たとえば平家語りの、能楽の、あるいは浪曲での主人公の名乗りに同じである。
 これは歴史的に言えば、近代国家成立以前の人の帰属先というものを表現していると言える。いささか、ここでも性急な口吻をもってすれば、「帝国」成立以前の、クニが暴力装置としての巨大機械に変貌する以前の、もっと小さな単位で生活が成り立っていた地名たちというものの気配がそこにある。
 柳田によれば、地名の発生は最初は地点名ともいうべきもので、「黒岩とか二本杉とかいう類の狭い場所だけしかさしておらぬ」ものがそれである。同じものでも、それが「山の麓のやや続いた緩傾斜地」を意味する長野となると、「そこにお寺の大きいのが建って繁昌すると、後には市の名となって、谷陰にも大川の岸にも及び、さらには県庁が設置せられると、後には広い信州一国の県名とさえなった」。私の住んでいる横浜でも似たようなことがあって、京浜急行の各駅停車が停まる仲木戸という駅があるが、そこは東海道の木戸が置かれていた場所で、付近にカナガワ(上無川、金川とも)といわれる小川が流れていたのがそのまま宿の名や区の名となっている。もともとこの土地、江戸の開国にあたり、アメリカ領事館等西欧人のさかんに往来する、政治経済上の重要地点となったせいでもあったためか、明治の改元の折に早々と県の名にまで拡張せられて今日に至っている。
 つまり、京都とかそれに関係する人工的な名づけである東京、外国で言えば王城の名そのものであるソウルや北京、サンクトペテルブルグなどは別として、ローマとアルスター、柏と横浜と岩手に差異はあっても大小優劣のヒエラルキーは何ら存在していない。長野は本来あくまでも「山の麓のやや続いた緩傾斜地」であるのだ。ここでよくよく考えなくてはならないのは、それらのすでに出来てしまっている差等を無にするのではない、けれど、いつだって、今ここでさえ、存在しているたとえば柏と横浜と岩手が、みな契機としては平等に抱懐する可能態のようなものについてだ。
 たとえば、江戸のころにも当然都市と農村の格差はあったけれど、重要なことはそれが地方と中央の格差のような形ではなかったことだ。これが、破滅的な現在とは違う点だ。医者でも儒者でも絵師でも、江戸期には肥前長崎には誰それ、備前岡山には誰それ、摂津高槻には誰それといった具合に、名だたるオーソリティは各国に分散して住しており、現在のようにほぼ東京一極に集中するということはなかった。学びたい者はそれぞれ旅をして、彼らに会いに行ったのである。可能態とは、このパラレルな分散がモデルとなる、江戸と岡山と長崎と高槻の、大小優劣のない、潜在的な絶対的平等状態のことをさす。
 これを来訪される側の地方からすれば、自らの土地や集団、職掌、社稷に誇りを持てたと言えるのである。私の見るところ、地名に付随し、かつ人が外部集団に向かってする、古代から続く「名乗り」、それは一種の神の顕現であるという性格により、却って普段は絶対実名を明かさないが、それが形式として最高度の成熟を見せたといえるのが、封建といわれるこの江戸期にほかならなかった。私の家では現在でも親戚のことを、名で呼ぶことにあまり意義が感じられないので、八王子のとか、宮城のとか、名古屋のとか、呼ぶが、これなど「名乗り」の一種でありながら、地名の陰に実名が隠れてしまった例といえる。
 こういった事例にかこまれて、われわれは世界内に存在する理法を感じることができるのだが、古代の歌謡や長歌、短歌、中・近世の連歌俳諧の中に詠じられた山川の名、海浜の名、それらをふくんだ歌枕などは、大げさでなく、数千年にわたってわれわれの詩になじみの深いものだったのである。志賀の海に、と言い、石見のや、と詠ずる。このときにまず第一に土地=地名であるべき実在に、人は、詩を理法としつつ繋がれたのである。だが、詩の近代はこのことを絶えず無化する方向の中にあった。即ち、近代がもたらした、都市=中央のあまりの偏奇な栄えと地方の破壊的な衰退が、詩から地名を奪っているのだ。
 他方、おもに関西地方に無数に点在する、天皇直属の部民であったり、寺社の神人集団だったり、職掌集団であったりしたところの集落差別の領域にも、このことは踏み入ることになるであろう。志賀の海に、と言い、石見のや、と詠ずる、と書いたが、こういった世界内の実在感と帰属感は、裏返せばそのまま、差別にまつわる実在感と帰属感に連接してゆく気がする。さらに、詩と差別の問題は深く相関している、との予測も立つ。
 ひとつ、言えることは、この問題には神のことと詩のことが切り離せず、さらに信仰のことと社会的役割のことが骨がらみになっていて、この深層が表層に、表層が深層に、裏返っているごとき状態を冷静な認識のピンセットで弁別してみることが第一。第二には、詩によってのみ可能な、地名の地形への還元というか、地名を地形と相等なものとする、大小優劣のない絶対的平等状態への構想力を提起しておく。これにより、区域はかぎりなく小面積で、地名はかぎりなく多くなるか、あるいは、一区域に地名一つ二つという少数になってゆくか、地形の事情によってどちらかに別れてゆくであろう。
 いずれにせよ、マチが野を圧倒するのでなく、野の中にマチが点在して見えるような光景があって初めて、真の、誇りうる、地名にかかわる詩が出現できるのだということを強調しておきたい。


