Jun 03, 2008
下手に説明するのはまずい。創作ってそうだよな。
先週土曜日。大阪文学学校にて小池昌代さんの特別講演があった。小池さんの詩は昔1冊読んだ。『もっとも官能的な部屋』だったと思う。
なんか馬の詩がよかったなあという漠然とした気持ちがある。なんか良かった思いがある。当時のガールフレンドが読んで「これは面白い」か「面白くない」といっていたような。しかし、面白いと面白くないでは、全く意味が反対になってしまう。
それくらいあやふやな記憶であるが買って読んだのだから、もしかしたらかなりいいと思ったのかもしれない。その頃は詩集というのはまだ私にとって遠いものだった。
小池さんは「大地母神」の「力」の作用を受けているようなことをいっていて、しかしレジュメに載っていた詩は大変すっきりしていたのであった。ドロドロの逆で、少し味が足りないくらい「カテゴリー」的な言葉の整除された配置であった。彼女は、ねじめ正一に仮託して「小説を書いてから詩を書くと言葉が薄くなる」といっていた。 この言葉に一瞬同意して、しかしすっきりしないものがあった。何か体感的なことを言っているようで、どうも言葉から何がしかを引き出そうとする手つきが見えるような気もしたのだ。
言葉が薄くなるってのは、なんとなくわかる。僕のように小池さんほどキャリアがなくてもである。しかし、言葉が薄くなるのではなくて、言葉が何かから剥がれていくために薄くなるのであり、そこで言葉との関係の変化があると思うのだ。つまり、言葉との関係が薄くなっているのだと思う。
私には理解不足なのか、イマイチ散文への移行の意味が計りかねた。それは私がひねくれているのかもしれない。しかし、彼女の話は非常に整理されたスキームに乗っているようで、そこで予め決まっているものが多すぎる気もしたのだ。
若いと過剰であるから、ねっとりと意味を込めようとする。すると独自の濃い密度と呼吸で書かれるように思うのだ。しかし、何か異なる理由でその過剰が埋まるかあるいは、埋めることを諦めるとねっとり感は減る。
しかし、そういう場合でも薄くなってもかまわないのではないかと思う。
籠めるものが少なくなるのは別に変ではない。しかし何かが変わったのである。それは少なくとも小説を書いたからという形式の問題とは別のようにも思える。
私たちは簡単に「薄くなった」といってしまうが、書く位置の高度自体が変化すれば酸素濃度は変わるとか。私は詩より先に小説を読み、で、小説は書けず・書かないで来てしまった。だから詩に没頭して詩を書き始めたのではないから、どうも感覚がちがうのかもしれない。
しかし、そういう始まりの問題は大事である。また、高見順のように詩を書いたり小説を書いたり、それは小熊秀雄や賢治やタルホもそうかもしれない。そういう人たちのことは「詩と小説の往還」というタイトルに関わらず触れられていなかった。やはり歴史の話は大事だと思う。
小池さん自身「言葉の薄さ」でいおうとしたものを諮りかねているのかもしれない。しかし、それは小池さんの言葉との関係がどこかで掛け違っているからか、私が小説を書いていないからか、どっちかわからない。
しかし、私はどうも小池さんがもう言葉に住まわなくてもいい状態を達成しているのかもしれないような気がするのである。にもかかわらずレジュメに載っていた45文字という小説の抜粋や、「タタド」という小説の抜粋も良いように思えた。彼女は、最後のほうで「現代社会に疲れた男は女になってもいいのかもしれない」といっていた。女の叡智みたいなものが男を救うといいたいのだろうか。しかし、正直女の方が存在の真理に近いみたいな非常にずっこけた感覚に聞こえた。どっちが近いということでもないだろうに。
もしかしたら、そのような乱雑な実体化があって、それが実体化や造形化だけに括れない詩から彼女を遠ざけているとしたら。そういう暗澹たる思いもしそうだった。どうなのだろう。詩も小説も言葉によるところが多いのだから、聡明さが、聡明さがおびき寄せる整理が言葉を軽くしてしまっているのだろうか。
やはり下手にするする説明するのはまずい。創作ってそうだよな。
しかし朗読はとても良かった。ある種の美しさ・凛質がある。優等生の女の人に感じる色気といおうか。(そんな反応の仕方しかできないのが我ながら情けない)「ねじまわし」という詩の「からまちま」という言葉が旋回する感じよい。しかし、言葉がからまわりするのはイヤだといっていたがどうしてそうなのか。いやからまわりするのはイヤだけどどうしてそう感じられるのか。結局私にとっても課題であるかも知れぬ。優等生的なものをどう脱出するか。
結局こういう問いは自分に跳ね返るわけだが。
*
講演後に小説を書いているFさんや、以前読書会でご一緒したMさん、Kさん、Hさんと挨拶した。京都のYさんとも話す。みんな三々五々に帰っていった。河上さんとぼーっと立っていると細見和之さんがあらわれた。細見さんは私たちのクラスのチューターだった。細見さんは、ぼけーっとしている河上さんに元気がないぞ!と抱きつき、私に向かって「tab面白いよ」といった。うれしかった。
そのあと河上さんと彼女と私で飲んだのであるが、飲んでぐーすか寝ていたら、夜中の三時に気分が悪くなって目覚めた。そんなに飲んでないのにおかしいなあ。
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