Jun 25, 2006

佐々木幹郎の語る「中原中也」

06-6-24cat

 二十四日、横浜詩人会で行われる定例セミナーとして、今回は佐々木幹郎による「中原中也」の講演と、中原中也と小林秀雄との間にいた女性「長谷川康子」のドキュメンタリー映画「眠れ蜜」の上映(上映時間は約三十分。)という企画であった。場所は神奈川近代文学館。

   まず映画の方ですが、この映画は一九七六年、佐々木幹郎脚本によって制作されたもので、その時長谷川康子は七十歳、映画が出来上がった時には七十二歳となっている。康子はその五十年前に「グレタ・ガルボに似た女」という募集にトップで通過した女優ではあったが、その後の活躍の足跡は見出しにくいようだ。
 これはまだ二十代だった佐々木幹郎の描き出したかった「康子」だということで、そこから先はあたしの想像力で飛ばなければならない。その手掛かりとして、老いた白く細い指を絶えず拭っている康子。アランフェス協奏曲に合わせて、観客のいない舞台で踊る猫背気味の康子。その踊りはフラメンコに似ているが、これは康子の即興によるものらしい。靴は履いていない。でも素足ではなかった。頭髪は一貫してスカーフで包まれていた。そんなところかな?

 長谷川康子が稀有な女性だったとは思わない。金子光晴夫人をちょっと連想したりしたけれど、康子は「創作者」ではない女性としての生涯だった。歴史上、美貌の女性は自らも周囲の人間も波乱に巻き込むという例は多々あるが、そこで括ってしまっても陳腐。「愛し方」なんてことを書き出したら、それこそとりとめがないので、あたしのなかにしまっておく。

 次は講演だが、その映画を踏まえながら、中原中也、長谷川康子、小林秀雄を佐々木幹郎が語る。佐々木自身『中原中也 悲しみからはじまる・二〇〇五年九月・みすず書房刊』を出版したばかりだ。この佐々木幹郎の講演(著書もどうやら、そうらしい。未読。)の裏づけとなったものが文献よりも、今まで世に出ることのなかった写真や、手紙、証言などによるという別次元の働きかけによるものが多いようだ。

 佐々木幹郎は熱い詩人である。夭逝した詩人「中原中也」をその後の詩人は誰も超えることはできないと断言する。詩人とは「努力」や「学び」ではない、ましてや「賞」や「名声」でもないと。あたりまえである。でも、あたしは「天性」という言葉は信じてるのよ。ただ神様の「天性」と「美貌」の配り方が不平等だっただけよ。ちっこいあたしには神様は「天性」も「美貌」もちっこいものしか下さらなかったのさ。ふん。
Posted at 14:41 in nikki | WriteBacks (7) | Edit
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