Apr 18, 2008
浪をくりかえすのは-中野重治の「浪」を考える
浪 中野重治人も犬もいなくて浪だけがある
浪は白浪でたえまなくくずれている
浪は走つてきてだまつてくずれている
浪は再び走つてきてだまつてくずれている
人も犬もいない
浪のくずれるところに不断に風がおこる
風は磯の香をふくんでしぶきに濡れている
浪は朝からくずれている
夕がたになつてもまだくずれている
浪はこの磯にくずれている
この磯はむこうの磯につづいている
それからずつと北のほうにつづいている
ずつと南の方にもつづいている
北の方にも国がある
南の方にも国がある
そして海岸がある
浪はそこでもくずれている
ここからつづいていてくずれている
そこでも浪は走つてきてだまつてくずれている
浪は朝からくずれている
浪は頭の方からくずれている
夕がたになつてもまだくずれている
風が吹いている
人も犬もいない
*
タイピングすると僕のパソコンは使用した変換とか文章を記憶 するので、ある意味うつのが楽だ。
しかし中野重治は手書きで書いたはずでどんな気分だったんだろうな。
ぼーっとしてるように見えるんだが けっこう冷え冷えとした熱いものが(語義矛盾だが)
高まるんだけどすぐに崩れるような。
海というと小説では安吾を思い出してしまった。
「私は海を抱きしめている」ってあった。
でもなんとなくドラマチックである。
しかし中野重治はドラマを拒絶してもっとどうしようもない
反復の風景に出来事を見ているような気がする。
「くずれている」の意外に起伏に富む繰り返し。
イタロ・カルヴィーノが「パロマー」という小説を書いている。
主人公の元インテリっぽいおっさんが海をぼーっとみつめて
形而上学的な思索をする。カルヴィーノはレジスタンス活動の中に
いた人で、中野重治との関連もいえなくもない。
パロマーの主人公は海の波に幾何学的な何かを見るわけだが…
中野重治の記述は大またで書いている。
じっと観察するよりはもっと「見えてしまっている」
もっと「聞こえてしまっている」
そのことをそのまま書くと恐いなあと感じる。
ただし中野重治はきっと韻律をこの詩でもかなり深く考えている
ように思える。いいぐあいに繰り返しに変な引っかかりがあるのだ。
連想したのは童謡の「海」である。
海は 広いな / 大きいな / 月が のぼるし / 日が しずむ
海は おおなみ / 青いなみ / ゆれて どこまで / つづくやら
海に おふねを / うかばせて / 行ってみたいな / よそのくに
意外とこの歌に通ずる無限の感覚があるような。
この歌はもっとふわふわしているが。
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