「COAL SACK」61に掲載  
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Sep 03, 2008

詩を読む

近藤弘文「膝を抱えた」について


 詩論というのでは大げさになるが、「SPACE」no.81に載った近藤弘文の詩の、感想のようなものを書きたい。さいきんの近藤の作品の常ながら、作品のボリュームは小さい。「SPACE」に載った「膝を抱えた」は見開きにも満たない、16行という分量なのだが、以下に示してみる。


膝を抱えた

そのとき
わたしからはなれる声の虚が
としての雨上がりの空に
ひび割れた光が散っていて
かえせよ
みあげた子宮の活字は
に無の網膜を諳んずるだれかの
膝を抱えた
あ、蜻蛉
破水の墨でひいた暗がりを
はあかごの籠に
を刻印するでしょう
のそこに座る
、ということが
やまないんだね
光の膝


 まず気づくことは、句意、文意といったものが、走査線のように入った意図的な断裂によって飛散しているという印象だ。ふつう、一文の文意は、最初に名詞か、あるいは名詞化された分節(文節)から語り出され、読点のつくような箇所で指向性を帯びた空白を抱きつつ句切れをし、句点のつくような場所に(空白の)問題解決的に着地する。本来、分節の末尾に接続すべきこの指向性を帯びた空白が、文の頭につくようになっているのがこの作品をひどく特徴づけているところである。文の頭に名詞や副詞や形容詞・動詞がつくといったふつうの構文ではいわば「頭でっかち」の文となるところが、この作品では逆に頭が削がれていて、文の実在感が非常に希薄になっているのだ。
 他方、「としての」「に」「は」「を」「の」「、」といった行の頭に来る不安定的な指向性の品詞群を除いて読んでも、ほぼ、詩としての体裁を失わず、出来の如何を問わなければ、まったく安定的に読み進めることが可能だ。批評家の阿部嘉昭みたいだが、私も真似してちょっとした操作をここに加えてみよう。


`膝を抱えた

そのとき
わたしからはなれる声の虚が
雨上がりの空に
ひび割れた光が散っていて
かえせよ
みあげた子宮の活字は
無の網膜を諳んずるだれかの
膝を抱えた
あ、蜻蛉
破水の墨でひいた暗がりを
あかごの籠に
刻印するでしょう
そこに座る
ということが
やまないんだね
光の膝


