Aug 10, 2007

取り替え子・チェンジリング  大江健三郎

batu

 自死した映画監督の「吾良」がカセットテープに残した、主人公の作家「古義人」へのメッセージを聴くヘッドホンを「古義人」は「田亀」という昆虫の名前に例えていますが、これはともに少年期を過ごした村にいた、ごく見慣れたものだったのでしょう。なるほど旧式(?)ヘッドホンの形に似ています。わたくしはこれを昆虫であることさえ知らずに「デバガメのもじりですか?」と思ってしまい、なんとも奇妙な読み出しでした。すみませぬ。以後、「古義人」はすべてヘッドホンを「田亀」と呼んでいます。

 確認のために、対談集「大江健三郎・再発見・・・二〇〇一年・集英社刊」のなかの、井上ひさし&小森陽一&大江健三郎の対談のなかで「田亀」を理解した次第です。「田亀」は「田鼈」とも表記されます。小森氏は「鼈=すっぽん」というところまで想像を拡大しています。実際に小説の中ではベルリンから帰国したばかりの「古義人」が、読者から送られてきた「鼈=すっぽん」とキッチンで大格闘する場面がありますが、大江健三郎にはそこまでの拡大した比喩ではなかったということでした。

 そして「古義人」の「田亀」との対話は、ベルリンへの旅の前まで続きました。ベルリンからの帰国後は「吾良」の映画化されなかった「シナリオ」と「絵コンテ」に移っていきます。それは登場人物が「古義人」を中心とした、周囲の人間がモデルとなっています。

 しかし途中から、なぜタイトルが「取り替え子・チェンジリング」なのか?という疑問(愚問?)になかなか答えが見出せないという焦燥感に陥りました。大江健三郎の小説は一見私小説のように見えますが、実はまったくの小説なのです。惑わされずに読まなければ、わたくしたちは大きな過ちをおかすことになります。さらに現実には、大江健三郎が障害者の父親であるということを前提として読むことも控える方が懸命な読者となるだろうと思います。彼はあくまでも小説家なのですからね。

 最終章に入って、ようやくそのタイトルの意味が浮上します。「古義人」の妻「千樫」は「吾良」の妹です。「千樫」は「古義人」を父として「吾良」をふたたび我が子として産もうとしていたのだという思いがあったことに初めて気付くのでした。そのきっかけは「古義人」がベルリンから持ち帰った、彼がセミナーのテキストとして取り上げた「モーリス・センダック」の絵本と、みずからの少女期(母、「吾良」弟妹を含めた)にあまりにも深く重なったからでした。以下は引用です。

 『古義人と結婚して最初の子供が生まれるのを待っている時、千樫が考えたことは――これもいまセンダックの絵本を読んだことで初めて妥当な表現を与えることができる。アイダのような勇敢さでふるまって――本来の吾良を取り返すと同じことをしよう、ということだった。私がお母様の代わりに、もう一度、あの美しい子供を生もう。(中略)しかし古義人は私の企てのなかで、どんな役割だったのだろう?そう考えて、千樫は答えを導くことができなかった。』

 ここから「吾良」の自死は「古義人」から「千樫」の心の喪失の問題として移行してゆきます。これが「取り替え子・チェンジリング」なのです。これに加えて、ベルリンにいた時に書いた講義録のなかには、少年期の「古義人」の記憶が書かれています。それは医者すらも希望を失ったほどの状況から救いあげた彼の母の言葉がありました。

 『――もしあなたが死んでも、私がもう一度、生んであげるから、大丈夫。
  ――・・・・・・けれどもその子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?
  ――いいえ、同じですよ、と母は言いました。あなたが私から生まれて、いままでに見たり聞いたりしたことを、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。』


 読者としては、「古義人」と「千樫」との長いこころの道のりを歩いてきたような気持でした。小説家として生きること、その傍らに生きること。それ自体が至福であり、かつ受難ではないか?

 (二〇〇〇年・講談社刊)
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