Dec 21, 2007
となりのカフカ 池内紀
「池内紀」はドイツ文学者。エッセイスト。ゲーテやカフカの翻訳者でもある。この著書は「カフカ初級クラス」向けのカフカ論であって、とてもわかりやすい。悪い夢に出てきそうなカフカ・イメージを解体して、カフカを身近な人間存在として持ってきたという貴重な本と言ってもいいかもしれません。
カフカは一八八三年七月三日、チェコのプラハで生まれる。(わたくしと誕生日だけが同じです。)チェコ国籍。ユダヤ人。小説はドイツ語で書くが、チェコ語ももちろん話せる。一九〇八年、二五歳のカフカは「ボヘミア王国労働者障害保険協会プラハ局」に採用される。幹部は全部オーストリア人、ドイツ語を使用した。「書記見習い」から「書記官」になった有能なサラリーマンだったと言える。
二十世紀到来とともに、工場の近代化がはじまり、工場労働者の事故は多発する。「労働者障害保険」の先駆けの時期と思われます。
カフカの勤務時間は午前八時から午後二時まで。家に帰ると自室にこもり、睡眠不足になるほどに執筆に集中したと思われます。壁の薄い家で、家族の声や日常の音に囲まれながらも、唯一個室を持った長男カフカの執筆は続きます。しかし病弱なために、仕事を休んで転地療養を何度か繰り返しています。そのような時でもカフカは執筆することは休まなかったようですね。
また勤勉な書記官としてのカフカには、いわゆるサラリーマンの憂鬱や嘆きのようなものが作品に投影することがなかったように思います。仕事と執筆とのストイックとも見える生活ぶりは、カフカにとってはごく自然なものだったのではないか?小説世界での奇異性は、カフカの夢の中の世界から生まれているようですが、それを単純に夢判断的に解釈することもはばかれる。これらはすべてカフカ自身の淡々とした精神世界だったように思われます。
カフカの度重なる婚約破棄、あるいは恋愛遍歴は有名なお話ですが、カフカの四十一年の生涯は、結局「新しい家族」を持つことはなかった。これはユダヤ人としては決してよい生き方ではなかったということです。ユダヤ人はみずからの宗教を強固なものとして定着させて、広めてゆくためにはユダヤ人口を増やすことに力を注いでいたのですから。
カフカが生きている間に本となって世に出たものはわずかな「短編小説」だけでした。「死んだ後はすべて焼却するように。」というカフカの遺言を「誠実に裏切って」友人はすべての日記や小説を整理して、世に送ったために、わたくしたちは、長編小説を含めてのカフカ小説を読むことができたのです。日記と小説はノートに混在して書かれていたものも多く、主人公が別の小説の名前と入れ替わっているという混乱すらありましから、カフカのよき理解者がいなければ、これらは形をなさなかったのかもしれないとさえ思われます。
また、たくさんの恋人にめぐりあったとしても、カフカ文学の寛大な理解者はそこには一人もいなかった。それは大きな哀しみのように、わたくしの心に残りました。
(二〇〇四年・光文社刊)
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