 気の抜けたラムネのような味わいになってしまったのは如何ともしがたいけれど、ここで明らかになることは、読点・助詞・格助詞・連語などが行頭に来ることによって生じる半ば無理やりな不安定感こそが、作品「膝を抱えた」の要諦にして琴線であるということだ。
 こういう挙になぜ出たか、私にはよく分かるような気がする。近藤は、担保することを求める言葉、回収することを求める言葉、食べることのできない言葉強迫する言葉生きていない言葉から逃れようとして、非・意味の無数の走査線を担保的な言葉や現実の表面にはしらせ粉々にし、却って言葉でないところから言葉の真の意味を追う、といった、いわば絶対矛盾的自己同一のような冒険に出ている、と私は見る。自由な世界へは、叩き壊さなければその先に行けない、といった遍歴が必要となる。このとき、叩き壊すこと自体に自由の匂いがたちこめることがある。これは私の言葉だが、ここで「前衛」に堕すか、それとも「前衛」を超えたところに行くか、危険な岐れ路だといえよう。
 じっさい私にも覚えがある。措辞を敢えて破壊するというつもりはないけれど、構文を末端から揺るがし罅割れさせていって根幹に迫りながら、新しい意味が出現してくるのを俟つ、という詩の作り方をしたことが私にもあるのだ。近藤はサミュエル・ベケットに深い関心があるようだが、私も若いころ、翻訳でその小説『モロイ』や、当然『ゴドーを待ちながら』を読み、そのきわめて冷血で空白的で散乱した言語のうちに、散文的文法ではなく明らかに「詩法」の自由の空が拡がるのを感じた。ただ、近藤と私が異なる点と思われるのは、私の場合積極的にその空へ突き進むべき肯定命題が感じられたのに対し、近藤の場合は担保でも回収されるのを促すのでもない、時空の逃亡師としての言語をベケットに見ているのではないか、ということだ。素質の違い、と言っても、時代の違い、と言っても、どちらも違うような気がする。
 ところで、詩「膝を抱えた」の構文を逆に見ると、「頭削ぎ」の行頭それぞれ1語くらいにすぎない品詞を取り除けば、詩の言葉自体は実になだらかな日本語ではないかという印象を私は持つ。詩風はむしろセンシティブでやわらかい抒情詩だ。同じく「前衛」的な、次の詩の断片とくらべてみるとそのことはいっそうはっきりする。


三角形の多い土地で、美術館は瞋っている。絵画は音符を並べている。来館者は休止符である。建築のもっとも美しい角度ともっとも醜い現実が、休止符の中に堆積してゆく。音符は他の音符を切り刻み、音符の破片は菌糸として美術館を伝導する。せりあがった彫刻たちは音符の表面に囲まれ、音符の先端は彫刻を貫通し彫刻の影に紛れ込む。僕は音符と休止符を演奏する。なぜならば僕は三角形だからだ。
              (広田修「探索」現代詩手帖2008年8月投稿欄より)


 近藤は「なにぬねの?」というSNSで、彼の愛するたくさんの戦後詩を紹介する欄を持っている。彼の年齢にしては実におびただしい作品を「所蔵」しているのだが、あるとき彼も交えて何人かで酒を飲んだおり、近藤が、これら多数の作品や詩人のことを通時的に考えたことは全くなかったと言ったのにちょっとした驚きを覚えた。詩史論というものを自分は持たないのだと。では、もし詩史論が「物語」に過ぎないとすれば、われわれの寄る辺はどこにあるのか、という戸惑いを、この発言に感じる一方で、これは詩史論という呪縛から逃れて、自由への入口に立つものかも知れないと考えた。このとき、比較のために引いた、修辞としては非常に美しい広田修の作品にくらべて、近藤の抒情性が別の何かしら新しいもののように際立って見えるのである。詩の構文の散乱的なビューは、「ひび割れた光が散っていて」や「光の膝」という行がキーワードであるごとくに、この16行を、般若心経や陀羅尼といった「経文」のような見かけのもとに光被しているのだ。
「子宮」「破水」「あかごの籠」と、嬰児や幼児のイメージが顕著だが、これは、たとえば、外界に対しては暴力的なまでの修辞によって守られるべきもの、という寓意があるような気がする。守られるべきものとは詩であり、あるいはそれを書く詩人自身でさえあるのではないか。少なくとも、「膝を抱え」るのは余人ではないと思う。そこにあるのは詩についての詩、己を風景と見るまでの、自分に対する分裂的なまでのまばゆい愛だ。近藤弘文の現在の「詩」はここにある。さしあたって似た資質、個性の現代詩人を考えると、高貝弘也あたりが思い及ぶに近いところか。
 そうなると、「あ、蜻蛉」は、「あ、トンボ」ではなく、「あ、アキツ」と読みたい心が動いてならないのだが。

                                   2008/09/02
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